第5話 二重人格性

 鏑木は、自分が二重人格であるということを知ったのはいつだっただろうか?

 ハッキリと自覚したのは、中学時代だっただろうか。ただ、漠然と感じていたのは、小学生の頃からだったような気がする。

 二重人格というよりも、躁鬱症っぽいところがあった。最初に感じたのは、鬱だったのか、躁だったのか、覚えていないが、躁から鬱に変わる時よりもm鬱から躁に変わる時の方が、自分ではよく分かると思っている。

 それは、躁鬱症を、

「トンネルのようなものだ」

 と考えたからだ、

 明るい表から、暗いトンネルに入る時というのは、確かに、トンネルに入るというのが分かる。

 ただ、それは明るいところだから、トンネルの入り口が分かるからなのであって、それは最初からトンネルに入るということが分かるのは可視として当たり前のことだった。逆にトンネルから表に出る時は、徐々に表からの明かりが漏れてくるのが、車で走っていて分かりにくいものである、

 しかも、トンネル内には、黄色いランプが光っていて、暗い中で目が疲れないとい配慮なのか、明るすぎないように、暗いところで、しかも黄色い色は、他の色を凌駕しているような感じである。

 だから、表の明るさが忍び込んでくる時は、実際にゆっくりで、ただ、そんなに遠くから見えるというのも、おかしな気がする。

 それだけ、トンネルから出る時というのは、最初から予感めいたものがあり、それが分かっているから、トンネル内では、黄色いランプなのかも知れないと、勝手に邪推したことがあったくらいだ。

 もちろん、小学生にそこまで詳しいことがわかるはずもない。

 それなのに分かるというのは、それだけ、自分の頭の中で辻褄を合わせようとして、時系列を捻じ曲げているのではないだろうか。

「逆デジャブ」

 とでもいえばいいのか、デジャブというのは、

「前に見たり聞いたりしたことがないはずなのに、以前に見たことがあるような気がする」

 という矛盾した考えである。

「矛盾というものを、強引にでも、自分に納得させようとすると、何か辻褄を合わせようとするものだ。それは、、一つであってもいい。一つの歯車が噛み合うだけで、自分が納得できることであれば、そこに矛盾が生じていても、強引にでも納得させていい」

 という考えに至ってしまう。

 これが、デジャブの、辻褄を合わせようとする考え方であって、時系列に沿って考えようとする自分を、いつの間にか、辻褄を合わせる方向に向かわせることで、デジャブという現象を作り出し、辻褄合わせの言い訳にしようと考えるのだろう、

 だが、

「矛盾の矛盾というのも、また矛盾である」

 と言えるのではないか。

 マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるのだが、矛盾というものは、そうはいかない。

 マイナスというのは、あくまでも、プラスがあってのマイナスである。相対するものがあってこその計算なのだが、矛盾というものには相対するものは存在しない。

「対象」

 とされるものはあるかも知れないが。それはあくまでも、鏡に映ったものであり、重ね合わせることで、正常になるという考えは、かなり強引なものであり、納得できるものではない。

 鬱状態自体が、辻褄の合っていないことであり、辻褄の合っていないことの対象に、まったく正反対の躁状態があるというのだから、これこそ、矛盾を感じさせるというものだ。

 マイナスというものを、いかに鬱状態と結び付けて考えることができるかということが分かれば、少しは、躁鬱状態の解明が自分の中でできたのではないだろうか。

「鬱から、躁に移り変わる時、ここまでトンネルを出るまで時間がかかってしまっているのに、意識としてはあっという間なのだ」

 それが矛盾であり、デジャブの原因なのかも知れない。

 そんなトンネルを抜ける時が、躁鬱症の時には分かるのだ。

 そもそも、躁鬱症というのは、躁状態であっても、鬱状態であっても、大体、二週間程度のものだった。

 鬱状態から躁状態に変わる時は、ゆっくりであるが、その間に、通常状態というのは存在しない。

 しかし、逆に躁状態から鬱状態に変わる時というのは。結構あっという間に変化をするのだが、その間に普通の状態が存在する。だから我に返る時というのは、鬱状態に入る前であり、それだけに、鬱状態が目の前にあるということを意識ができる。

 そのかわり、逆の鬱状態から躁状態に変わる時は、トンネルという意識が存在することで、理解できるようになる。

 つまり、このトンネルというのは、デジャブにおける辻褄を合わせるための媒体のようなものだといえるのではないだろうか。

 二重人格と、躁鬱症、同じように見えるのだが、本当に同じなのだろうか。

 二重人格というと、最初に思いつく事象としては、

「ジキルとハイド」

 の話ではないか。

 普段は、普通の科学者なのだが、自分の開発した薬を飲むと、別人になってしまうという話だが、これはあくまでも、架空小説である。

 そもそも二重人格というのがどういうものなのかということなのだが、子供の頃にそんな発想があったわけでもなく、ただ、

「躁鬱症のようなもの」

 という意識の方が強かった。

 それは、前述のように自分が躁鬱症であり、自分で意識できているということから、二重人格というイメージが湧いてきたのだ。

 ジキルとハイドのお話における二重人格というのは、開発した薬によって作られたもので、それが本当だったのかどうか分からない。

 もし、本当の二重人格ではなかったとするならば、ハイドという性格は作られたものであり、開発した薬は、一つの性格を作り出すものだということになる。そうなると、ジキル博士の行動から、察することとして、

「ジキル博士の開発は、フランケンシュタインと同じではないか?」

 ということになる。

「理想の人間を作ろうとして、間違って怪物を作ってしまったフランケンシュタイン」

 そして、

「自分の好奇心と、解放感から、もう一つの人格を作り上げようとしたジキル博士」

 それぞれに目的は違えども、やっていることは同じである。

 しかし、結論としては、お互いに作り出してしまったものから、苦しめられることになるのは同じことだった。

 フランケンシュタインの話は、二重人格などではなく。自分たちの役に立つはずのものを作ろうとして、失敗したことなのだが、そこに、自分の分身という意識はなかっただろう。

 ジキル博士の場合は、自分が別の人格となって、今まで味わったことのないものを味わいたいがために、別の人格を作り出すことで、本当の自分を安全な場所においておくための、薬の開発だったのだ。

「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作り出すものなり」

 という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 ある大学の創始者が、提唱した言葉であるが、

「どんなに知恵があったとしても、神様のような倫理や道徳がそこになければ、どんな冷えであっても、悪魔でしかない」

 というような意味である。

 科学万能で、開発競争を繰り広げていた時代に、一つの人間至上主義、さらには、科学万能主義において、その教育は、

「知恵ある悪魔」

 を作り出してしまうのではないか?

 ということであった。

 つまり、

「ジキル博士や、フランケンシュタインを作り上げてしまうのではないか?」

 ということに繋がるのではないだろうか?

 二重人格の片方が、この、

「知恵ある悪魔」

 として君臨すれば、世の中がどんなことになるか、想像もつかないだろう。

「知恵ある悪魔」

 というものの怖さは、身に染みて分かっている。

 そもそも、核兵器開発など、この

「知恵ある悪魔:

 が起こしたものだ、

 そういえば、この言葉は、某特撮番組で、防衛軍の隊長が、隊員に言った言葉だった。

 空中に、

「疑似空間」

 というものを作り出した宇宙人をやっつけて、ラストシーンのところで言ったセリフなのだが、

「どんなに優れた科学力を持っていても、やつらは悪魔でしかないんだ」

 と言ったセリフが印象的だった。

 科学の発展によって作り出された核兵器も、戦争のために使われて、爆弾として製造され、それが実践で使われた。

 一瞬にして、五万人以上が死に、そして、その後の放射能汚染によって、最終的に、十数万という人が、一つの都市で死んでいくことになるのだ。

 爆発した瞬間だけでなく、その後も二次被ばくという形で、放射能にやられてしまって死んでいく。そんな恐ろしい兵器を作り出したのは、数十万人という科学者だったのだ。

 彼らは、最初は兵器開発に邁進し、どれほど恐ろしい兵器なのかということよりも、自分の研究に没頭していたのだ。

 科学者であれば、それも当然のことであろう。

 しかし、元々原爆開発というのは、

「ドイツが先に原爆を開発してしまったら、世界は終わりだ」

 というような話を、アインシュタインが署名した新書を、当時のアメリカ大統領である、フランクリン・ルーズベルトに渡したことで、ルーズベルトが各派衣鉢を行うための、マンハッタン計画に乗り出したのだ。

 途中で、ドイツが降伏したことで、マンハッタン計画の原爆開発計画は、大義名分を失った。そこで、科学者の間で、

「これ以上の開発は、意味があるのか?」

 という話になったが、開発初潮である、ロバート・オッペンハイマーがいうのには、

「もし、ここで原爆開発を頓挫させれば、ここから先はアメリカの極秘事項になってしまう。そうなると、国家が国家の都合で兵器を持つことになり、もっと危険なことになる。だから、開発した兵器を実験という名目でデモンストレーションを行い、核兵器、つまり自分たちが開発しているものが、どういうものなのかということを、マスコミを通して全世界に知らしめる必要がある」

 と言って、まわりすべてを納得させた。

 だが、実際には、科学者も、アメリカ軍も、さらには大統領も、すべてが、日本への原爆投下ということを決めたのだ。

「頑強に抵抗する日本軍を降伏させるには、原爆投下しかない」

 という名目で、

「それによって、戦争を一刻も早く集結させ、アメリカ兵の被害が、最小限とするために、原爆を使用するのだ」

 ということを言えば、原爆投下に反対する世論を納得させることができるというものであった。

 実際に、それで戦争は終わった。しかし、そのことが、その後の冷戦を引き起こすことになり、相手が新たな兵器を作り上げると、さらに、こちらも、もっとすごい兵器を……」

 という、

「核開発競争」

 というものに拍車をかけることになった。

 それにより、世界には未使用の核兵器、さらには、核実験による多大な被害などの犠牲の上に成り立っていた平和だったのだ。

 そのことを人々は、

「キューバ危機」

 によって知った。

 アメリカとソ連による、全面核戦争が目の前に迫っているのだ。

 そんな恐ろしいことが、起こったことで、やっと人類は核兵器排除を口にするようになった。

 前述の特撮番組でも、核開発競争を皮肉った作品があった。

「地球に徴兵気を持っていることを知らせるというための、ミサイル発射による、

「惑星迎撃実験」

 だったのだ。

 恒星間弾道弾は見事に目標惑星を破壊し、実験が成功する。その時、実験を見守っていた防衛軍の人たちは、歓喜の声を挙げる。

「予想以上の成果だ。これで、地球は安全だ。地球を侵略しようとする連中に対して、我々は、ミサイルのボタンに手をかけて、待っていればいいんだ」

 というと、他の隊員が、

「地球に徴兵気があることを知らしめるのよ。そうすれば攻めてこなくなる」

 という。

「超兵器は持っているだけで、侵略を防げるんだ。これで地球は安全だ」

 と言って喜んでいる中、一人だけ浮かない顔をしていた。

 この物語の主人公であった。

 彼は今の会話の隊員に問う。

「地球が安全なら、何をしてもいいというんですか?」

 と言われて、その人は黙り込んでしまう。

 すると、主人公は意を決したかのように、

「ようし」

 と言って、駈け出そうとするのを、隊員が止めた。

「どうしたっていうんだ?」

 と聞かれて、

「忘れるな。地球は狙われてるだ」

 と聞かれ、

「それで超兵器が必要なんですね?」

「当たり前じゃないか」

「もし、相手がこちらよりも強力な兵器を作ったら、どうするんです?」

「その時は、こっちもさらに強力な兵器を開発するさ」

 と言われて、主人公の顔はさらに暗くなった。

 そして最後のとどめに、

「それは、、血を吐きながら続けるマラソンですよ」

 というのだった。

 これこそ、当時の世界情勢における、東西冷戦の象徴ともいえる、

「核開発様相」

 そして、

「格の抑止力」

 ではないか。

 持っているだけで平和が守れるというのは、核兵器の傘の下に存在する幻影でしかない。それを、このドラマは、

「血を吐きながら続けるマラソン」

 という表現をしたのだ。

 ちょうど、その時、主人公は、檻の中にある丸い輪の中を、その空間においてだけ走り続けることになる、ハツカネズミを見ながら、答えていたのが、印象的であった。

 物語は、粉砕した星から、兵器の放射能を浴び、巨大な怪獣に突然変異してしまった破壊された生物が復讐のために、地球にやってきた。

 主人公は気の毒に思いながら、正義のヒーローに変身し、地球のために、復讐鬼と化した怪獣を倒すことに成功する。実に複雑な思いだろう。

 さすがに、この事件で防衛軍も目が覚めたのか、

「兵器開発競争を凍結する」

 ということになった。

 確かにこの物語と、世界情勢だけを見ていれば、開発を凍結することで一段落なのだが、それだけでいいのだろうか?

 確かに、地球が開発をしなければいいというのは正解だが、実際に地球は狙われていて、他の星に地球にも勝るか学力があり、地球侵略を目論んでいるとすれば、なんら解決になっていないではないか。

 理不尽にも復讐鬼と化した怪獣を図らずも葬ってしまった。侵略でも何でもないのに。

 地球のエゴと傲慢さ、地球至上主義が生んだ悲劇なのだ。

 しかし、他の星の侵略者には関係ない。本来であれば、地球だけが開発をやめても、何ら解決に至ったわけではなく、核開発競争の愚かさを唱えただけだ。

 だから、本来なら、他の星とも協議をし、軍縮に賛成されるだけのことをしないと、目的の平和は訪れない。本当の意味での平和ではないのだ。そういう意味では片手落ちな話ともいえる。

 ただ、この話が優秀で、代表作とも言われているのは、見事に社会風刺ができていて、皆考えているにはいるが、口に出さなかったことであるに違いない・

 そんな素晴らしい特撮番組の中に、人間の覚醒、いや、秘めたる感情を呼び起こしながら、かつての英国が、清国に行った戦争を模しているかのような内容の話もあった。

 その話は、一つのある街において、ある時期から奇怪な事件が起こるというものだった。まず、防衛軍隊員のおじさんにあたるパイロットの飛行機が、突然の事故を起こしたということだった、

 人的事故であったことは間違いなく、パイロットが引き起こした事故ということになった。

 しかし、それを信じられない人も結構いた。あの冷静沈着な人が……。ということである。

 そんな調査の最中に、一人の男が発狂したかのように、ライフルを撃ちまくり、あたりを恐怖のどん族に突き落とした。ライフル魔は急に失神し、そのまま昏睡状態に陥り、数時間死んだように眠った後、何事もなかったかのように目座絵、自分の暴挙を警察から聞かされても、まったく記憶にないということであった。

 おりしも、防衛軍の作戦質の中で、二人の隊員が、次々に発狂し、暴れまくったうえ、昏睡したのである。

「ライフル魔と同じではないか」

 ということで、原因を探ってみると、どうやら、タバコに火をつけて、吸った瞬間に、暴れ出したのだった。

 ちなみに、当時は今の時代と違い、会社の事務所であっても、会議室などでも、普通にタバコが吸えた時代だったのだ。

 そして、そのタバコが防衛軍の科学班で調べられると、

「タバコの中に、宇宙けしの実が入っていて、それは摂取すると、まわりが皆敵に見えてくるという凶暴性のあるものだ」

 ということであった。

「けしの実」

 ということは、麻薬である。麻薬の効果で、まわりのものが皆敵であると思わせることで恐怖を煽り、お互いが殺しあうかのように仕向けたというのだ。

 宇宙人の手によるものであるとされ、その時の科学班の人のセリフが印象的だった。

「恐ろしいことを考えたものです。人類の半分はタバコを吸っているんですからね」

 ということであった。

 実は、このテレビが放送された頃から、ちょうど、喫煙率というものが、調査され記録として残っているのだが、何と当時の日本人の成人男子の喫煙率は、八割を超えていたというのだ。

 今の数倍にあたる人口が、どこでもかしこでもタバコを吸っていたのだから、宇宙人が侵略作戦として考えるのも無理のないことであろう。

 その後、防衛軍と、正義のヒーローによって、宇宙人の企みは失敗した。そして、平和が戻ってきたわけだが、この宇宙人の目的というのが、

「我々は、暴力を好まない。だから、地球人同士が争うことを考えた。つまり、人類が互いに協力し合って生きていることに目を付けた」

 というのだ。

 つまり、そんな世界に刺客を差し向けたということなのだ。

 ただ、事件が解決し、最後にナレーターの人の開設が始まったのだが、そのセリフが興味をひくものだった。

「地球人の信頼性を利用するとは、恐ろしいことを考える宇宙人がいたものです。しかし、皆さんご安心ください。このお話は、ずっと未来のお話ですから。なぜって? それは、人間が今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信用していませんからね」

 という痛烈な皮肉を込めたエンディングだったのだ。

 この時は、麻薬効果のある、

「宇宙けしの実」

 というものを使って、人間を狂わせ、凶暴にさせた。

 それが、麻薬によるものだということであるが、これは、ジキル博士の開発した、

「まったく別の人格を作る」

 というものなのか、それとも、人間の中にある、本来持ちあわせていて、普段は抑えられているのだが、それを麻薬の効果によって覚醒させられたという、元からあった性格ということで、

「二重人格のもう一つが顔を出した」

 ということになるのであろうか。

 確かに人間には、本能的にまわりのものを怖がるという性質がある、そういう意味では、二重人格というよりも、、躁鬱症に近いといえるのではないだろうか。

 躁鬱症というのが、果たして二重人格なのかどうか。あるいは、二重人格が躁鬱症にいかにかかわっていくのかということを考えてきただけで、いろいろな発想が思いつくことになった。

 二重人格は、確かに自分の中に備わっているものであるということから、躁鬱症と同じで、躁も鬱もどちらも自分の中に潜在しているものである、

 そして、躁鬱症の場合も、二重人格の場合も、

「片方が表に出ている時、片方は静かにしている。意識することができない」

 という意味で、同じなのではないだろうか。

 だが、同じ人間の中にあるものだけに、まったく影響を与えていないということもないだろう。

 昼と夜だって、まったく違っているかのように思えるが、一日という時間の中で、毎日繰り返していることで、必然として、影響がないわけではない。夜が出現しない昼間であっても、夜の間に暖かければ、昼にもその影響はあるはずだ。実際には気象状況などが複雑に絡み合って、見た目は、まったく関係ないように見える。

「ん? 果たしてそうなのか?」

 と一瞬立ち止まって考えた。

 関係ないように見えているのではなく、関係ないように見せているという考えはないだろうか?

 気象変化を自然現象と捉えるのではなく、

「人間に、昼と夜の関係性を悟らせないようにするために、気象現象が働いている」

 という、かなり強引な考え方こそ、一種の、

「人間至上主義」

 なのかも知れない。

 逆に、

「人間至上主義というものが、傲慢な考え方だ」

 という戒めのような考え方から、

「まわりの自然現象は、人間の意志とはまったく関係のないものだ」

 という考えに至ることはないと考えれば、

「ここには、何かの見えない力が働いているのではないか?」

 と考えることもでき、下手をすると、人間が傲慢であったり、聞きに訪れる前触れではないかと思うようなことを、自浄する効果を人間自ら持っているのではないかという考え方自体が危険なのではないだろうか。

 とにかく人間というのは、自分に都合よく考えるものだ。

 それが二重人格であったり、躁鬱症のような、精神的なプレッシャーを感じさせるものに影響してくると考えると、不思議な気がしてくるのだった。

 ギリシャ神話において、人間界よりも上位にいるはずの、オリンポスの神々が、

「実は、人間よりも考え方が人間臭い」

 ところがあるというのは、実は、人間至上主義の逆の効果ではないだろうか。

「本当は人間よりも上位にいるのに、それでいて、人間臭いということは、人間の方が本当は優れているのではないかという考え方からきているとすれば、それはすごい考えではないだろうか」

 と言えるのである。

 前述の、

「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作り出すものなり」

 という言葉があるが、ここでいう神は、決してオリンポスの神ではなく、人間の都合で作られた神ではないということだ。

 では、飛躍した考えであるが、ここにある、

「知恵ある悪魔」

 というのが、人間が自分たちの都合で勝手に作り出した神なのではないかと考えると、

「オリンポスの十二神」

 などは、ここでいう、

「知恵ある悪魔」

 だといえるのではないだろうか。

 逆にいえば、

「神なき知恵が作り出したものも、また神であり、その神は、人間の傲慢さ、つまりは、都合によって作られたものではないか?」

 と考えたとすれば、ギリシャ神話というものが、

「人類を洗脳するためのものだった」

 という考えも生まれてくるのではないだろうか?

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