第7話 孤独と諦め

 その時、付き合っていた女性というのは、新垣あかりだった。

 彼女と付き合い始めたのは、何がきっかけだったのか、ハッキリと覚えていないほど、曖昧だったような気がする。

 あかりが、最初に鏑木の心に入ってきたのか、それとも、鏑木があかりの気持ちの中に入っていったのか、意識はなかった。二人とも、

「相手が好きになってくれたから、相手を好きになった」

 と思っている。

 実際にそんな感情がありえるはずもなく、必ずどちらかが相手を好きになったことに相違ないのだろうが、二人とも、よく分かっていないのは、却って好都合だったのかも知れない。

 もし、分かっていれば、

「好きになったのはあなたの方じゃない」

「いや、君の方だよ」

 と、普通の状態だったら、まるで、

「痴話喧嘩」

 の、ようなものだとみられるだろうが、普通でなければ、お互いの詰りあい、ののしりあいとなり、結局、お互いの距離を広め、決して修復することのない事態になることだろう。

 それはそれで悪いことではないのかも知れないが、お互いを罵るということが、どのような悲惨な状況を引き起こすのかというと、それは、何の関係もない人をも巻き込むことになるからである。

 何ら関係のない人というのは、それだけ二人のことを知らない人ということもあり、どちらかのことを知っていれば、

「相手が悪いんだ」

 と思わせることになり、まったく関係のない人間を、無意識にこの謂われなき論争に引き込むことになるのではないだろうか。

 そうなると、

「恋愛というものは、自分たちだけではなく、まわりをも引き込んでしまうことになるのだ」

 ということになってしまうのだった。

 最初は、お互いに、

「好きになった相手同士でないと、本当の恋愛なんかできっこないよな」

 と思っていたようだ。

 二人とも、大学に入学するまで、彼氏はおろか、異性の友達もいなかったのだ。彼女や彼氏がいない友達にでも、異性の友達はいるものであって、特に大学に入学してからできなかったというのは、珍しいことだった。

 そんな二人が知り合ったのだから、

「二人の間に化学変化が起こったのではないか?」

 と言ってもいいだろう。

「化学反応なのだから、その効果が幅広く膨れ上がってしまうのも仕方がない」

 ということで、まわりを巻き込むことになったのも、無理もないことではないかと考えるのだった。

 恋愛というものは、そういう意味では、戦争に似ているのかも知れない。

 好きになるということよりも、好きになってもらうことの方を優先していると、間違った方向に行くかも知れない。

「好かれたから好きになる」

 というのは、本当は自分が好きではなかったということだろう。

 戦争であっても、

「攻撃されたから、攻撃した」

 という方が、正当性も大義名分もある、自分から攻撃すると、まわりから非難轟轟である。

 アメリカのルーズベルトのように、

「先に相手に攻撃させた真珠湾」

 この時点で、アメリカの参戦は大きな大義名分だったのだ。

 やり方によって、相手がどのように感じるか? これが、戦争を引き起こす上でも、恋愛を自分の大義とするかということになるのだろう。

 鏑木が、寺を継ぐことに疑問を感じるようになったのは、それから少ししてからのことだった。

 最初の原因はなんだったのか分からなかったが、どうもその頃に、それまであまりなっていなかった躁鬱状態が襲ってきたことが、遠因だったのかも知れない。

 中学時代には頻繁にあった躁鬱状態、それも大学受験を控えた二年生の後半くらいからなくなってきた。

 受験戦争は、自分の中で、本当の地震だった。

「戦争というのは、自分との闘いであり、他人を意識してしまうと、なかなかうまくいかない」

 なぜなら、受験というのは、人数制限であり、テストの成績ではない。

 つまり、全体の平均点がよければ、いくら最初に設定した合格ラインが上がってしまい、せっかく自分では達成したと思っている点数に至っても、順位で落ちてしまうので、うまくいかない、それはきっと自分がまわりを意識しているからであろう。

 必要以上なまわりへの意識は、間違った先入観を生んでしまい、それが、間違った受験勉強へといざなうことになるだろう。

 受験戦争において、気になっていたのは、よく、ファミレスなどで、皆が一緒に勉強しているス姿だった。

 それは、勉強する姿勢に不真面目さしか見えていないような気がして、ただ、一人だと孤独に苛まれてしまうから、誰かと一緒にいることで、その孤独感を払拭しようと考えるものなのだろうか?

 もし、そうだとすれば、本当の勉強の意義というのが、分からなくなってしまうような気がするのだ。

 勉強というのは、人と一緒にして身につくものだとは思えない。まったく同じ目標を持って、同じところを目指しているのであれば、その意義も分からなくもないが、逆に、それが、

「受験勉強のためだ」

 ということになると、まったく逆の意味を持ってしまう。

 同じ目標を持って勉強しているのであれば、受験勉強においては、ライバルなのだ。

 これが合奏の期末テストなどであれば、

「合格ラインは決まっていて、それを皆が突破すれば、皆が補修も受けることもなく、合格ラインを突破したということになるが、これが受験だと、前述のように、成績のラインではなく、合格者という人数となってしまうので、自分以外の同じ目標を持った人は、すべてライバルということになる。

 何と言っても、

「人よりも一点でも多く取らなければいけない」

 ということだ。

 二十人が募集人数で、自分が二十人目なのか、二十一人目であるかということが合否の違いであり、もし、二十番目の人がその友達だったとすれば、地団駄を踏んで悔しがったとしても、すでに後の祭りにしか過ぎないことになるであろう。

 だからこそ、受験戦争は難しい。孤独にならなければならず、仲間などどこにもいないといってもいい、

「自分との戦いだ」

 と言ってもいいだろう。

 そんな時ファミレスで誰かと一緒に勉強などということはありえないのだ。

 孤独には慣れているつもりだった鏑木は、最初からまわりを敵だとみなし、ライバル意識をしっかり持っていたことで、比較的受験勉強も苦になることもなかったのだが、その間、時曽木、躁鬱症に悩まされた。

「躁鬱症は、受験勉強からくるものではない」

 と自負していたが、それ以外には感じられなかった。

 それまでの躁鬱症は、何が原因なのか分かっていなかったが、いくつか考えられる中からその原因があると思っていた。

 しかし、今回の大学受験が絡んでいる間が、どこから来るのかということがまったく分かっていなかった。

 ちょっと考えれば分かるはずのそんなことまで分かっていないということは、それだけ、受験というものが、躁鬱症というものと無関係だと思っていたのだろう。

 それが、受験勉強を、戦いだとは思っていたが、

「孤独な闘いだ」

 という自覚を持っていなかったからだと思うようになった。

「孤独っていったい何なんだ?」

 と、考えるようになっていたのだ。

 受験勉強を最初の頃は、嫌悪していた。

「どうして、ここまでしながら、受験しなければならないのか?」

 ということであるが、

「受験勉強が、特に押し付けのようなものだと感じたのではないか?」

 と思うようになった。

 ゆとり教育の間の受験勉強だっただけに、ゆとり教育の間は、詰込みではなく、想像力などを生かした教育だっただけに、受験勉強とはまた違ったものだった。従来からのマークシートで、押し付け教育においての試験がそのままだったのだ、

 勉強するということに抵抗があったわけではなく、

「どうして、孤独を感じながらの勉強に勤しまなければならないのか?」

 ということが大きなことだったのだ

 受験勉強において、本来勉強したいことが反映されていないことへの不満もあった。だが、それを考え始めると、最初に感じた、

「孤独の勉強への嫌悪」

 という思いは消えていった。

「そもそも、試験勉強というのは、孤独の元にするものではないのかな?」

 とさえ思い始めたのだ。

 そこには、図書館や、ファミレスで集団で勉強している姿を見ていると、まったくライバル意識が感じられず、

「受験を舐めてるんじゃないか?」

 とすら思えてきたからだ。

 受験というものを手放しで肯定はできないが、そういう制度がある以上、自分だけで抗ってみても、どうなるものでもない。

 それなら、

「郷に入れば郷に従え」

 という言葉もあるように、自分から受験に参加するという気持ちでいけば、いかにすれば合格できるのかということを、研究することもできる。

 いつの間にか、そこまで考えることができるようになったのは、やはり、お寺を継ごうという意識が芽生えてきたからであろうか。

 大学に進むのも、

「将来はお寺を継ぐんだ:

 という思いを抱くようになったからなのだ。

 だが、大学に入学するという目的を達成してみると、

「合格する」

 という目的に対しての達成感は十分にあったのだが、そこで、

「自分にとって、受験とは何だったのだろう?」

 という答えにはほど遠い気がしていた。

「せっかく受験をするのであれば、受験をする意義が分かれば、勉強をするにおいても、有意義な時間が過ごせるのではないだろうか?」

 と考えるようになっていたのだ。

 実際に勉強している時は、充実感があった。

 それは、受験勉強を楽しいと感じたからで、それはきっと、

「やればやるだけ、自分の知識となり、その知識となるスピードは、自分が想定していた幅の許容範囲内だったからだ」

 と思っている。

 受験勉強をやるのであれば、できることなら、ストレスを最小限にとどめたい。そのためには、ストレスをなくすことは土台無理な話で、少しはやわらげることができるという程度に違いない。

 そんなストレスを和らげるには、まず、

「勉強をして面白い」

 と感じることが大切だった。

 そのためには、充実感を味わうことが一番で、充実感を味わうには、自分で勉強をした成果を感じることだった。

「勉強すればするほど、身についてくる」

 と感じることが一番大切なことで、得た知識を、どれだけたくさんの過去問などで試してみることではないだろうか。予備校の先生にアドバイスをもらいながら、試験結果の検証をするというのも、嫌いではなかった。

 そういう意味で、受験勉強もやり方によっては、ずっと孤独に苛まれるということはないはずである。

 だが、受験勉強を、孤独だと考えて乗り切ってきたのが、鏑木だった。

 彼はこれを、

「自分が勝者だ」

 と思うことで、自分を納得させていた。

 勉強が身についてきたのも、ある意味孤独だから、まわりの影響を受けなかったということであり、孤独だから成し遂げられたことだと思っている。

 孤独なのは、誰にでもいえることで、それを自覚できるかどうかということが重要だった。

「重要」という言葉と、大切」という言葉は似通っているが、実際には違うものである。ここで、鏑木は、本当は、

「大切」

 という言葉を使うべきだし、そうだと思っているのだが、ここではあえてm

「重要」

 という言葉を使おうと思っていた。

 大切という言葉と重要という言葉は、どちらも、ある物事において、もっとも必要であったり、求められるものであり、そして、中心た本質と関係するとても大事なものだというような意味なのだが、厳密には使いわけられる。

「大切」

 という言葉が、

「自分にとって主観的な価値・ニーズがあること」

 であり、「重要」という言葉は、

「ある問題の理解・解決にとって客観的な価値・意味があること」

 になるという。

 要するに、「大切」というのは、主観的なものであり、「重要」というのは、客観的に見た場合ということになるのだ。

 ここでの大切ということと、重要ということを考えてみると、主観、客観という見る方向から考えるものであるが、今度は、

「孤独」

 という言葉から、何か似た言葉がないかと考えると、浮かんできた言葉が、

「孤高」

 という言葉であった。

 孤独という言葉と孤高という言葉は、主観客観という見方においては、どちらも、圧倒的に主観に近いものあろう。

 だが、大切と重要という意味ほど、近しいものではない。孤独と孤高と言う言葉には、歴然とした違いがあったのだ。

 孤独というのは、友達などの信頼できる人がいないということで、一人になってしまったことをいう。だから、寂しいという感情が基本的には湧くものである。

 だが、孤独を意識している人は、自分が孤独だとは思わなかったり、孤独を自分が望んだものだと解釈するだろう。後者においては、それが、孤高という言葉に近いといえるのではないだろうか。

 そういう意味では、孤独であっても、孤高だと思えるのであれば、両立はありえるが、この場は、まず、孤独だと思っている人が、

「寂しくない」

 と言えるのであれば、それは、孤高でしかないのだ。

 だからと言って、孤高が寂しくないというわけではない。

 孤高というのは、一般の人たちがマネのできないような、他の人とはかけ離れた高い境地にいることである。

 もちろん、勘違いということもあるだろうが、あくまでも、

「自分が他人とは違う」

 という意識を持っていて、そのことを誇りに感じることの方が、寂しさを凌駕してしまい、寂しいという感情よりも、

「他人にはないものを持つことで、他人とは違うという、至高の悦びに近いものだ」

 というものである。

 そういう意味で、言葉は似ていて、一人であるということは共通しているが、実際にいる場所、そしてその場所で感じるという意味で、正反対だといってもいいだろう。

 鏑木にとっての受験は、

「自分が孤高であるということがどれほど自分にとって、重要であるかということを、自分の中で証明すること」

 なのである。

 つまり、主観的に考えていることを、客観的に、価値や意味があるということを、証明するための恰好の方法だといってもいいだろう。

 そういう意味で捉えていたので、一人でも寂しくはないし、ハッキリとした目標があり、それは、合格するというよりも、さらにその先を見つめているということで、合格した時の達成感はすごいものだったのだ。

 それだけに、創造以上の感動があったのは、間違いないのだろうが、そのために、自分がいかに前に進んでいるかということが分からなくなった。

 もっといえば、目標としているものが、見えにくくなってきたと言えばいいのか、今まではハッキリと見えていたものが、自分の目で確認できなくなったと言えばいいのか、焦点が合わなくなってきたのだった。

 自分で想定している以上の効果が生まれると、えてして、目標を見失うものだということを聞いたことがあった、

 ただ、それはあくまでも、目標の延長線上にあることが分からなくなってきたからではないかと考えられる。

 一直線で見ていると、距離感が捉えられないというのも分かることであるが、例えば、野球で、外野を真追っていて、あまりにも自分に一直線にボールが飛んでくると、一瞬、距離感が分からなくなり、前進するべきなのか、バックするべきなのか、それともその場にいればいいのか分からなくなる。

 だから、まるで、目に太陽光線が当たったかのように目に手を当ててしまうような行動にとることがあるが、それは、きっと瞬間的に、見えなくなったことをごまかそうとしているからではないだろうか。

 真正面のフライやライナーは、確かに取りにくいが、それをごまかそうとする意識は選手の本能というべきであろうか。

 だから、身動きが取れないのだ。

 前進しても、バックしても、実際に飛んできたボールが定位置であれば、動いてしまっただけ、明らかに目測を誤ったということが分かってしまう。だから動けないのだ。

 冷静に考えると、動いた方が、真正面に来た打球を取りそこなうよりも、まだ少しは言い訳になると思うのだろうが、本能には逆らえないというもので、

「真正面だったとすれば、運が悪かったと思って、諦めるしかないか?」

 という、開き直りをするしかないだろう。

 プロの選手はそこまで考えないだろうが、草野球などでは、結構それくらいのことくらいは考えたりするものだった。

 野球とは、だいぶ話が違うのかも知れないが、自分が着地点として目指したものよりも、行き過ぎてしまうということは、なかなかないものだ。

 最初から下方修正をしたまま突っ走ることは多々あるが、本能としては、下方修正をしていれば、奴隷嬢を目指すということは考えない。

 なぜなら下方修正をするということは、目標を下げるという屈辱的な思いであり、そこまでしてまで、目標を達成するという意識から、下方修正をした時点で、目指すものを、

「そこを超えればいい」

 というものから、

「ちょうどの着地点として目指す」

 というものに変わってくる。

 そうでもしないと、下方修正をした意味がないように感じるからだ。

 そう思うと、本当に着地点をちょうどいいところにしようという本能が働き、意外と、思っているところに落ち着くものだ。

 だが、今回の受験では、実際の目標よりも、実際には高いところに着地した。今回は別に下方修正したわけではないが、その着地地点は、想像よりも高かった。

「ひょっとすると、まだ高みを見ることができたかも知れない」

 とも感じたが、すぐにそれは打ち消した。

 自分の目標に対して、努力が想像よりもできていたというべきか、素直に喜べばいいと思うことで、その時は何とか、自分を見失うことはなかった。

 ただ、目標がかなり先に行き過ぎたことで、自分の中にあるプライドが急に頭をもたげてきて、実際には意識していないつもりであるが、まわりの人間に対して、自分に優越の気持ちが芽生えてしまっていることに気が付いていた。

 だが、それを抑えることはできない。自分がまわりよりも優れているという思いを持ってしまうと、そこに生まれるのは、

「孤独ではなく、孤高だ」

 ということであった。

 しかし、ここでの孤高など自分で望んだものではない。孤独にしても同じことだ。

 だが、この優越感は、明らかに孤高を望んでいたということを示しているものだった。そう考えてしまうと、自分が、本当は、

「孤独もやむなしだ」

 と思っていたのではないかと感じたのだ。

 そんな時、急に自分を最近苦しめている躁鬱症について、何が原因なのか、分かってきたような気がしてきた。

「そうだ、お寺を継ぐということに、違和感を持ち始めたんだ」

 ということであった。

 それが、大学に入学してから感じている、

「孤独感」

 というものが影響しているのではないかと感じられてきたことが影響しているような気がしてきたのだ。

 大学に入学してから、最近まで、自分がお寺を継ぐということに、違和感はまったくなかった。

 ただ、それまでに、自分の煩悩などを、どのように処理すればいいのかということで悩んでいた気はしたが、それも、

「お寺を継ぐことと、抑えなければいけない欲を考えれば、別に悩むようなことではない」

 と思っていたので、他に何かあるように思えてならなかった。

 そんなことを考えていると、浮かんでくるのが、かすみの顔だった。

「俺はかすみを好きになってしまったのだろうか?」

 という思いであった。

 かすみは、風俗の女で、好きになってはいけない相手だということは分かって、お互いに割り切っていたつもりである、

 いや、そもそも、相手は風俗の女性。お店で時間内にだけ愛し合う相手だということは分かっていたはずで、悩んでいる時にだって、分かっているつもりだった。

 だが、それなのに、何か諦め切れないものがあり、それが恋愛感情だというのだろうか?

 大学生になるまで、恋愛感情を抱いたことはなかったはずで、かすみを知ってから、今度は大学で付き合う女の子ができた。

 それが新垣あかりだったのだが、あかりとは、少し付き合ったあと、どちらかたともなく別れの雰囲気となり、別れることになった。

 どちらが言い出したのか、思い出せないほど、タイミング的に、ショックのない時だったような気がする。

 付き合った期間というのは、数か月だったような気がする。

 その間には、別に別れが訪れるような雰囲気もなく、まわりも公認だったので、二人が別れるなどというと、皆驚いていた。

「何でなんだよ。お前たちを見ていると、どこが別れるなんて感覚になるというんだ」

 と皆から、似たようないわれ方をしたものだ。

「そうなんだけど、どうも、最近の俺がおかしいのかな?」

 というと、

「そんなことはないと思うが、他にも考えることでもあるのか?」

 と聞かれ、さすがにその時は、

「お寺を継ぐことに疑問を感じている」

 という話も、ましてや、

「風俗の女の子を、真剣に好きになった気がするんだ」

 などという話もできるはずもなかった。

 どちらも、自分の中で信憑性のあるものではないが、このまま自分の頭の中で納得することができず、答えが見つからなければ、信憑性の深さにかかわらず、そのどちらも、真実になってしまいそうで怖かったのだ。

 さすがに、かずみに、

「好きになったみたいだ」

 という告白をできるわけはないと思い、諦めの境地に至ったのだが、

「お寺を継ぐ」

 ということに関しては、、結局、曖昧なまま、まわりに公開してしまい、あれよあれよという間に、それが事実のようになってしまった。

 親は一時期、激怒してしまっていたが、幸いにも、鏑木には弟がいた。

 ただ、弟も兄が寺を継ぐものだと思っていたので、最初は戸惑っていたが、幸いにも、兄弟でも年が離れていたので、今から寺を継ぐという思いになったとしても、別に襲いというわけではなかったようだ。

 何とか、お寺を継ぐということに問題がなくなったが、鏑木本人としては、いくら自分が言い出したことだとはいえ、目標を目の前で、自らが潰してしまったのだから、自分が悪いとはいえ、何をどうしていいのか分からなかった。

 恋人とも別れ、一人ぼっちになり、孤独を味わった。

 友達がいるとはいえ、完全に他人だということは自覚している。孤独を感じさせないだけの相手は、もはや自分のまわりにはいなくなったのだ、

 親からは、

「大学卒業するまでは、面倒見てやるが、あとは自分で」

 と言われていた。

 本当であれば、寺を継がないと言った瞬間に、

「勘当だ」

 と言われても仕方のないところを、さすがに、

「御仏に仕えるだけのことはある」

 ということであった。

 親がどう感じているのかは別にして、何をどうしていいのか途方に暮れてしまったのはしょうがない。とりあえず、就職活動をして、どこかの会社に入り込むしか仕方がなかった。

 寺を継ぐことしか考えていなかったので、それ以外の道など考えていなかっただけに、今さらどうすることもできずに、ただ、

「就職できるところ」

 を探すしかなかったのだ。

 ただ、その時の鏑木と同じような学生は意外と多く、専門的な勉強をしていたわけではないのに、漠然と行きたい業界を決め、そこを狙って就活をしているという人が多かった。そういう意味では、気が楽だといってもいいかも知れない。

 何とか、地元の商社に入社することができ、入社式での上司の訓辞を、どこか納得がいかないと思いながら聞いたが、実際に上司の言っていることが正解だったというのは、時間が経つにつれて分かってきたことだった。

「俺って、結構まわりに染まりやすいんだろうか?」

 と考えた。

 入社一年目のことであった。

 それが、二年、三年と過ぎていくうちに、仕事には慣れてきて、営業先でも、それなりに仕事ができるようになってきた。

「いつの間にか、仕事に慣れてきてしまっているんだな」

 と思い、それがいいことなのか、悪いことなのか、考えてみたが、考えること自体、ナンセンスな気がして、考えないようになっていったのだった。

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