アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅻ

 

   6 

 

 黒い緞帳の森に漂う少し埃っぽい乾いた匂い。ペンライトの僅かな光を追って立てる足音は吸音パネルと防音壁に呑み込まれ、まるで深海の底を歩いてるよう。


 ―――La-La-La-LAAAA


 ほんの数メートルにしか離れていないはずなのにその歌は世界の果てから響くようでした。

 緞帳の森を抜けた先に広がるぽっかりと開いた空間。

 私たちは世界と世界でない場所を繋ぐ、「舞台袖」という境界線に立っています。


 ―――La-La-La-LAAAA


 舞台は黄昏色に染まった霧で覆われ、霧の先には“ここではない”薄闇が広がり、舞台せかいに立つ者をただ静かに見つめています。


「―――お姉ちゃん」


 呟きが漏れたのが先か、歌が止まったのが先か。示し合わせしたように舞台の上は静寂に包まれました。

 耳が痛いほどの沈黙。潜めるような息遣いも時折漏れてしまう空咳もここでは何も聞こえてはきません。照明によってキラキラと輝く光のカーテンの向こう側は迎えるべき主賓を失った空席が荒野のように広がっています。

 ぽっかりと広がった空席は心に開いた穴と変わりありません。たとえどんなに素晴らしい歌であろうと、聴いていただけるお客様がいなければ舞台は舞台としての意味を失うのです。


「あんたのお望み通り来てやったわよ!」


 香凜さんがある種の昂揚感とともに一歩を踏み出します。

 その見えない境界線を踏み越えたとき、我儘で少し困ったお客様であった「村上香凜」という女性は解体され、「ナイフを持った黒い服の女」という新たな登場人物が舞台の上に生まれたのです。


「もう、終わりにしましょう」


 銀色に鈍く光る切っ先の向こうに“魔女”は独り立っていました。


 ―――ねえ、私のことを忘れないで


 長い黒髪が美しい女性でした。腰まで真っ直ぐ伸びた髪はふわりと靡き、頭の上には白く輝く天使の輪が浮かんでいます。そして、僅かに身じろぐ度にその輪の光沢は海中で揺れる草原のように音もなく動くのです。


「…………忘れられる、ものか」


 キャミソールワンピースは破れ、切り裂かれ、肩ひもは今にも切れてしまいそう。かつては青だったかもしれないリボンは鈍い紫色に変色していました。


 ―――大丈夫、大丈夫だから


 返り血一つない完璧な顔に浮かぶ天使としか形容できない微笑。

 “魔女”は女を抱きとめようと両腕を広げるとぎこちなく歩を進めました。一歩ずつ、また一歩ずつ―――。貰い物の肢が壊れてしまうその前に―――。


「…………いや、来ないで、私は……香凜は…………」


 白い刃が細かく震え出すと次第にそれは大きくなり、やがて彼女自身の体を切り裂こうとするかのように鈍い白い残像が揺れます。そして、振り子のように揺れが収まるとナイフの先端は心臓の前でピタリと止まっていました。


「いや、いや、いや、いや、いや、いやあ!」


 かけがえのない親友だったはずのその“誰か”は微笑みながら黒い服の女にしか聞こえない声で囁きかけます。


 ―――いいよ、と。 


 ナイフの切っ先がするりと身体に吸い込まれていきます。まるでそうなるのが自明だったかのように。僅かな力さえも必要なく、泡の中に溶けていくように―――。


 カチン


「…………えっ?」


 場内に響く金物めいた音。どこか場にそぐわないその音は舞台せかいの上では殊更奇異に聞こえ、現実感リアリティが急速に失われていくのを肌で感じました。


「…………鏡?」


 霧が晴れた舞台の中心に鏡が一基置かれていました。

 しかし、白雪姫に出てくるような時代めいたものではありません。家具屋さんに行けば大抵売っているであろうキャスターの付いたシンプルそのものなスタンドミラーです。抽象劇やある種の現代劇であれば想像力の補正でどうにかなったでしょうが、設定や流れを無視して突然現れたそれはよそよそしさを―――大道具さんが置き忘れたとしか思えないような―――隠しきれません。

 ミラーの鏡面部分、驚愕に染まった香凜さんのちょうど心臓に当たる高さにヒビが入っていました。そして、そのヒビとキスするようにナイフの切っ先が。傍から観ている分にはわかりませんでしたが、力としては相当なものだったようです。


「なにこれ」


 自分の似姿が殺されている絵面の禍々しさに不快感を覚えたのでしょう。香凜さんは投げ捨てこそしませんでしたが、ナイフを放り出しました。

 そして、私は何も言わずにそれを取り上げたのです。


「…………ねえ、お姉ちゃんは? お姉ちゃんはどこに行ったの?」

「…………そ、そうよ! あの子は? あの子はどこに消えたのよ!?」


 中心に立つスタンドミラーの傍らには抜き身のナイフを持った私、その私を取り囲むように二人の女性が見つめています。おやおや、この構図は―――。


「ふう、どうやらスポットライトの中心に立ってしまったようですね。これはいけません。今の私の役割はカーテンコールを受ける俳優ではなく、カーテンコールを満喫されたお客様をお迎えする係員なのに」

「彼方さん、どうしたんですか?」

「館長代理が急に頭がおかしくなったわ」


 でもまあ、たまにはいいでしょう。

 事件の終盤で場の中心に立つのは基本的に二つの役どころしかありません。

 一つは“真犯人”か、


「お二人が探している人はここにいませんよ。いえ、そもそも『碧海あみしんじゅ』という魔女は最初から存在しないのです」


 あるいは、事件の真相を明かす“探偵”か―――。



「―――はあ? あんた何言ってるの? 本当に頭がおかしくなっちゃったの!?」

「いえいえ、『境界』の魔女なんて最初からいませんし、事件はそもそも何も起こっていないのです、ですよ」

「まさか。そんな都合のいいことが―――」

「あります。だって、ここは舞台ですから」


 どんなに目を背けたくなる悲劇だろうが、細胞の隅々まで多幸感に包まれるようなハッピーエンドであろうが、終演の幕が下りてしまえば元通り。舞台というものはそういうものであり、だからこそ、舞台は素晴らしいのです。


「いやいや、あんなものが演出であってたまるものか。ロビーに溢れるほどいた観客が泡になって消えたのよ?」


 そう言うと香凜さんは誰もいない観客席を指さしました。舞台照明の照り返しと足元の案内灯だけが光る座席には人の姿はおろか手荷物などの痕跡すらも見受けられません。それはまるでお客様を入れる前の通し稽古ゲネプロであるかのようです。

 事実を告げる直前、泡となって消えていくお客様の姿が脳裏によぎりました。忘れたくても忘れられない悪夢そのものの風景。


「場内にはお客様は最初からいらっしゃいませんでした。それどころか今夜は公演そのものがのです」

「あんたは“アレ”をなかったことにするの!? はん、それが魔女のやり方ってわけ?」


 どうやら科学捜査では魔法を証明できないことをいいことに私が知らぬ存ぜぬを決めたと香凜さんは思い込んでいるようです。悪の館長代理兼支配人代理というのも悪くはありませんが、それは無理な話です。数百人規模の人が失踪したことを隠蔽するにはこの町の監視カメラの数は多すぎます。それこそ魔女W協会Aのオババたちのように町ごと消滅させるぐらいのことはしないと世間を納得させることはできないでしょう。


「彼方さん、それはおかしいです。じゃあ、ここに立っている香凜さんは? 香凜さんはこの事件が現実であるという証拠なのではないですか?」


 透火さんの指摘にはあえて答えずに私は香凜さんに向き直りました。


「香凜さん、一つ質問してもいいですか?」

「何よ」


 人形めいた顔の眉間に深い縦皺が刻まれます。それから数拍を置くと香凜さんはかぶりを振りました。



 その答えを聞いて無意識に頬が緩んでいたのでしょう。二人はとても不審そうに私のことをを見ました。


「彼方さん、その質問にはどういった意味があるのですか? 開場時に私はお客様に引換券以外のものを手渡した記憶はありません。そして、それは他ならぬあなたの指示です」

「実はですね、白猫座では公演に来場したお客様にご入場時にとても素敵なプレゼントを渡しているのです、ですよ」


 私は制服のポケットからその“とても素敵なプレゼント”を取り出すと香凜さんにお渡ししたのです。


「これは……何?」

「見ての通り、ただのチラシですよ。本当はあと31枚あるのですが、あとでまとめてお渡ししますね♪」


 香凜さんの手にはあの「太刀川ヒロシ青春歌謡SHOW」のチラシがありました。ポケットに突っ込まれたままだったので無惨な折り目がついてしまっていますが、ちゃんと渡すべき人に渡せたのでまあ良しということにしましょう。


「???」


 とてもとても素敵なプレゼントとは32枚のチラシセットに他なりません。32枚もあるのでちょっとした短編小説ぐらいの厚みがあるそれは重くて嵩張ってお荷物そのもの。おまけにチラシのジャンルはバラバラ。プロレスの地方公演などまだいいほうで大手学習塾の公開模試や地元のジムの入会割引券なんてものも紛れているぐらいです。でも、どれも白猫座に現金収入をもたらしてくれる(私たちにとっては)すてきなプレゼントなのです。


「つまり、こういうことなのです。公演が一つ行われる度に1万枚以上のチラシが発生します。来場されていればもちろん問題なくそのチラシはお客様の手に渡っていたのでしょう。しかし、お客様の存在しない“公演するはずのない公演”が行われた場合、1万枚のチラシはまるまる残ってしまうのです。あるいは、もしあの白い『霧』の魔法が、私たちの見た通り物質を泡にして消せるのなら隠すことなく私たちにチラシを配らせたのでしょうけどね」


 きっとエントランスホールには私と白亜が血と汗と涙で作り上げた74、591枚のチラシセットが納められたプラケースが今も整然と並んでいることでしょう。むしろ、倉庫に戻していただいていたなら感涙で咽び泣きます(紙は本当に重いんですよ)。


「だから、物理的矛盾を発生させないためにそもそもチラシなどなかったことにした。おそらく意識的に行ったのではなく、魔法による自動調整もしくは自動補正の結果なのでしょう」

「…………ちょ、ちょっと待って!」


 香凜さんの乾いた唇がわなわなと震え、呻くようにこう言いました。


「つまり、それをした“誰か”が、いるということ? でも、あんたはさっきこう言ったじゃない。『魔女はいないし、事件も何も起こっていない』って」

「事件は起きていません。しかし、“犯人”はいます」 


 その瞬間、香凜さんの視線が鏡に吸い込まれるのに気がつきました。まるでその“犯人”が自分の背後にいるかのように―――。


「今宵、『魔女の劇場』はありませんでした。なぜなら満月は明晩なのですから。でも、私と副館長は何者かによってその事実を忘れさせられ、今夜が満月だと思い込まされた。そして、“あるはずのない魔女の公演”に3名のお客様が来場されました」


 お一人めは―――人気のシンガーソングライターの仙洞せんどう片理へんりさん、

 お二人めは―――カリスマコスプレイヤーの村上香凜さん、


「そして、最後の一人は―――本田透火さん、あなたですね」

「私、は―――」


 チケットを紛失し、自分が魔女の幼馴染と語った少女は呆然とした様子で私のことを見つめていました。


「透火さん、犯人はあなたです。そして、あなたこそが本当の魔女だったんですね」


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