飛んでいく帽子を拾って

紫鳥コウ

飛んでいく帽子を拾って

 沈丁花島じんちょうげとうは日本海の荒波にさらされ続けたことで、刃物のように鋭利に海へと突き出ているところもあれば、深く陸へと食いこんで横から見たら怪獣の口のようになっている入り江もある。満潮になれば、背の高い岩が点綴てんていとして飛沫のように見える。

 島の中央には裏返したご飯茶碗のような山があり、頂上へと登る道も休憩する場所も、歴史のなかで自然と作られていった。そしてその山の麓で、島民たちの生活は営まれている。

 夏になれば酷暑が続き、冬になれば降雪が激しい。自然の猛威を、およそ二千六百の人々で受け止めている。


     *     *     *


 加奈子は、正義感が強い大学生だったから、その日、フェリーで沈丁花島に降り立ち、一週間お世話になる民宿へと向かう途中に、流木に座り一心に海の方を見ている小さな女の子を見つけたときに、声をかけてあげなければならないと思った。

 正義感は、干渉の異名である。物思いにふけっている一人きりのひとを見かけると、深刻な悩みに悶えているのではないかと妄想してしまう。だからこそ、

「この入り江のことを、眼に焼きつけているの」

 と、こちらを見ずに答えられたとき、図らずも傷ついてしまった。無事なのならば、それで安心できるはずなのに。正義感というのは、自尊心の類義語なのかもしれない。ひそかに、見ず知らずの自分を頼らざるをえないほどの状態であることを祈っていたらしい。

「あっ」

 大きな風が吹いて、海の方へと帽子が飛んでいった。加奈子は、砂浜を走ることができるほど、足腰が強いわけではなかった。大切な帽子なのだ。このまま沖に流されはしないか。

「大丈夫だよ!」

 女の子は、捕まえた帽子を手に取って、左に右にと振って見せた。もう少し沖の方へと流れていたら、彼女の全身は海のなかに埋まっていたかもしれない。

 きらきらとした夏の青空には、まっしろな細長い雲がのんびりと漂っている。それを後ろにして、白色の帽子が海を渡る一羽の白い鳥のように浮かんで見える。

 片手で水をかきわけながら砂浜へと戻ってくる彼女と一緒に、海面をすべっている帽子から、赤色のリボンが後ろの方へと流れていった。

「大丈夫だから!」

 もう一度引き返そうとする彼女に向かって、できる限りの大きな声で、加奈子は叫んだ。

「ううん、こちらこそごめんね。でも、ありがとう。それより、あなたの服が濡れちゃったけど……」

 リボンをなくしてしまったことを謝る彼女に、そう声をかけると、

「家、近いから」

 とだけ言って、帽子を押し付けて駆けていってしまった。

 加奈子は、向こうへと走っていく女の子が見えなくなるまで、帽子を両腕に抱いたまま立ち尽くしていた。


 開け放たれた窓からすだれの影が落ちてきて、その向こうに海の音が聞こえた。打ち寄せては引いていく波の合間に、風鈴が鳴った。

「えろう、遠なかったかいな?」

「ええと、そうですね。少しくらい」

「ハハハ、少しなわけあるけえ。遠慮せんでええ」

 一週間お世話になる民宿の夫妻と茶の間で話をするのは、長旅の疲労でだらけそうな身体がもう一度引き締まるくらいに、加奈子を緊張させた。

「すぐに乾くと思うんやけど、シミは残ってしまうかもしれんわ」

「ごめんなさい。乾かしてもらってしまって」

「なんや、海が珍しいて、泳いでみたんかいな」

 きまりが悪くなって、加奈子は、あの海での出来事をふたりに話した。

「あの子やろか。ほら、石ぃ動かした子」

「ああ、あの子かいな。そういえば、もうすぐやったかのお、あの子のお姉ちゃんのさ……」

 この島にフィールドワークをしにくることは、事前に伝えてあった。この民宿には、加奈子の先輩も泊まったことがあり、長期滞在を理解してもらうのは早かった。

 突然、簾の影がよりいっそう濃くなっていった。生ぬるい風が吹き、次第に海はざわめきだした。風鈴がフックから外れて、畳の上に転がってきた。

「晴れとるうちに着いてよかったわあ。疲れとるやろから、ちょっと休んできい」

 加奈子は、この場に居続けることよりも、ここから退いてしまうことの方が申し訳ない気がして、しばらく動けずにいた。だが、まるで加奈子の存在を忘れたかのように動き回るふたりを見ていると、部屋へと戻るよりほかなかった。


「兵頭先生、大丈夫?」

 大学から大学院へと進み、研究が一段落したところで就職をした加奈子は、中学教師として国語を教えるようになった。都内の学校に就職してまだ二週間も経っていない。しかし加奈子は疲れ切っていた。

 職員室の机でうつ伏せになっていたところを、先輩の平山朱音に見つかって、あと五分で授業時間になることを知らされた。

 まだ廊下に残っている生徒も、ふたりの姿を見ると、教室の方へと帰っていく。

「そういえば、兵頭先生。聞きましたよ。民俗学を研究していたんですってね。わたし、民話とか伝承とか好きなんですよ。先生は、どんなことを研究なされていたんですか?」

「各地の人魚にまつわる伝承を研究していたんですよ」

「へえ、おもしろそうですね。大学からずっと?」

「いえ、大学の卒論は、沈丁花島じんちょうげとうっていうところの、島を食べる魔物の伝説のことで書いたんです。山の中にある大きな石を動かすと、その魔物が怒って、島の形を変えてしまうんだそうです。天気の移り変わりが激しいところですし、そうしたことが関係しているとは思うんですけど……平山先生、落ちましたよ」

 教科書の上から朱音あかねの桃色の筆箱が落ちた。加奈子はそれを拾った。

「ありがとう。兵頭先生も、早く自分の教室に行ってくださいね」

 チャイムが鳴るまで、あと一分もなかった。


 外はすっかり暗くなってしまったが、朱音は職員室にひとり残り、受け持っているクラスで実施した小テストの採点をしていた。高校進学を控えた学年に担任を持っている以上、放課後、生徒から相談を受けることは多々ある。朱音は、それを拒んだり蔑ろにしたりせず、生徒に寄り添うような先生だった。だからこそ、生徒からも同僚からも信頼されていた。

「どんどん、丸が増えてるなあ、えらいぞ」

 最後の答案の採点が終わり、その点数に思わず微笑んでしまった。

 すると朱音は、昼休みのことを思い出した。

「沈丁花島かあ……」

 猫のイラストが描かれたマグカップ。もう冷めつつあるコーヒーを飲みながら、自分の上にだけ電気がついている、ひとりきりの職員室で、朱音は遠い昔のことを想った。


     *     *     *


 砂浜に沿って歩いていると、先客を見つけた。あたりを見渡しても、適当な腰掛がなかった。引き返すには歩きすぎたし、午後4時の春の陽は、後ろめたさを奪ってしまうほどに明るかった。

「ぼっとしてたら、沖まで飛ばされちゃうかもよ」

 足元に転がってきた帽子を拾い上げて渡したとき、右の小指に絆創膏がまいてあるのを見つけた。

「ごめん、ありがとう」

 赤色の水たまりのようなものが、絆創膏のまんなかにできていた。

「その小指の傷、彫刻刀がかすったときのじゃないの?」

「うん。大事にならなくてよかった」

 この島に引っ越してきたばかりの由紀子は、眼を合わせることなく笑ってみせた。

「おい、朱音! 転校生のお守をしてんのか!」

 海の上にある陽の光を受けているせいか、諒太の皮肉交じりの声とにやにやとした表情は、青春の一頁に収まってもいいくらいには、不快なものではなかった。

「諒太は、なにしてるのよ?」

 自転車にまたがったまま、チャリンとベルを鳴らして、なにも言わずに行ってしまった。突き出た岩山を迂回していく道の切れ目から、カモメが二羽、斜めに飛んでいった。


「わたしは、絵を描きにきたんだよ」

 由紀子と同じ流木に座り、クロッキー帳や、スケッチブックや、鉛筆や、ネリケシが入ったリュックをももの裏に置いた。

「海の絵を描きに……?」

「ううん、この島の絵を描きにきたんだよ」

 由紀子の肩のあたりまで伸ばした黒髪が、浜風に何度も揺れている。首の下まで髪の毛を伸ばすこと、それがわたしにとって、オトナとしての目安のひとつになっていた。だから、由紀子が年上の子のように見えてしまう。

 風で乱れた髪を直すついでに、前髪をそっとつかんだ。

「いまのうちに、けるだけ描いておきたい。一度この島から出てしまえば、余計なノイズみたいなものが入っちゃうからね」

「ノイズ?」

「うん、比べられる側も、比べる側も、ほんとうは辛いんだよ」

「どういうこと?」

「さっき、話しかけてきた男子がいたでしょ。諒太って言うんだけど、美人さんがふたりいると、どっちがかわいいだろうって思うでしょ」

「そんな、わたしなんか、ぜんぜん」

「べつに、あなたのことだとは言ってないんだけど……まあ、そうなんだけどね。ほんと、認めたくないけど、わたしより美人。毎朝、わたしの姿見すがたみの中にいてほしいくらい。閉じ込めたい」

「どっ、どういう……えっと、プロポーズなの?」

「違うわい」

「じゃあ、ええと……」

「この島には、高嶺の花は一輪でいいのよね……ね?」

「ええっ!」

「冗談よ」

 カモメが競い合うように、水面の上を滑っていった。夕焼けは山の稜線をくっきりとさせて、影の部分を濃く黒く塗り上げていく。すっかり凪いだ空気のなかに、眩いくらいの笑い声が生まれた。わたしより、由紀子の笑い方のほうがかわいい、なんて思ったりした。


 梅雨に入ると外に出られなくなる。それまでに、島のあちこちを回って絵を描いていた。いままでと違うのは、わたしひとりではなくて、由紀子が隣にいることだ。

「わたしが描いているところを黙って見てて楽しいの?」

「うん、楽しいよ」

「家で好きなことをしてた方が、退屈じゃないと思うけど」

「退屈じゃないよ?」

 屈託のない笑みを見せる由紀子から、思わず目線を外してしまう。

「雨のときとかはさ、家でなにをしているの?」

「彫刻」

「指をケガするくらいなのに?」

 言ってから気づいた。下手だからしてはいけない、ということはない。失言だった。しかし、由紀子は気にしていないみたいだった。

「朱音ちゃんの像を作ってるの。将来、沈丁花島の灯台になるときのための原案」

「どっ、どういうことよ」

「ベレー帽には、朱音ちゃんの名前が書いてあって、ライトアップされると夜空にきらきらと映るの!」

「灯台の役割はどこに?」

「これ、未完成だけど写真」

「もう少し引きで……なにこれ、名前が彫ってあるところの接写なの? なんで?」

「トゥー・ビー・コンティニュー」

「カミングスーンね」

「どっちでもよくない?」

 由紀子は、くすくすと笑った。わたしも笑った。彫刻だと、普段の由紀子の文字とは真逆の印象を受ける。繊細だけれど、力強い。かわいらしさがない。


 交叉した樹々の枝の間からまだらな影が鳥居や敷石の上に落ちて、風の吹き具合や、雲の動きによって、その陰影のおもむきを変化させている。影が生きている。ひとつの生命体として存在している。反対に、影の落ち方によって、風の吹き方や雲の動きが決まっている、というような気もしてくる。

「朱音ちゃん、蜂がいる!」

 境内へと続く階段に座って、樹々の洞窟の向こうに見える小さな世界を描いている、その視線の先に、一匹の蜂が現れて、わたしたちの周りを旋転しはじめた。

「動かないで。刺激しないで」

 蜂はゆっくりと、なにかを検分しているかのように、わたしたちに近づいたり遠のいたりした。

「怖いよ」

「大丈夫だから。慌てないで」

「でも……朱音ちゃん?」

 由紀子の震えている身体を片手で抱き寄せて、もう片方の手で彼女の指をくるんで折りたたんだ。パニックになって、走り去られては困る。どうせ、くことなんてできないんだから。虫よけスプレーとふたりの汗が交じり合った匂いに、言いようのない心地よさを感じた。

「朱音ちゃんの心臓、ばくばくしてるよ」

 境内の方から、霊妙な風が木の葉をさらいながら吹き降りていった。それに面をくらったのだろう。蜂は、どこかへと行ってしまった。

「もう行ったよ」

「うん……でも、もう少しだけ、こうしていたいかも」

 明日、制服を着た由紀子を学校で見たら、照れくさくなるかもしれない。


 由紀子の妹の舞香が、わたしたちの「絵描き旅」に付いてくることもあった。そういうときは、舞香のお守のような役目を、わたしも引き受けなければならず、まだ5歳という手のかかる年頃だけに、苦労も多かった。

 それにこういう日に限って、由紀子の機嫌が悪くなることもあり、絵を描くことに専念できないのが決まりだった。それでも、舞香が付いてくることは嫌いじゃなかった。


 長くなっていく陽は、神社の境内に鮮やかな影を斑に落としている。わたしは駆けまわる。そしてようやく舞香を見つけて、その背中に向けて、

「舞香! 触っちゃだめ!」

 と、声を張り上げた。それくらい強く言わないといけないことなのだ。この石を動かすことは、なによりの禁忌とされているのだから。

 由紀子の胸の中で、彼女は泣いていた。

「ごめんね」

 あたりを見渡してみると、そこには誰もいなかった。安心した。はやく、ここから離れたいと思った。誰かに、境内の裏にいる理由を聞かれたら困る。


 ようやく泣き止んだ舞香の手を引いて海沿いの道を歩く。沈んでいく陽の方へと昼が集まっていく。

「比べられる側も、比べる側も、つらい」

 前を行く由紀子は振り返って、わたしたちへと視線を投げかけてきた。泣いていた。

「泣かないでよ」

「朱音だって、泣いてるじゃない」

 今年の秋から、わたしはこの島からいなくなる。絵を描いて生きていくなんて、本人の努力だけでは叶わないのだ。わたしの意志とは関係なく、大切なひとは死んでしまうのだから。

「手紙を送るからね」

「絵葉書がいい」

「うん、なんでも描いてあげるから」

 思えば、わたしたちは半年しか一緒にいなかったし、その記録は、永遠に塗り替えられることはなかった。


 由紀子が死んだという報せは、絵葉書と入れ違いになって届いた。わたしはいままで、由紀子が沈丁花島に引っ越してきた理由を知らなかった。ほんとうは、彫刻刀を空振りしてしまうほど不器用なわけではなかったらしい。

 あれから一度、由紀子の墓参りをしたことがある。そのときに聞いた話だと、当時の舞香は、自分が石を動かしたから由紀子が死んだのだと泣いていたとのことだ。幼かった彼女は、由紀子が抱えていたものをちゃんと知らなかったのだろう。

 そんな話をしてくれたのは、わたしの叔父さんで、そのころ民宿をはじめたばかりだった。一泊の料金について、相談を受けたことを覚えている。わたしももう独り立ちした大人になっていたから、遠慮なく意見をさせてもらった。


 帰りの日、大事なことを忘れていたと言って、叔父さんは押し入れから桐箱を出してきた。なかを空けると、猫のイラストの描かれたマグカップが入っていた。

「舞香ちゃんが、朱音ちゃんのために作ってくれたんやないかな? 外国から送られてきたんよ」

「舞香が?」

「そのうち偉い芸術家になるやろから、ちゃんととっときや」


 快晴の秋の海の上で、沈丁花島じんちょうげとうに最後の別れを告げた。

 フェリーから降りたとき、割れていないかと気になって、マグカップを旅行鞄から取り出した。

 涙がほほを伝っていった。

 底に刻まれた「朱音へ」という三つの文字が、だれの彫ったものかなんて、分からないわけがないじゃないか。あきらかに後から接着されている、この三つの文字。

 汽笛が鳴ったあと、人のざわめきが蜃気楼のように聞こえてきた。

 一陣の風が吹いて、帽子が飛んでいってしまった。それでもわたしは、マグカップを空の方へとかかげ続けたままだった。

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