真央へ。
そのビデオテープの始まりに音はなかった。君の後ろに見える空は飴色に染まっていて、静謐な空気が佇んでいる。空を遮るものは何もなく、空に灯る淡い光の輪郭がぼやけていて、空に滲んでいた。
君は何も言わなかった。ただ静かに、でも嬉しそうな顔でこちらを覗き込んでいた。
そのせいで、何の音も聞こえてこなかった。風が吹く音も、彼女の息遣いも聞こえなかった。ただそこには、空気の振動を一切として認めない、鋭利な静寂があった。でも、それさえも君の美しさと中和する。
初めて君のビデオテープを見た時を思い出した。
君の姿はまるで、澄明な水のような美しさを、優しく閉じ込めているみたいだった。
やっぱり、アキと僕は似ている。ずっと、どこまでも。きっと、心臓の形も似ているんじゃないかと思う。美しいと思うものまで一緒なんだ。
時々、隣に座るアキの肩が、僕の肩に触れる。それは意外に柔らかくて、僕の心臓が一瞬だけ、ドキリと跳ねた。でも、僕たちはそんなの気にしないみたいに君を見続けた。
君がこぼれるように笑った後、画面がくるりと回転する。
それで、僕たちは目を見開いた。
そこには、僕たちが映っていた。
画面の中で、僕たちが君を探して回り道をひたすらに歩いていた。
会話の内容は、声が遠いせいで聞こえないけれど、楽しそうな笑い声が妙に際立って聞こえた。僕は、あんなにも楽しそうに笑えるんだなと、ひどく客観的に思った。
それから、画面が一瞬暗転して、また別の景色が映る。
夕陽が遠くで横たわっていた。太陽はもう水平線に姿を埋めていて、その残滓が空に散らばっていた。それは、僕に違和感を植え付ける。君がいる時間はずっと薄明だったから。太陽が上がる寸前の、純白みたいに脆い時間。
でも、夕陽が背景でも。君のいる世界は綺麗だった。幽寂とした群青色が、君の白い髪に溶けていた。
君は悪戯に笑った。赤い目は、群青色と重なって、紫色になっていた。それは僕をずっと奥まで引き込むようだった。
でも、くるりと画面が振り返る。
その瞬間。僕たちは息をのんだ。
その画面の中で、僕とアキは顔を重ねていた。身体を寄せ合って、抱きしめるよりも、ほんの少しだけ遠く、手を繋ぐには、もっと近い距離。
アキの感触が、体温が、質感が。僕の身体に駆け巡るように蘇る。
甘いにおい。触れる髪はやっぱりぼさっとしているけど。僕との間に生まれる体温は、群青色の空気よりも、ずっと熱くて。
全身が痺れるようだった。緊張と愛情でドロドロに溶けた感情が、身体を小刻みに揺らしていた。
ブラウン管から、君がはにかんだ音がした。その音で、僕の意識は現実に引き戻される。
くるりと画面が回って、君が映る。
紫色になった目は、細くなっていて、それで君が笑っているんだということが分かった。
ずっと。
ビデオテープが更新されていない間、君は僕たちを見ていたのか。
君を言い訳にして紡いできた思い出だから、文句は言えないけれど。
なんだか、恥ずかしくなる。
隣に座る、アキの顔を見れなかった。僕の紅潮した体温がアキに伝わらないことを祈っていた。僕たちはまだ、恋人じゃない。
それから、何度も画面が暗転しては、僕たちの君を探すための日常が映し出された。密かに君のビデオテープを見ていることも映されていた。回り道を歩くところを、寄り道をして図書館に行ったりしていた。
詰みあがった思い出が巻き戻っていく。
「もう、大丈夫だよね」
最後に君がそう言って、また画面が暗転する。
そこは、学校の屋上だった。白色のペンキで舗装された手すりに囲まれた屋上。ただでさえ、僕の高校は坂の上にあるから、ここらに学校の屋上よりも高いものは存在していなかった。
遠くで町が見えた。そのまたずっと奥に、海が見えた。海のまた向こうには町があって、山がある。空気が澄んでいるから、解像度が高かった。より鮮明に、君の姿も映る。
白い髪をしていた。赤い目をしていた。君の存在は夏の幽霊みたいで、どこか朧気だ。
空は、東雲色で染まっている。夕陽のように見えるそれは、夕陽とは違う意味を含んでいる。
きっとその色は、希望に似ている。
「おはよう。また、会えたね」
君はそう言って、微笑んで見せた。後ろに太陽が沈んでいるせいで、君の顔に影がかかっていた。
どこかにカメラを置いているのだろう。下から見上げるみたいに、君の姿が映っている。
「私が誰だか。わかる?」
君の声は震えていた。涙で湿っているようにも聞こえたし、寒くて震えているようにも聞こえた。
でも、表情が朧気だから僕にはわからなかった。画面に映る世界は、輪郭だけが取り除かれたかのように見えた。
「私はずっと、真央の近くにいたんだよ。ずっと、真央の日常を見てた。でも、真央は『真央』を受け入れないから冬と秋に縋ってたんだよね」
その言葉で。
僕は君が誰なのかを理解した。
これは、学校の七不思議に似ている。
「真央が中学生になってさ。繋がりが消えちゃって。私は、真央に、『真央』を受け入れて欲しかった。だって、悲しいから。自分の名前が嫌いだなんて、言わないで欲しいから」
背景は、徐々に彩度を上げていく。東雲色はだんだんと太陽に塗りつぶされていくようにして、白みを強くする。
「でももう。真央には、冬も秋もいらない」
思いは、形になる。具現化する。
特別な意味を含んだそれは、形になって、存在する。
「もう、私とはさよならをしよう? そのために、このビデオテープを撮ったんだよ」
どうして、気づかなかったんだと思う。
雪のように白い髪。モミジみたいな純然な深紅の瞳。
そうか。
君は————。
「私は、フユとアキだよ」
君は僕たちの名前の結晶だ。『フユ』と『アキ』には特別な意味合いを含めた。小さな四季の繋がり、真央の呪縛。一人ぼっちを混ぜ合うような関係が、そのままビデオテープの君になったんだ。
画面が、君一杯に染まる。名前の結晶である君が、画面を埋め尽くす。
薄明が、世界を覆う。
空気を伝うように、太陽の飴色の光が物質に染み込んでいく。
もうすぐ。君の時間が終わる。
「だから、真央。これからは、ずっと真央でいて。季節のつながりなんかに頼らなくても、真央は一人じゃない。だから、大丈夫。大丈夫なんだよ」
ありがとう。と僕はつぶやいた。君に、届くかはわからないけど。
隣で、ありがとう、と囁く音がした。
僕たちは君に救われていたんだ。だから、心を込めて感謝をしたい。
でも、これからも僕はフユで、戸村真央はアキなんだ。だって、僕たちは同じ名前をしているから。自分の名前を自分で口にするのは、ほん少しだけ恥ずかしい。
だから、僕たちはまだ、「四季」の名前でいい。
画面の中の君は、無理やりに笑った。
涙をぐっとこらえるような表情だった。
「たまには、ここに戻って来てもいいんだよ」
君はゆっくりとこちらに歩み寄る。
その足取りはまるで、貴重な美術品に触れるように、ゆっくりと、慎重に。噛み締めるような足音だ。コンクリートが靴にあたる、堅い音が鳴る。
薄明が君の影を作る。
「それじゃ、またね。真央」
そう、君は画面に向かって、微笑んだ。目を細めた拍子に流れた、一筋の涙を、僕は見逃さなかった。
人工的な青が、画面を覆う。それはまるで映画のエピローグの後のような、疲れたような、暖かな空気に似ている。
僕は深呼吸をする。
熱のこもった体に、冷えた空気が流れ込む。
カセットのボタンを押して、ビデオテープを巻き戻す。
中で、回転する音が聞こえる。君の涙も、言葉も全部巻き戻っていく。
巻き終わって、僕たちの間を、柔らかな静寂が埋める。それはあの世界みたいに優しい沈黙で、薄明の光を含んでいた。
「それじゃ、行こうか。『真央』」
僕はそう、彼女に言う。真央は僕の言葉に頷いて見せた。
そう言えば、忘れていたけれど。
今日は、卒業式だ。
まだ、太陽は出ていなかった。薄明が、空に滲むように広がっていた。
僕たちは歩き出す。二人並んで。——手を繋いで。
きっと、これからも僕はこの名前に苦しむんだろう。
でも、それでもきっと、隣に『真央』がいてくれるなら。
乗り越えられる気がする。
一歩。廃墟から踏み出す。塀を二人でよじ登って、その上に立った。
その時だった。
「またね」
初めて、画面をまたがずに聞く君の声は、やっぱり透き通っていた。
僕たちはそれに動きを止めて、振り返る。
「またね」
フユとアキが重なる。僕たちはそれぞれの名前に、またねを返す。
僕たちが振り返った先に、朝陽が差し込んでいた。
冬と秋。 人影 @hitokage2023
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