冬。
きっと君が幼いせいだろう。僕たちも幼くなった気になっていた。
嫌でも昔のことを思い出した。君の幼い顔を見たからかもしれないし、アキの悲しい顔を見たからかもしれない。
それは、小学三年生のころの話だった。
その出来事は、偶然だったと思う。運命という高尚な名前を付けるほどのことでもないんだと思う。けど、それは僕の脳髄にしつこいくらい張り付いて、頭を振っても、優秀な忘却機能でさえ、捨て去ることのできない情景だった。
僕は、アキの涙を見たことがある。
アキの常に悲しそうな顔から、涙が静かに伝っていた。その涙は小学生が流すには少し大人びすぎていて。でも、アキの顔から流れる涙は、まるでアキの一部みたいに見えた。八の字に曲がる眉、虚ろで、何もない空間を見つめる瞳孔、顔を隠すみたいに長くなった前髪。そんな、泣く寸前の顔に似ているから、涙が似合っていた。
アキは校庭の隅っこの、ほの暗い場所で、膝を抱えて泣いていた。僕はそれを見ても、アキに話しかけるようなことはしなかった。僕には慰める方法がわからなかったし、それに、なんだか怖かった。
涙は、その人の弱みだと思う。透明な血と言い換えてもいい。僕が触れていい傷ではない、と思った。だから、僕はその場から離れた。黙って。足音すらも立てずに。
その日、放課後になってアキと話しても、いつもと変わらなかった。僕の知らないところで毎日泣いていたのかもしれない、と思った。そうなると、途端に怖くなった。
「大丈夫?」
と不意に僕が言った。僕が想像していたよりもずっと冷たい音だった。もっと優しい音を紡ぎたかった。
「なにもない」
とアキは答えた。大丈夫、と答えなかったのはきっと偶然だ。
そう思った方が、アキとうまく付き合えた。
そんな昔の、アキの涙が重なる。
それは僕の胸の一部をえぐり取るみたいだった。そこから血が噴き出して、その血で溺れるみたいだった。
アキは、あの時みたいに、まるで何でもないような顔をしていた。でも、その顔には涙が静かに伝っていた。その涙が、ブラウン管の光を反射して、青く光っている。
それはどこか神秘的で、繊細な美しさがあった。
「ねぇ、フユ」
喉に締め付けられた声が、僕を呼んだ。返事はしなかった。僕には空気を振動させる権利を持っていない気がした。
「私、『君』のビデオテープは私に向けられたメッセージなんだと思ってた」
静寂に灯すように、アキは言葉を紡ぐ。
「ずっと、一人になれるフユが羨ましかった。でも、私は一人になれなかった。だって、寂しいから。一人になろうとしても、どうしたって心の中の弱い部分が人を求める。でも、中学生になって、友達の作り方がわかんなくなって。一人になっちゃった。寂しいって思うたびに、フユのことを思い出してた」
アキの声は、もう涙で湿っていなかった。とっくに乾いていた。平坦で、でもどこか感情的な声だった。冬の空気みたいに濁りなく、清潔で、微涼を含んでいる。
ブラウン管に照らされたアキは、頬に流れていた涙の線をぬぐう。
その世界には音がなかった。まるで深海に溺れているような感覚だった。
心臓の音は、ゆっくりと、鼓動を放つ。普段と変わらない息遣いのはずなのに、今はどこか強調されている。
「ここに来て君を見つけたとき、一人じゃないって思えた。君は、私だけの物なんだと思ってた。……でも、違った」
アキは、また顔を歪めた。悲しい顔が、悲しい顔で上書きされていく。落書きに絵の具を零すようなそれは、僕の体温を巻き取っていく。
「このビデオテープ。フユに向けられたものなんでしょ?」
僕はその言葉に顔をしかめる。
「そんな顔してないで。何とか言えよ。『真央』」
アキは意図して、僕の名前を呼んだ。
怒りが込み上げてきた。内側から、どろどろと沸騰した何かが溢れるのを感じた。
——ここで、アキは僕との信頼を裏切るんだな。
おかしな話だ。まるで、意味もなく時間を浪費するくらいに、回り道をするくらい馬鹿らしい話だ。
二人で視線を交わすみたいに、息を合わせて、その話題を避けていた。
ここで、本当のことを言おう。僕は嘘をついていた。
僕の名前はフユなんかじゃない。
僕の名前は、桜井真央だ。
それは僕たちが出会った頃の話だった。
二人の『真央』は、その名前によって繋がっていた。クラスの奴らも一瞬話題に出すような、そんなありふれた事実だった。それは僕たちにとって、特別な意味を含んでいた。
僕は僕の名前が嫌いだった。
理由は単純だ。女の子っぽい名前だったから。それになんとか幸運を見つけようとしてネットで漢字の由来を調べた。でも、これがさらに悪かった。真央の「真」も「央」も、縁起が悪い。特に「央」がひどい。この漢字は、首輪をつけられた囚人の象形文字だ。
こんな名前のせいで、僕は初対面の人に何度も話しかけられた。話題がある、というだけで話しかけやすいんだと思うけど。
「真央って、なんか女の子みたいな名前だね」
と、よく言われる。
それが、コミュニケーション能力が欠落した社会不適合者にはしんどかった。だから、どうしてもこの名前を好きになることができなかった。
そんな僕と、悲しい顔をした戸村真央は、同じ名前をしていた。
その名前で繋がっていた。
「意味のない名前が欲しい」
と、戸村真央は言った。これが、僕たちの会話の始まりだった。
まるで小説のように、突拍子もなく、そして魅力的な冒頭だ。
戸村真央の声は、今のアキと比べてずいぶん優しくて、かわいらしい声をしていた。
「じゃあ、四季にしよう」
と僕は答えた。僕は、自分と同じ名前をしているというだけで、知り合いになった気でいた。
「じゃあ、桜井は『フユ』ね」
と戸村真央は適当に言った。ハルではなかった。でもそこに意味があるような気がした。
「じゃあ、戸村は『アキ』か」
と僕はなるべく適当に聞こえるように言った。すると、アキはずいぶん嬉しそうに笑った。へたくそな笑顔だった。
「そ」
そう言って、アキは自分の席に戻った。
僕たちはその次の日も、またその次の日も言葉を交わし合った。
同じ名前を共有して、意味のない名前で呼び合って。僕が『フユ』である会話が心地よくて仕方がなかった。
でも、どちらもコミュニケーションが欠落した人種だった。それもある意味では繋がりで、きっと、僕たちは似ていた。
暗黙の了解だったはずだ。禁忌だったはずだ。
僕のことを、『真央』って呼ぶのは。
どれだけこの名前に苦しめられたと思っているんだ。どれだけこの名前で自分を殺してきたと思ってる。
ふざけるな。
僕は、僕の名前が嫌いだ。ずっと、嫌いだ。きっとこれからも、この名前に苦しめられるんだろう。そう思うと、どうしたって好きになれなかった。
でも、嫌いだけど。
アキは違った。アキは、僕と同じ真央だったから。
「僕は、選んで一人になった人間じゃない」
僕の人生は、回り道だ。
どこまでも時間の無駄で、遠回り以上でも、以下でもない。
この言葉だって同じだ。
臆病者の僕に、ふさわしいくらい。
「アキが思ってるよりも、ずっと、弱いんだよ。実のところ、一人でこの廃墟に来ることだって怖い。暗いから。このブラウン管の明かりがなかったら、何も見えなくなるから」
アキはじっと、僕の瞳を覗き込んでいた。その顔はまるで、冷え切った金属みたいな、冷涼とした雰囲気をしていた。涙が伝っていたからか、その顔はどこか儚く見える。
薄明の光が、部屋を淡く灯している。それは青い光よりも、もっと脆く、優しい光。そんな光が、アキの瞳孔にあたっている。綺麗だった。
墨のような静寂だった。肌に触れる温度は冷たいのに、身体の内側が暴れるみたいに熱かった。
「僕も、寂しいんだよ。だから、アキは『秋』で、僕は『フユ』なんだ」
だって。なんだか繋がってるみたいだから。こうしたら、なんだか僕たちの関係が特別になる気がしたから。冬と秋の、細く、見えないくらい透明なつながりに縋った。
でも、それは僕だけじゃなかったはずだ。
僕たちはずっと、繋がりを求め合っていた。
「本当に。『真央』と同じ名前でよかった」
その言葉に、自分でも驚いた。僕の言葉じゃないみたいだった。でも、咀嚼をしなくても、すっと僕の心の空白を埋めた。
僕はもうとっくに、『真央』を受け入れていたんだと思う。
この名前のおかげで、アキと出会えた。それは、僕の回り道で埋まった人生の、唯一の彩だ。
言葉にしてみると、それは意外なことに、告白みたいだった。愛を言葉にするということは、恥ずかしい。本当に、この部屋が暗くてよかった。
そんな僕の言葉に、アキは下手くそな笑顔を浮かべていた。泣きそうな表情にも見えた。
「私たち、似てるね」
その言葉は小さくて、すぐに暗闇に消えてしまった。
「うん」
と僕は答えた。その声も、アキの鼓膜を一瞬揺らすだけで、すぐに消えた。
交わした言葉はそれだけだった。『君』のビデオテープの所有権の話なんか、もうどうだってよかった。
『それじゃ。またね、真央』
と幼い君は、透き通るような世界の中、優しい声色で言った。
僕も真央も、それを受け入れていた。
それから、僕たちはコーンポタージュで暖まった後、寝袋を敷いて眠りについた。
昔みたいに、どうでもいいことを話した。
ずいぶんと無理やりな恋バナをして、クオリティの低いすべらない話をした。
そうしている内に、いつの間にかアキはちいさな寝息を立てていた。
僕もやがて眠った。
次の日。僕たちは目を覚ます。太陽はもう出ていた。
ビデオテープは更新されなかった。
翌日も。そのまた翌日も。
ビデオテープは、あの日以来更新されなくなった。
それでも、僕たちは君を探し続けた。回り道を二人並んで歩いて、本当に他愛もない、無駄話ばかりを積み重ねていった。
別に、本当に君が見つかるとは期待していなかった。
言い方は悪くなってしまうけれど、「君」という言い訳は、僕とアキを結び付けることに関してとても便利だった。だから、意味もなく、——もうそれこそ、本当に回り道と言ってもいいのかもしれない——回り道を歩いていた。
そんな日々が、ただ冗長に続いていった。
そんな、モラトリアム化した日常に、アキは一つのビデオテープを差し込んだ。
それは、僕たちの共通テストが終わってすぐの、卒業式前日のことだった。
「昨日、ビデオテープが更新された。一緒に見よう」
そして、僕たちは卒業式当日の、早朝に廃墟で落ち合う約束をした。
廃墟に足を運ぶのは、多分一週間ぶりだ。
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