秋。
『おはよう。また、会えたね』
君の優しい声が、僕の鼓膜をそっと撫でる。
僕たちが約束を交わした翌日の夕方。僕はまた廃墟に足を運んでいた。
画面の中に映る君は、相変わらず薄明の世界で、静かに足音を鳴らしながら景色を嗜んでいる。白色の長髪が、風に靡く。太陽の光を浴びる雲は朧気で、輪郭が空に溶けて薄く広がっている。
僕は君の声をかみしめながら、ゆっくりと目を閉じる。
考えていたのは、アキのことだ。
僕の創造するアキの姿はやっぱり小学三年生の、背の低い女の子だった。悲しい顔をしていて、僕に吐く言葉はどこか尖っている。顔を手で隠す癖があって、休み時間は寡黙に空を眺めている。時々僕と目が合って、ため息を吐く。
今思えば、健全な小学生じゃなかったなと思う。小学生で普段からため息を吐くのは、普通じゃない。
でも、アキには、友達がいないわけではなかった。女子のコミュニティと言うのはそう言うものだ、と、アキは言っていた。確かに、僕は今まで孤独な女の子というのを見たことがない。クラスでは一人でも、放課後になると誰かと繋がっている。
僕は目を開ける。
画面の中の君は、コーンポタージュを飲んでいた。口から出る息は白くなって、やがて空気と同化していく。
『あったかいね』
と君は言った。
久しぶりに、コーンポタージュを飲むのもいいのかもしれない。あの、缶を口につけたとき、冷え切った鼻の先で感じる温度が好きだ。
そんなことを考えていると、やがて足音が聞こえた。
僕が振り返るとほぼ同時に、扉が開く。騒音が嫌いなのだろう。ゆっくりとした動作だった。
「お待たせ」
アキは相変わらず面倒くさそうに言った。
「そんなに待ってないよ」
と、僕は答える。
「そ」
といつものようにアキは言って、背負っていたカバンを床に落とした。重たい振動が僕の太ももを伝う。
「ちゃんと、親に許可はとってる?」
「とってないわけないでしょ」
「それならよかった」
アキは、そのまま僕の隣に腰を下ろした。膝を抱えて、腰を丸める。そんなアキの姿は、さっき思い浮かべていたアキそのものだった。身長がほんの少し伸びただけで、他は何も変わっていない。荒い髪も、虚ろな目も、八の字に曲がっている眉も。全部あの頃のままだ。それがなんだかうれしい。
僕たちは今日、この廃墟で一夜を過ごすことにした。その予定を立てたのはつい昨日の出来事だ。
この廃墟のビデオテープは、午後五時から六時の間に更新される。それは、僕の六年間の経験からわかる。つまり、この部屋には毎日君が出入りしていることになる。何も、探しに行かなくてもこうやってここで待っていればいつか会えるかもしれない。今日はそれを試すために、ここでアキと過ごす。
もちろん、君のビデオを見ながら。
「このビデオテープはつい去年のものだよ」
と、僕はアキに説明する。「へぇ」とアキは言った。
画面の中の君は、コーンポタージュを飲み終えて、あてもなく歩き出す。君越しに見る景色はやっぱり綺麗で、思わず目を細めそうになる。
「君の歩く道って、いっつもフユが教えてくれた回り道だよね」
アキはそう言って、頬杖をつく。
アキの言うとおりだ。君の歩く道は、僕が小学生の時に開拓した回り道ばかりだ。たまに知らない道も出てくるけれど、大抵は僕の知っている道。
「たまたまじゃないの?」
「違うでしょ」
「でも、本当に何も知らないよ」
「……ふぅん」
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。いつものことだ。今更気にするようなことでもない。行き先を見失った僕たちの視線は、自然とブラウン管の中の君に向かう。
画面の中に、君が映っていた。君は、優しくて、でもどこか寂しそうな顔をしていた。その距離はやっぱり近すぎて。だからこそ、君の美麗な姿が際立っていた。
なんだか、不思議な感覚だ。今まで一人で見てきた景色なのに、今は、隣にアキがいる。
ふと、アキはどんな顔で君を見ているんだろうと思って、横目でみる。
視界に掠るアキは、恍惚とした表情を浮かべていた。窓から差し込む微細な夕陽と、青白い光がまじりあって、不思議な色になっている。
『綺麗なものが好き』
と、画面の中の君が言う。だから、いつも君のいる世界は薄明なのかなと思った。太陽がまだ出ていない、早朝の時に見える飴色に染まる空。それは僕の頭の中で、君の色になっている。
しばらくそうしていた。ずっと、アキと君を見ていた。
隣に誰かがいるというのは、不思議な感覚だなと思う。気が付けば意識がそちらに向かっていたり、互いに気遣い合ったりする。僕の隣には体温が灯っていて、でもそれを感じることはなく、ただ二人同じ方向を向いている。
話すこともないのに一緒にいるのは不思議だけど、でも悪い気もしなかった。きっと、こういうのに僕たちは慣れ過ぎてしまったのだろう。
「フユは、受験どうするの」
唐突にアキが口を開いた。僕はその質問に、丁寧に答える。
「適当な大学に行くよ。自分の学力で行けるところで、家から通えるところ」
「ふぅん」
「アキは?」
「私も同じ」
「そうなんだ。もしかしたら同じ大学かもね」
「…………」
「…………」
また沈黙が僕たちの間を埋める。
『それじゃ、またね。真央』
と、君が言う。僕はまた新しいカセット差し込んで、再生する。
時々息を吹き返すように会話をする。でも、それは長く続くことはなく、やっぱりこの部屋を君が満たしていく。
カセットを差し込むたび、君は幼くなっていく。顔の輪郭が丸くなって、身長も縮んでいく。小さくなっていくにつれて懐かしさが込み上げてきて、なんだか泣きそうになる。まるで、アルバムを見ているみたいだった。君が薄明の世界をじっくり眺めるのと同じように、どんどん儚くなる君を見ていた。
君の纏う美しさの質は変わらないけど、徐々にしっとりとした、初々しい感じが戻ってくる。途中で声代りをしていたのだろう。君の声はいつもよりもずっと高い。
気が付けば君は小学三年生になっていた。君の身長は今の君の半分くらいしかない。小学三年生は、こんなにも小さいものなんだ、と当たり前のことを思った。
『おはよう。また、会えたね』
小学三年生が発するとは思えないほど、優しく、包み込むような声だった。
「昔のこと、思い出しちゃうね」
アキは微妙に口を綻ばせながら言った。
「僕たちが出会ったのも、小学三年生のころだった」
「……そうだね」
その先の言葉は、僕もアキも紡がなかった。紡ぐような思い出が、ぱっと思い浮かばない。
その代わりに、画面の中の君が言う。
『真央はさ。もっと自由に生きてもいいと思うよ』
その言葉に、僕たちは目を合わせた。
それからすぐに逸らす。気まずい。
ずっと画面を見ていたから気づかなかったけれど、もう夜と呼ぶには充分すぎるくらい、周りは真っ暗になっていた。
だから、すぐ近くにいるはずのアキの表情さえ、目を凝らさないとわからなかった。暗闇と言うのは、色を吸い込んでしまう。そんな純粋な黒色に、僕の意識は希薄になっていた。身体の感覚が空気に溶けていく。夢の中にいるみたいだった。
「ねぇ、フユ」
僕を呼ぶ声がした。僕はそれに無言を返した。口を開くのが、なんとなく億劫だった。
画面の中の君が、楽しそうに笑う音がした。照れているようにも、純粋に笑っているようにも聞こえた。でも、そのかすかな笑い声は、短く空間に残って、やがて暗闇に吸い込まれてしまう。そんな中、アキの声だけが際立って聞こえた。黒色に漆黒を重ねるような、そんな声だった。
「私はどうして『秋』なの?」
悲しそうな声だった。それが逆に僕の心臓に突っかかった。
別に、周りの人からしたらどうでもいいことかもしれない。
でもそれは、僕たちにとって特別な意味を含むものだ。
アキの本名はアキじゃない。
彼女の名前は、
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