アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅹ
5
―――白い腕をあげて、つま先で立ちながら、床の上を滑るように。
―――足が床にさわる度に、するどいナイフの上をふむよう。
―――それでもお姫さまは、叫びたい声をこらえて踊りつづけたのです。
「―――私にはたった一人の幼馴染がいた。私たちはいつも一緒。二人で一人の存在だったわ。クソみたいな家で殴られたときも、誰もいなくなった公園で取り残されたときも、無邪気と無知をはき違えたサルしかいない教室にいたときも、世界中で彼女だけが私の味方だった…………」
どこか遠くを懐かしそうに哀しそうに見つめる横顔。“その人”のことを語る香凜さんの横顔は透火さんとよく似ていました。
「永遠に変わらない友情。そんなものがあるとはお互い思っていなかったけど、憧れてはいたんでしょうね。やがて、少しだけ大人になった私たちはそれぞれの方法で“永遠”を探した。私は
香凜さんは一人の男性の名前を口にされました。私は存じ上げない方でしたが、透火さんはどうやらご存知のようです。
「でも、その人は…………」
「そうよ、アンタが思っている通りよ。あの男は顔と金しか取り柄のないどうしようもないクズだった。人の気持ちをまるで察することができない、『君のことが好きだ』と言った次の朝には別の女を運命の相手とか思ってしまう。それこそ人魚姫の王子みたいにね」
「そんな、どうして…………」
「仕方がないじゃない。恋なんて所詮そんなものよ。事実として彼女は恋をすることで永遠を見つけた。これまで生まれ育った大好きな海が一抹の汚泥にしか思えないぐらいね。そこからはもう悲惨だったわ。彼女は彼のために何かも捧げた。心も身体もボロボロになっても! 何もかも失っても! それでも彼女は彼を追いかけたかった! 彼の近くにいれば自分が“永遠”になることができると本気で信じていたのよ!」
人の幸せは確かに人それぞれです。誰もその定義を押しつけることはできません。人生は自由であり、その人が思うその人自身のゴールを目指せばいいのでしょう。
でも、これは―――。
「私たちはある日再会した。あの女は私のことなんかこれっぽちも覚えていなかったようだけど、もしかしたら話せるなら相手は誰でもよかったのかもね。とにかくあの女は自分のしょうもない恋についてベラベラ喋ったわ。ホント、吐き気がするぐらい」
―――ねえ、私のことを忘れないで
香凜さんは一度息を吐きだすとそれから30秒ほど黙ったままでした。私たちはそれを黙って見守るしかありません。なぜなら………彼女の物語はもう“過去”のものだから。
「―――私は、違う、て言ってやったわ」
あなたは透明なんかじゃない。
なぜなら、あなたはこの世界に生きているのだから。
ぽろり、ぽろりとヴェールの上に涙の滴が零れていきます。
「たぶん私はあの子に嫉妬したんだ。永遠に憧れる姿が眩しくて。私は怖いから慣れ親しんだ海からいつまでも出ることができないから」
人魚だった少女は香凜さんの言葉を聞くと青痣と生傷だらけの肢をそっと撫でたそうです。まるで自分に残されたのは硝子を踏むような痛みを覚える出来損ないの肢だけかのように…………。
「あのときのあの子の絶望した顔が忘れることができない。どうしてあんなことを言ってしまったの? 香凜のたった一人の友達だったのに―――」
人魚姫の終盤で、“永遠”への道を閉ざされたお姫さまは尾びれを持つ姉たちから
―――王子を殺して海で泡沫の生を生きるか
―――そのまま泡になって朝日に溶けていくか
「―――彼女はナイフを使うことを選んだ。返り血で真っ赤になったあの子は笑顔でこう言ったのよ」
―――ねえ、これでまた一緒だね。
―――これでまた私は歌うことができる。
―――でも、どうして私の尾びれは元に戻らないの?
ガタガタと震えだすと喪服の娘は自らの身体を抱きしめました。
「…………まさか殺すとは思わなかった。思わなかった!…………別れろとは言ったわ。…………でも、だからって殺すことはないじゃないっ…………!?」
「香凜さん、落ち着いてください!…………失礼!」
ヴェールを上げると香凜さんの唇が真っ青になっています。汗まみれの肌は氷のように冷たく、呼吸もどんどん荒くなっていきます。これはマズい状況です。典型的なパニック発作の症状です。
「透火さん! そこの納戸にブランデーの瓶が入ってますので取ってください!」
「ハアハア……、私は逃げ出した。私はあんたのことなんか知らない。何もかも忘れて部屋に閉じこもった。でも、二日前、奇妙な封筒が届いた。中にはあのナイフと怪しく碧色に輝くチケットがあった…………あの子は香凜を許してなんかいない。愛する人を殺すためのナイフを渡した香凜のことを絶対に許したりしない!」
香凜さんの呂律がどんどん回らなくなっていきます。息は喘ぎ、時折激しくむせると背中が裏返るような咳ともに体の何もかもを吐き出そうとするのです。
為す術もなく、さりとてかける言葉はもっとない私はひたすら背中をさするしかありませんでした。そして、さすりながらぼんやりと考えるのです。この今にもポッキリ折れてしまいそうな細い背から感じる仄かな温かさははたして偽りなのだろうかと。
彼女の語る
はたして本当にそうなのでしょうか? あるがままの姿を知っていたからこそ、海の底で生き生きと歌っていた姿を愛していたからこそ助けたいと思ったのではないでしょうか? 美しい髪を対価に払った人魚の姫の5人の姉たちと同じように。
そして、何より違和感を覚えるのは―――。
「…………ハアハア、館長代理さん、これでわかったでしょう?」
「…………何がですか?」
「…………この事件の真犯人が私だってこと。魔女とか魔法とか香凜にはよくわかんないけど……、あの子が暴走するきっかけを作ったのは私。だから、事件の黒幕で一番悪いのは香凜なの」
なんて不器用な人なのでしょう。
この期に及んで偽悪的な笑いを浮かべる顔に忘れたくても忘れられない友人たちのものが重なります。やっぱり私はこの人のことが生理的に好きなようです。好きだからこそちょっと意地悪もしたくなるのかもしれませんね。
「この事件に犯人なんていませんよ」
「…………」
「犯人がいるとすれば全員です。登場人物全員の好意が今回はたまたま空回りして逆の結果になってしまったのですよ」
しかし、私の苦し紛れの仮説はあっさり鼻で笑われてしまいました。
「……ふん、何それ。白々しい。時計と髪の話かよ。香凜、そういうご都合主義は大嫌いなんですけど」
毒を吐けるほど元気になったのか、それとも毒を吐いて元気になったのか、どちらにせよ顔色が戻り始めた香凜さんは私の腕を乱暴に払いのけると床から立ち上がりました。
「おっ、酒じゃん。ちょーだい」
呆然と立ち尽くす透火さんの手からブランデーの小瓶を取ろうとした手を軽くはたいてあげました…………まったく調子がいいんだから。
「何なのよ、私は病人なのよ!」
「病人だからですよ。それはあくまで緊急時のものです。そもそも香凜さんはお酒が飲める歳なんですか?」
「おあいにく様。四捨五入でアラサーですぅ!」
「あー」
「おい、その反応はやめろ。殺すぞ」
昔、「歳のことで思い悩んでいるうちはまだまだ蕾ちゃん♪」ととある大魔女に言われたことがあります。彼女はそのときちょうど三百歳でしたから、彼女にとっては香凜さんと透火さんの年の差なんてまあ誤差ぐらいのものなのでしょうね。
「というか、本当にちょうだい」
「だから、ダメですってば! まったくさっきまで死にそうな顔をしていた人が何を言っているんです、ですか!? 今は安静にしてここで待っていてくださいな。そうだ、頓服薬はお持ちではないんですか?」
劇場というものは非現実を提供する場所ですが、そういった場所はとかく体調を崩すきっかけにもなり得ます。白猫座には看護師が在中していますが、そういった方の対応も係員の業務の一つでもあるのです。
「いいの! これから魔女に殺しに行くんだから素面でやっていられるかーっての」
「―――!?」
ゴロリと音がしてブランデーの小瓶が転がる音がしましたが、床を見ることはありませんでした。きっと透火さんも同じだったのでしょう。結局、香凜さんがいかにも面倒くさそうな様子で瓶を取り上げました。しかし、手には取ったものの蓋は開けませんでした。
「…………あの、どういう?」
「ふん、そのままの意味よ。ここを逃げ出すにはあの子をどうにかするしかないわ。あなたもそう思うからさっき私にああ言ったのよね? 若い係員さん?」
透火さんはビクンと体を震わすと射竦める視線から目を逸らしました。
「…………私はただ……お姉ちゃんと話し合って……」
「なに甘っちょろいこと言ってんのよ 呆れた。まだ話し合いが通じる相手だと思っているの!? あんたにとってあの子はどういう存在なのかは知らないし、興味もない。でもね、相手はあんたの知っている優しいお姉ちゃんじゃない。あの子は―――」
香凜さんは言い淀むとしばらく逡巡されていましたが、やがて、帽子をむしるように取るとそのままヴェールごと鏡に向かって投げ捨てました。
「あー、もう! 口にくっつく! 喋りにくいったらありゃしない!」
「香凜さん、備品は大事に使ってください。それから後で傷が見つかったら請求書を送りますのでよろしくです」
「こんなときに馬鹿じゃないの!? このクソ館長代理が!?」
イライラプリプリしながらもそれでも鏡の傷を確認する香凜さんなのでした。やっぱりこの人はいい人です(ちょっと浅はかなところもありますが)。
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