家族になれない私たち

間川 レイ

第1話

1.

「ね。お姉ちゃんは次いつ帰ってくるのかな」


なんて妹が言ったのは、私の一年半ぶりの帰省も残り1日を残す晩のことだった。横並びのベッドの上、私の指先も見えないような暗闇の中、妹の手を探り当てるとにぎにぎと握りながら私は答える。


「そうだなあ……」


次にいつ帰ってくるか、なんて。そんなこと、考えたこともなかったから。正直、今回だって実家に帰るか最後の最後まで悩みに悩んでの判断だったのだから。それどころか、帰省する特急列車の中でさえ、帰省するという判断は間違っていたのではなかろうか、なんて思い悩むほど。そのぐらい私は実家に帰りたくなかった。


理由。それは、言葉にすれば馬鹿馬鹿しいぐらい単純だ。実家が苦手だから。実家が好きじゃないから。一昔前なら、実家を憎んでいるから、実家を恨んでいるからと答えていただろう。そのぐらい実家と私との間は険悪だった。


何せ、中学、高校の間親に殴られなかった日、屑だのボケだのお前は本当に頭が悪いだの暴言を浴びせられなかった日なんて記憶にないぐらい。冗談みたいに毎日のように殴られていたし、冗談のように毎日のように罵られていた。それは私の学校の成績が悪かったことや生活態度の悪さによって引き起こされたものであることは否定はしないけれど、それはそれとしていささか度が過ぎている部分は大いにあった。


例えば髪の毛を引っ張る。髪の毛をつかんで引きずりまわす。髪をつかんで壁に打ち付ける。肩を殴る、頭を殴る、顔面を殴る。泣いて許しを乞うたこともある。殴られまいと必死に抵抗したこともある。泣くぐらいならもっと勉強しろともっと殴られたし、抵抗した日には体が浮き上がりそうなぐらい強烈な膝蹴りをお腹に受けた挙句一本背負いで投げ飛ばされた。あまりの扱いについ口答えした時には馬乗りになって何十発も殴られたりもした。


そのほかにもたくさん罵られた。どうしてここまで出来が悪い。どうしたらそこまで頭が悪くなれる。私はいつだって私なりに努力しているのにかけられるのはそんな言葉ばかり。私だって努力してるんだ。そんな儚い私の抗議は鼻で笑われるか数倍の罵倒となって返ってくるのが常だった。


そんな家に私の居場所なんてなかった。私は寸暇を惜しんで勉強することが求められたし、そうするよう監視された。それが嫌で家を抜け出したり夜遅くまで出歩いてみたりもしたけれど、それがばれたときには死ぬほど殴られたし、死ぬほど怒鳴られた。私の中高時代はいつだって怒鳴り声と親から与えられる痛み、そして憎々しいまなざしで満ちていた。それ以外の記憶なんてないぐらい。味方なんてどこにもいなかった。息苦しかった。生きぐるしかった。それが私にとっての実家というものだった。


だからこそ、次いつ帰ってくるか、だなんて。そんな質問にも答えられない。答えるのに難儀する。確かに、今回の帰省では一回も怒鳴られなかったし、殴られなかった。下宿暮らしや仕事の様子などの土産話をねだられ、微笑みながら話をした。まるで仲の良い家族のように、冗談を飛ばし飛ばされ、大したことない話で盛り上がった。父親や母親と一緒にお酒を飲んだりした。それはあたかも、過去の諍いを忘れ家族が一つになったよう。模範的な家族像。絵画のモチーフにすらなりそうな図だ。タイトルはさしずめ「帰ってきた娘を迎える家族の図」とでも言ったところか。


でも、私の内面は怯えきっている。冗談を飛ばして見せる時だって内心はヒヤヒヤしている。この冗談が受けなかったらどうしよう。万が一逆鱗に触れたらどうしよう。また殴られるのは嫌だ。怒鳴られるのも嫌いだ。私にとって両親とは、いまだにどこに地雷が埋まっているかわからない人達だ。だからこそ、私は細心の注意を払って言葉を選ぶ。飛んできた冗談に笑って見せる。必要に応じておどけて見せる。


気分はさながらナイフ一本渡されて、砂漠の地雷原を突破しろと命令された兵士の気分。ナイフの刃先で地雷を探り当て、必死に地雷の間を這って進んでいるような気持ち。表面上はニコニコ微笑んで見せているけれど、内心常に顔を引き攣らせている。怒鳴られませんように、殴られませんように。そんな気持ちを押し殺して微笑みを貼り付けている。そうだね、と柔らかく頷いている。私は両親と共にいると心の底から笑えない。心の底から安らげない。私は妹とは違うのだ。


妹は違う。久々に会った妹は、よく笑うようになっていた。大したことの無い話でもコロコロと笑い、両親とも気さくに話す。特に身構えることもなく、平気な顔をして冗談を飛ばす。物怖じすることなくツッコミを入れる。昔はそんなことなかったのに。今とは全然違ったのに。


昔の妹は、私と同じように親に怯えきっていた。私が毎日のように殴り倒され怒鳴られまくっていたこともあるだろうし、機嫌が悪ければ妹も同じく怒鳴り倒され殴り倒されることがしばしばあったからかも知れない。でも妹は私と違って、反抗することなく従順に振る舞うことを選んだ。今の私のように、いつだってニコニコ微笑みをはりつけ、いつだって柔らかく微笑んでいることを選んだ。内心は怯えきっているくせに。両親はその内面には気づいていないようだっだけれど、姉という立場から見れば普段の態度が演技であることなど一目瞭然だった。それに、私の前では素の自分を曝け出すこともあった。両親への恐怖を吐き出すこともあった。「死にたい」何度その言葉を妹の口から聞いたことか。


なのに今の妹は全然違う。両親の前でも心の底から笑うようになっている。事前に許可を得ているとは言え平気で夜遅くまでで歩いたりする。そこからはかつてあった、両親に対する恐怖とか、負の感情は見つけられない。かつて死にたいと泣いていた妹の横顔は見当たらない。


暫く会っていないから私にも仮面をかぶるようになったのか、と悲しく思ったこともある。でも違うのだ。たった1人の姉だからわかってしまう。今の妹は家族の誰に対しても仮面をかぶっていない。楽しければ笑い、悲しければ悲しむ。それを自然に行っている。かつて自分があんなにも怯えていた人たちの前で、怯えていたことをすでに過去のものとし。死にたいと泣いていたことも忘れ。


何があったのかはわからない。想像もつかない。だけど、妹と両親はなにかしら通じ合ったのだろう。妹と両親は家族になった。家族になれた。だからこそ平気な顔をして私に「次はいつ帰ってくるの」なんて聞けるようになった。


私は違う。私達は理解しあえなかった。私に今更両親を理解する気はないし、おそらく両親にもないだろう。そもそも通じ合ってないことすら認識しているかどうか怪しいものだ。そして、両親への恐怖という連帯も、妹から失われた。所詮私達は家族になれないのだ。私はひとりぼっち。妹とその家族、そしてその外にいる私。家族になれない私達。


だから、「次はいつ帰ってくるの」なんて質問への回答は決まっている。


「分かんないな」


そういうと、私は妹の手を一際強くギュッと握りしめる。その手の感触を私に刻み込むように。

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家族になれない私たち 間川 レイ @tsuyomasu0418

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