第6話 かすみ嬢
そんな二重人格性があることを、大学の友達は見抜いているのか、鏑木を風俗に連れていった。
「お前のようなやつは、もう一人の自分の存在を知らないといけない気がするんだ。自分の中に隠していても、ロクなことにはならない」
と言って、風俗に連れていった。
今までの鏑木であれば、
「何をバカなことを言っているんだ」
と一蹴していただろう、
しかし、一蹴することができなかったのは、
「お前が抱え込んでいるものは、二重人格でもなければ、躁鬱でもない。自分の中に存在する思いを、いかに発散させるかということが大切なんだ」
と、鏑木自身が、それまでにはなかった二重人格というものへの気持ちに気づいたからであろう。
世の中の人で、自分が二重人格だと思っている人は結構いるだろう。しかし、何があるにしても、まずは自覚することがなければすべては始まらない。だとすれば、自分からというだけではなく、誰かがその道を切り開いてくれるのであれば、その誰かという存在はその人にとって、大切な存在であることは当たり前のことである。
鏑木は、その友達の存在をありがたいと思っていた。
それまで自分に自信を持つことができず。そのせいで、踏み出してもいいはずの一歩を踏み出せずにいるのだ。それを分かっているだけに、そんな人が自分のそばにいてくれることをいかに感じればいいのか、考えるまでもないことであった。
そこを勝手に余計なこととして考えるから、ロクなことにはならないのだ。
その時の鏑木には、好きになった人がいた。だが、それが本当の気持ちだったのかどうか、正直、時間が経つにつれて、自分でも信じられない気がしてきた。
好きになったと思っている相手は、とにかく気になる相手ということで、ムズムズした感覚があった。
その時に感じたのは、
「これは、愛情ではなく、性欲からくる感情なのではないだろうか?」
という思いであった。
確かに性欲からくる感情もいけないわけではない。人間にとっての性欲というのは、
「種の保存という大切なことだ」
という理屈もあるくらいで、なぜ、悪く言われるのかが、よく分からないくらいだった。
だが、自分に、
「性欲から、愛情を感じてしまったかも知れない女性がいる」
と思うと、好きになったことが、まるで罪悪のように感じられたのだ。
その理由は、
「好きになったということを大げさに考えてしまって、性欲を言い訳のように考えるように、好きになった相手をどうして好きになったのか」
ということを、突き詰めようと考えたからだった。
別に悪いことでもないのに、変な罪悪感のようなものを感じてしまったことで、人を好きになるということが、自分にとって罪悪感を伴う、まるで悪いことのように感じてしまったことが、自分で許せなかったのだ。
「性欲があるなら、性欲は性欲として、処理しないといけないんだろうな」
と思い。性欲に罪悪感を覚えたのと同じで、恋愛感情にも罪悪感を覚えた。
そうなると、逆に、
「性欲に罪悪感を払拭させるだけの何かがなければ、恋愛感情というものを、罪悪感とは別のものだと考えさせるものがなければ、俺はずっと恋愛感情など持てることなどないのではないか?」
と考えた。
どうしても、罪悪感という思いが強いのは、
「俺の将来は、寺の坊主だ」
という意識があるからだ。
「学生時代までに、自分の罪悪感や、煩悩のような世俗的なことは、なるべく、拭い去るようにしておかないといけない」
と考えていたのが、自分が、このまま放っておけば、一番苦しむのは自分だと考えたからだ。
苦しんでいる人間に、他の人を救うことなどできるはずもない。それが、罪悪感を意識した最初だったのだ。
せっかく大学生になったのだから、何かを楽しむことが大切な気がした。
最初の頃はまったく逆で、
「寺の坊主になるのだから、今、楽しいことを覚えてしまって、そこから抜けられなくなったらどうしよう?」
という思いが強かった。
自分のまわりにいる人が、
「もし、自分と同じ立場になったら、どう考えるだろう?」
と考えると、
「たぶん、後先を考えずに、好きなことをしようと思うだろうな?」
という思いであった、
だが、それは自分にはできないと思った。
「俺の場合には、まず好きでもないものを先に食べて、好きなものを最後に残しておく方だからな」
と考えたからだ。
最後に好きなものを食べれば、最後に残ったイメージのまま、入ることができると考えたからで、その方が、一番後悔が少ないと思ったのだ。
だから、まず考えたのは、
「なるべく後悔を最小限にとどめよう」
という無難な考え方だった。
そうなると、楽しいことを覚えてしまい、そこから抜けられなくなるようなことはしたくないと思ったのだ。
確かに、楽しいことを知らずに俗世から身を引くというのであれば、
「できなくなる前に、できるだけしておこう」
と考えるようになった。
だが、これは、究極の考え方だと思った。
同じ発想で、今度はまた究極な発想をしてみた。
「自分が、もし病気で、余命宣告されたとすれば、自分はどうするだろう?」
という考え方である、
これも人によって違うだろうが、最初の頃は皆が考えるのと同じで、
「この世でやり残したことがないように、できるだけ楽しいことをしていこう」
と考えることであろう。
しかし、
「本当に死というものを意識して、それまでに時間的な限界があるのだとハッキリ知らされて、本当に何かをしようという気力があるのだろうか。テレビドラマなどでは、余命を知らされた人は、残された時間で、自分にできることをしようという人の美談がテーマとして作られているが、それを美談としてではなく、皆が考えることであろうという目で見れば、最初は、まったく違和感なく見ることができるだろう」
と思っていた。
しかし、本当の死というものを考えた時、本当に自分の死を受け入れられるのだろうか?
余命として宣告された期間に、答えが出るわけもない。たとえ、寿命が半永久であったとしても、その答えを見つけることはできないだろう。
「お前は、その答えが見つかるまで、永遠に探し続ければならない」
などと、神から言われたのであれば、きっと、寿命が半永久的なことを呪うに違いない。
確かに、余命を宣告され、その期間が決まっているとした場合に、この世の理不尽さを身に染みて感じるであろうが、寿命がなく、いつまでも生き続けなければならないという苦痛もあるということだ。
「人生を生きるということは、生きることの意義が相まって、生き続けることが幸運なのだ。生きる意味が分からずに、ただ生き続けなければいけないというのは、苦痛でしかなく。生きる意味も、生き続ける意味も、自分にとって何なのかということを、果たして自分で理解することができるのか?」
と考えた時、寺の坊主を目指している鏑木には、大いなる矛盾と違和感が、自分を包みこむことを考えるのだった。
「だから、死を前にしても、死なないということがある程度確定しているとしても、どちらが苦痛なのかと言われる、正直分からない」
と答えることだろう。
どちらがその人にとって苦痛なのか? というよりも、それ以前に、
「苦痛というのは何なのか?」
ということを、神様は教えてくれるというのだろうか。
本当は、そんな大げさなことではないのかも知れない。
どちらかというと、
「坊主になったからと言って、本当にすべての欲望を抑えなければいけないのか?」
ということではないだろうか。
坊主になったからと言って、確かに欲望をすべて抑えなければいけないわけではないのは、父親を見ていると分かる気がする。
食事では普通に肉も食べているし、酒も時々であるが飲んでいる。
そもそも、父親は酒が好きである、時々、近所の人を呼んで、酒を呑んだりしているのを時々見たりしていた。
それに、セックスを禁止などできるわけもない。何しろ、奥さんもいて、自分という子供だっているではないか・
そもそもセックスが禁止であるならば、
「種の保存」
などできるはずもなく、代々寺を存続させることも不可能だ。
「禁欲と、寺の存続のどっちが大切なのかを考えると、考えていること自体が本末転倒だ」
ということが分かるではないか。
禁欲というのは、すべてを抑えるわけではなく、欲望に負けてしまって、普段の生活ができなくなることを戒めるという意味で考えればいいのではないだろうか。
だとすれば、
「この世の春を犠牲にしてまで、寺を継がなければならない」
などということはないだろう。
ただ、他にやりたいことがあったとして、それを捨ててまで、寺を継がなければならないとして、その運命を受け入れるのだとすれば、自分のやりたいことをこれ以上続けて、抜けられないようなことにならないようにしようというのであれば、その気持ちも分からなくもない。
ただ、それはお寺の坊主に限ったことではない。他の仕事だってそうだ。その時にどう考えるかは、その人の性格によるものだろう。
しかし、どちらにしても、
「家を継ぐ」
ということは、将来の地位は保証されているということであるが、それと同時に、それ以降の継いだ先の運命は、まとめて自分にあるというプレッシャーもあることだろう。
継いだものが会社であれば、将来の社長は保証されている。そして、鏑木のようにお寺であれば、住職の地位も保証されている。
ただ、それまでに、他の人たちとは違った道が用意されている。帝王学のような、厳しい修行なのかも知れない。
ただ、それに関しては、最初から家を継ぐということが、親によってレールとして敷かれていたのであれば、将来のことを真剣に考えた時、どの道を進むかということで大いに悩むことだろう。
他にやりたいことができたのであれば、
「ここまで敷いてくれたレールの上を離れて、一から築き上げていくということがどれほど大変なことなのか分かっているだろうから、どちらを選ぶかということは、かなりの選択になることであろう」
と考えられる。
会社の社長と言っても、雇われ社長とは違い、同族会社での、世襲によって成り立っている会社であれば、子供心に、親が社長であれば、会社の人たちから、
「坊ちゃん」
などと言われて、ちやほやされているように見えたとしても、本人にとってはそれどころではない、
家では、親から、帝王学という名の、英才教育を受けているのであり、それはかなりの厳しさであろう。
少なくとも、最初の心構えであったり、精神的な洗脳というものは、かなり深いところの精神状態の誘導でなければいけないので、気持ちよりも、肉体的なことからくる、精神面を鍛え上げるという意味合いもあり、それこそ、仏門などにおける、
「修行」
と言ってもいいかも知れない。
特にまわりは、ちやほやされているだけだと思っていると感じているだけに、そのプレッシャーや、ギャップは、かなりのものがあるに違いない。それは、矛盾や理不尽さを抱え込んでいるのと一緒ではないだろうか。
仏教などでは、如来になるために修行をしている方々を、
「菩薩」
というそうだ。
菩薩というと、弥勒菩薩、観世音菩薩、などといろいろいるが、そのうちの弥勒菩薩という菩薩様は、
「未来仏」
であるという。
現在の仏である、お釈迦様の入滅後、五十六億那奈千万年後の未来にこの世界に現れ、悟りを開き、多くの人々を救済するということで、
「未来に現れる仏」
ということになるのだ。
これは、鏑木が勝手に考えたことだが、
「それだけ、悟りを開くには時間がかかるということだ。そんなことが、今の自分にできるはずもなく、菩薩様と呼ばれている人でも、五十億などという想像を絶する天文学的な数字を生きなければ悟ることができないというのだ。
そもそも、人間の寿命が百年もないというのに、果たして、その時代のこの世はどうなっているというのか、想像もつかない。
この気が遠くなるような数字は、、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する」
と言われているようだ。
それだけ、この世と、それ以外の世界には、隔たりがあり、この発想は仏教だけではなく、ギリシャ神話や、聖書の世界にもあるものではないだろうか。
孫悟空などの話で、数万年前などという発想が簡単に出てくるのも、分かる気がする。
しかし、考えてみれば、それらの話は、基本的に人間が作ったものである。それぞれの時代、それぞれの社会に、天文学的な数字を別世界として、簡単に解釈するような頭が、どこまであったのかということを考えると、世の中というものが、いかなることから成り立っているものなのか、知ると知らないでは、確かにあの世とこの世を考えるうえで、まったく違うものであろう。
人間とは、都合よく頭の回転ができているもので、
「何も問題のない時は、自分たちのことだけを考えていて、たまに、他の人を見る余裕が出てくるが、それはあくまでも、中心は自分にあるのであって、余裕というものは、自己満足に過ぎないのではないか?」
と考えられる。
そして、何か問題が起これば、最後には自分だけのことしか考えない。なぜなら、まず考えることは、自分と自分のまわりのことであり、当たり前のように、それ以外の人のことは考えようとはしない。
「それが人間であり、人間が人間たるゆえんではないか?」
と考える。
もし、これが仏や宗教の世界であれば
「人間は修行が足りないから、そのような考えに至るのだ」
と言われたとすれば、
「その修行っていったい何なんだ?」
ということになる。
弥勒菩薩のように、五十数億年などという信じられないような機関、どのような修行をしないと、釈迦のようになれないのかということであれば、人間の寿命も、五十数億ないといけないだろう。
もちろん、勝手な数字の組み合わせによって作られた年数などで、ここにこだわる必要はないのだろうが、人間世界と兜率天という世界がどれほど違うのかということを考えさせられるというものだ。
だとすれば、人間ができる修行などというのは限られた範囲でしかなく、何も自分が釈迦になる必要もない。
きっと、仏教の世界の仏さまたちもそんなことを望んでいないだろう。
聖書や神話などで、人間が神に近づこうとした時に、その制裁によって、どれほどのひどい目に遭うのかということを知らされると、お寺を継いだからと言って、仙人になったり、仏様に近づこうなどという無理をする必要はないのだ。人間がその無理を、傲慢な方に考えるので、聖書や神話に書かれているような悲劇が考えられるかのように、記されているのだろう。
それを思うと、
「お寺を継ぐ」
ということが、それほど厳しいことだと考えることもないだろう。
そんな中で、友達に連れていってもらった風俗だったのだが、感想としては、
「どうして、今まで行こうと思わなかったんだろうな?」
ということであった。
「彼女ができれば、風俗にいく必要もない。彼女を作ればいいんだ」
と思っていたが、実際にはそうではなかった。
実際に初めて風俗に行くまでは、確かに、罪悪感を持っていて。
「彼女がいないから、性欲を満たすためにいっていると思われるのも嫌だし、何よりも自分がそう思うのが嫌だった」
と感じることであった。
しかし、それから実際にすぐに彼女ができた。自分から好きになったわけではなく、相手の方から、
「あなたのことが気になったので、思い切って告白してみた」
ということであった。
もし、その少し前に、風俗デビューを果たしていなかったら、そんな言葉を言われて、有頂天になっていたに違いない。
彼女のことを元から好きだったわけではないが、彼女が自分に告白してくれた時、至福の思いであったことには違いない。そして、次に感じたのが、
「もっと前から知り合いだったような気がする」
という思いがあったからで、有頂天になっているわけではないのに、彼女のことが好きだったという意識があったということが、どこか違和感があるにも関わらず、そのことには間違いないという意識は持っていた。
その時、自分が、
「洗脳されているなどということは、絶対にない」
と思っていたのだが、それは、
「自分が有頂天にならなかった」
ということだけであった。
有頂天になっていれば、
「彼女に洗脳されているのかも知れない」
と思い、却って、冷静に見ることができたのだろうが、そうではないというだけで、却って中途半端になってしまったことで、彼女に対して、それほど執着を持っていなかった。
だからだろうか、彼女がいるのに、風俗通いをやめるという気にはならなかった。
「風俗に通うのは、あくまでも、性欲を発散させるという意味であり、彼女に対しての自分の思いは、性欲以外の満たされたい、あるいは、癒されたいという思いが強いからではないだろうか」
と感じた。
風俗に通うことで起こる、
「賢者モード」
は、彼女や奥さんに対してのものであって、最初に彼女ができる前に行った初体験の時にあった賢者モードは、
「初めてを、風俗で済ませてしまった」
ということへの罪悪感だと思っていた。
しかし、この時の賢者モードと、彼女ができてから、最初に行った時の賢者オードに、まったくと言って変わりがないほどだったことで、賢者モードというのが分からなくなった。
「賢者モードって、どんな時でも、自分のまわりに女性のあるなしに関係なく、風俗に行けば感じるものなのではないか」
と思っていたのに、三回目、つまりは、彼女ができてから二回目に行ったその時には、賢者モードに陥ることはなかった。
それどころか、それ以降、風俗に通っても、賢者モードになることはない。
彼女とも仲良くしているし、風俗の女の子とも、その時間、そのお部屋の中では、まったくの別世界として、本当の恋人のように仲良くしていた。
しかも、風俗の女の子と一緒にいる時も、彼女と一緒にいる時も、それぞれに、彼女であったり、風俗のお気に入りの子のことを思い出していたはずなのに、それは身体だけだった。だからと言って、性欲を思い起こしていたわけではなく、どちらかというと、癒し部分が思い出されたのだ。だから余計に、目の前の相手のことを強く思えるようになり、それが、
「賢者モードを作らないのではないか」
と思った。
「風俗で賢者モードに陥るのであれば、彼女と一緒にいる時だって、賢者モードに陥ってもいいのではないか?」
と感じたことが、癒しを求める無意識な感情に結びついてきたのだと感じた。
「どうして、賢者モードに陥るのか?」
ということを、少し考えてみた。
風俗にいる時だけ感じるということは、
「彼女に対して悪いと思っていること」
であり、それを彼女と一緒にいる時に思わないというのは、風俗で相手をしてもらっている女の子に対して、
「悪いと思っていない」
ということである。
普通に考えれば、
「お金でつながっている関係だから」
と感じるのだろうが、風俗で一緒にいる時の彼女にそんな感情は抱かない。
一緒にいて、
「幸せだ」
とまで感じる。
その気持ちにウソはなく、感情が自分の中でハッキリしてくるのも分かっているはずなのだ。
それなのに、お金というワードがどうして出てくるのかが分からない。相手だって、嫌で相手をしてくれているわけではないと思う。話をしていて楽しいし、下手に学校で社交辞令で話をしてくる人とは明らかに違っている。
「お互いに求めるものが一緒なのではないか?」
とも思うのだ。
ただ、一つ言えることは、こうやって風俗の彼女とのことを正当化しようとすればするほど、何か虚しくなってくる。この気持ちは間違いのないものだが、風俗の女の子の話として面白いことを言っていた。
「私のお客さんには、結構年配の方が多いみたいなんだけど、皆、私と一緒にいるだけで楽しいって言ってくれるのが嬉しくてね。中には、何もしなくて、お話しに来てくれるだけの人もいるくらいなの」
と言っていた。
「そうなんだ、俺にはよく分からないかな? だって、君が俺といない時間、他の男に抱かれているかと思うと、虫唾が走るくらいだからな」
というと、
「そう思ってくれるのは嬉しいわ。でも、これが私の仕事だっていうのもあるのよ。だから、あなたを見ていると、私なりに分かることも結構あるのよ」
という。
「俺が分かりやすいってことなのかい?」
と聞くと、
「そうなのかも知れないわね。でも、私はあなただから分かるような気がするの。というか、あなたがそばにいる時にあなたのことを考えるからなのよ」
と言ってくれた。
「でも、それは分かりやすいからだというのとは違うということではないよね?」
と聞くと、
「ええ、その通りよ。でも、私があなたを見つめているということは間違いのないことなの。そうやって見ていると、ところどころの節目に分かってくるのよ。たとえば、あなたの素振りの中から、この人には私との時間以外に、他に彼女がいる人なんだわとか、私との絶頂が終わった時、陥る賢者モードは、きっと彼女に向けられたものなんじゃないかってね。でも、誤解しないでね。私は本当だったら、こんなことを言ってはいけない立場だと思うの。お客さんであるあなたを傷つけるようなことをしてはいけないと思うし、そんなことをして、せっかくのお客さんを失うようなことはしちゃいけないわよね。でも、あなたが相手だと、あなたの気持ちが真っすぐに私に向かってこなくなったら、それはそれで終わりだと思っているのね。だからあなたとは真剣にお話をさせてもらいたいのだし、そうしないと、私は私ではいられない気がするの。あなたはきっと私のことを、私が私として自分を見ているのと同じ方向から見てくれていると思うの。だからあなたにウソを言ったり、欺いたりするというのは、そのまま、自分が自分にしていることのように思うの。だから、あなたとは私も正面から向き合うのは礼儀だと思うし、そうしないと、自分にウソをつくことになるって感じているのよ」
というのだった。
「この人とは、学校とかで出会いたかったな」
と思ったが、すぐに打ち消した。
「風俗嬢と客という関係だから、出会えたのかも知れない」
と感じたからで、これだって、自然な出会いであることに間違いないと思うのだった。
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