第4話 思春期と大人の視線

 大学一年生になるまで、童貞だというと、普通なら、気持ち悪がられるという意識があったので、それまで女性と話をすることはなかった。

「女って、結構鋭いところがあるから、男を見て、少し仲良くなったら、相手が童貞かどうかなんて、簡単に見抜けるみたいだからな」

 と言っている友人がいた。

 この男は完全に、肉食男子なのだが、あまりまわりに干渉しないという主義なのか、女性に関しての話はよくしてくるが、自分たちのことはあまり話そうとしない。

 鏑木のことも、童貞だということは分かっていると思うのだが、そのことについて、触れてくることはなかったのだ。

「俺は、昔からあまり他人に干渉しない主義なんだよ」

 と言っていたことがあったが、聞いたのは、確か一度きりだっただろうか。

 彼も、

「一度言えば十分だ」

 と思っているのだろう。

 そんな先輩が時々いうのは、

「女って、不思議な動物で、自分のことを一番に考えてほしいと言いながらも、かまいすぎると、嫌になるやつもいるんだよ、そんなやつに限って、適度な塩梅で、絶えず構っていてやらないといけないんだ。そこが難しい絡み方だといってもいいよな」

 と言っていたが、

「だったら、最初から、そんなややこしい人にこっちが絡まなければいいんじゃないのか?」

 と聞くと、

「それがそうもいかないのさ。好きになったもん勝ちって言葉があるが、この場合は、好きになったもん負け、ってところだな」

 という。

「何だいそれは、おかしな言い回しだな」

 と言って、笑いながらいうと、

「笑い話で済まされれば男は苦労しない。女には男を引き付けるフェロモンのようなものがある。それも一種の相性なのだろうが、そのことが分かってくると、自分も大人になったような気がしてくるものさ」

 というではないか。

「その大人というのは、女に対してという意味かい?」

 と聞くと、

「うん、そういうことになる。女に対して大人になることと、それ以外で大人になるということでは、どこかに決定的な違いがあるんだろうな」

 というので、

「それが、性欲なるものなのかな?」

 と聞くと、

「いや、一概にはそうは言えない。性欲というのは、それだけの力を秘めてはいるはずなんだが、大人になるから、性欲が強いというわけではないと思う。問題は、その性欲をどこまで抑えられるかということだと思うぞ。性欲というものは、元々人間は生まれながらにあるものではないかと思うんだ。子供の頃にはそれが表に出ないだけで、実際にはそれを抑える力が存在している。大人になるということは、その力がなくなってきて、本来出てこなければいけない性欲が表に出てくるのが大人になるということなんじゃないかな? たとえば、幼虫がさなぎになって、それからしばらく、大人になるための時期を過ごして、満を持して、成虫となって表に出てくる。それが大人になったということで、大人として生きられる期間は、動物によってさまざまだ。セミのようにm数週間というのもいるしね」

 と先輩は言った。

「性欲って難しいんですね?」

 というと、

「まあ、これは俺の個人的な私見なので、何とも言えないが、お前も自分でいろいろと考えてみるといい」

 と言われた。

「確かに子供の頃にも、何かムズムズしたものがあったけど、それが何だったのかって、考えることもある、確かに、股間がムズムズしていたし、気づけば抑えていたような気もする。でも、あの時は気持ちいいとかいうことは分からなかったな」

 と鏑木がいうと、

「そうなんだな。じゃあ、自慰行為に走るようなことはなかったんだろうな。だけど、人間というのは、発散させなければいけないだけのエネルギーというものは持っているものさ。そのエネルギーがあるから生きていけるんだし、それに伴った成果もえられる。だから、その成果をさらに得ようとするんだ。それが快感というものさ。そして、その快感が性欲に結びついてくるものなんだよ」

 と先輩から言われた。

「確かにそうかも知れない。人間は眠らないと生きてはいけないし、生きるために、心臓は絶えず動いているんだと考えると、君がいように、発散せなければいけないエネルギーの存在は信じられる気がするな。そして、その発散がどういうものなのかということも、何となく分かる気もする」

 というと、

「じゃあ、君にも何かを発散させなければいけないというものを感じるのかい?」

 と聞かれて、

「漠然としてではあるが、どういうものなのかって分かるような気もしているんだ。もちろん、言葉で言い表せればいいんだろうが、そういうわけにもいかなくてね」

 というと、

「そんなものさ。それが性欲への第一歩のようなものさ。とにかく、発散させなければいけないものは、手段があれば、それを問うことはないのさ。言い方を変えれば、どんな手段を使ってもというところだね」

 と、わざわざ、強調するかのような言い方をした。

 それを聞いて、余計に、発散について考えるようになった。

「その発散させなければいけないものって、たぶんストレスだよね? 性欲というのも、ストレスの一種なんだろうか?」

 というと、

「そうだな、ストレスとは違うように、俺は認識しているけどな。ストレスは何か外的に自分に対して、プレッシャーになることがあって、それに反発しようとする反応はないかと思うんだけど、性欲は元々存在しているものを表に発散させるものだからな」

 と先輩がいうので。

「でも、きれいな人を見て、身体が反応するのが性欲だとするなら、その感覚って、外的な圧力なんじゃないかな? プレッシャーとは違うものだけど」

 というと、

「確かにそうかも知れない。だけど、この場合は、プレッシャーか、それとも圧力下ということが問題なんじゃないかと思うんだ。それがそれぞれに近い者だったら、同じだといえるだろうし、遠いものだったら、少し違うものだって感じる。俺の場合は、遠いものだって感じるんだ。だから、ある意味、この問題に正確な回答というのはないかも知れない」

 と先輩は言った。

 それを聞いて頷いた鏑木だったが、

「性欲というものと同じかどうか分からないんだが、俺は今気になっている女性がいるなけどね」

 というと、

「ほう、そうか、お前にもそんな女性が現れたか。これで朴念仁を卒業できるってものだ」

 と、先輩はまるで自分のことのように嬉しそうにしている。

 それを見て、

――よく、そんなに、人のことで感動なんかできるものだな――

 と感じた。

 今まで、自分のことでもないのに、よく人のことで感動したり、同感に感じることのできるといっている人の心境が分からなかった。

「本当にそんな気になれるのだとすれば、教えてほしい」

 と感じるほどだった。

 自分が坊主を目指している中で、そこに反対の気持ちなどないと思っていたが、たまに、

「俺のような男が坊主になんかなっていいものか?」

 と思う時があった。

 坊主というものが、本当はプレッシャーだったのではないかと思うと、その思いと性欲とが結びついてくるような気がして。先輩の言葉が時々浮かんでくるのだった。

 その先輩は、性的な話には、結構詳しく、その手の話になると、自慢げに話をするので、他の人に聞けないようなことでも、気軽に聞けた。

 逆に先輩は、それ以外のこと、一般常識や雑学的なことには一切疎かったので、そういう意味で、鏑木を頼ってきたのだ。

 お互いに、winwinの関係だったといってもいいだろう。

 そのおかげで、先輩からも、

「タメ口でいいぞ」

 と言ってくれているので、二人だけの時は、敬語を話すこともなかった。

 知らない人が見れば、同級生に見えるだろう。それくらい、お互いに気楽な付き合いだったのだ。

 鏑木は結構雑学的なことは得意だった。

 しかも、歴史的なことの雑学には結構得意で、それらの本も結構読んでいたので、話をするとそこから盛り上がるので、先輩はそんな鏑木に信頼を置いていた。

 先輩も、実は歴史に関しては好きだといっているだけに、鏑木の話についてこれるほどの知識は持っていた。さすがに、好奇心が鏑木ほどないので、自分でいろいろ調べてみようとはしないので、鏑木からの情報が嬉しかったのだ。

 鏑木は、先輩にもう少し好奇心を持ってほしいという気持ちを持っていた。最初は性欲などのような下ネタ系の話も、本当は苦手だったのだが、先輩の話をしている時の態度が自分の想像していた先輩の域に達していたので、それで嬉しくなって、自分の方から下ネタに乗っかるようになっていった。

 まるで、

「ミイラ取りがミイラになった」

 とでもいうかのように、いつの間にか先輩のペースに乗せられている自分を感じたのである。

 だが、先輩の、話をする内容の中には、歴史にかかわる話など、鏑木にとって、優位になれそうな話もあった。その時は鏑木も遠慮することなく、どんどん話しかけるようにしている。

 先輩は怒るどころか、鏑木が絡んでくれたおかげで、自分の話にも重みが出てきたことで、さらに自分の中にある別の知識に絡めて話すことができる。

 別の知識と言っても、先輩が鏑木にかなうだけの知識はどうしても下ネタししかならず、それでも話題が膨れてくることは、お互いにありがたいことだった。

 鏑木も先輩もお互いに相手に大いなる敬意を表し、話をしていることは、これ以上ないといえるほどの、二人にとっての独壇場なのかも知れない。

 そんな話をどのように展開させるかということは、どちらが主導権を握るかということであり、それができるのは、鏑木だった。

 いくら、下ネタ系の話を先輩が得意だといっても、やはり、羞恥心が少しでもあれば、なかなか言い出せない話なので、それをいかにうまく引き出すかということにかけては上手な鏑木が主導権を握っているのだ。

 鏑木としても、

「聞くに堪えない話」

 というどころか、興味津々な話であるため、鏑木にとっても、先輩にとっても、これほどの関係はないと言えよう。

 鏑木には、

「話の主役が相手である」

 と見せかけるようなテクニックがあった。

 主導権を握りながら、あくまでも、

「話の主役は相手である」

 と本人にも、まわりにも思わせることが大切だ。

「主役はあくまでも相手だが、主導権は自分が握る、そして、主役が自分であることを、自分だけでなく、まわりの人間にも認識させることが大切だ」

 ということである。

 この四つのうちのどれが崩れても、この関係は成立しない。

 だから、主役と主導権を握っている人間が違うという設定は難しいのだ。

 そんな会話をずっとしてきた先輩とだから、

「先輩には、他の人には言えないようなことでも話せる気がするな」

 というのだ。

 そういうと先輩が喜んでくれるのも分かっているし、実際にこれが本音でもあった。鏑木にも人に言えないような話がいくつもあり、鏑木だからこそ、そういう話が多いのではないかと思えるのだった。

 鏑木の家がお寺だということを、中学時代くらいまで嫌いだった。

 小学校でも、中学でもそのことでいじられてしまった。苛めにまで発展することはなかったのだが、いじられるのは、基本的に嫌だったので、気持ち悪かった。先生も、

「皆、変なことは言わないように」

 というような言い方しかしない。

 そもそも、先生も、何が悪いということなのか分かっているのかも疑問だ、だから、

「変なこと」

 などという曖昧な言い方にしかならないのだ。

 だから、

「皆が何を言っても気にしないようにすればいいんだ」

 と思うようになった。

 大人が当てにならないということに気づいたのが、この頃だった。

 だからと言って。子供だったら、何を言ってもいいというわけではない。子供がいうのを、大人は、

「子供だからね、ある程度はしょうがない」

 という親がいたりするが、

「何を言ってるんだ」

 としか思わない。

 子供にだって、言っていいことと悪いことがある。悪いことを言ってしまうと、取り返しがつかないことになるというのを、大人が教えるべきなのだろうが、その親自体が分かっていないのであるから、本末転倒なのだ。

 そのことを分かっているからなのか、大人は何も言おうとしなくなった。それが小学生の頃までのことだった。

 中学に入ると、少し言われ方が減ってきたような気がする。

 そもそも、中学生になると、皆自分のことだけで精一杯という感じになっている。それは、思春期を迎えたからなのだろうが、人にかまっている状況ではないと思うのだろう。

 しかし、興味津々になっているようで、異性に関しての感情は尋常ではないようだ。

「大人になるということは、こんなに寡黙になるということか?」

 と感じたが、それが親や社会人になると、そうでもなくなる。

 親や先生ばかりを見ているからであり、そこには、子供に対して責任があるということなのであろうか。

 実際に親や先生など、その子供にかかわりのある人は、当然のごとく、介入してくる。自分の立場を危うくされても困るだkらだ。

 そんな親などの大人を見ていると、子供心に冷めた目になってしまう。親の目線が上から目線であることが分かると、子供は親を無視するようになってくる。

 自分たちが上から目線なのを棚に上げて、自分たちのことしか考えていないことを知られたくない一心で、子供を庇うような口調になるが、結局、自分に迷惑が掛かるのを恐れて、次第に声のトーンも上がってくる。

「どうして、お母さんの言っていることをちゃんと聞こうとしないの?」

 と言われるが、

「あんたの言ってることは、自分の保身のためだってことくらい、バレバレなんだよ」

 と言いたくなって、ついつい目線が攻撃的になっていまい、

「何、その反抗的な目は?」

 と言って、勝手に逆上するようになる。

 ここまでくれば、子供も脱力感に包まれて、

「何言ってるんだか」

 と段々、話すのがバカバカしくなってくるのだ。

 子供が親と話さなくなる理由はそのあたりにあるのではないだろうか?

 子供は親が思っているほど、子供ではない。冷静な目で見るということに関しては、大人よりも子供の方が鋭いのではないだろうか。

 なぜそうなるかというと、

「大人は自分のことしか考えていない」

 と言えるからだ。

 そのことを子供が分かってくると、親離れの時期なのかも知れないが、まわりが、自分のことしか考えていないということが分かってくると、やはり、それ以上にまわりを見るのが嫌になり、引きこもってしまう子供が増えるのも、無理のないことなのであろう。

 中学生の頃は思春期なので、自分のことで精いっぱいになることから、親に完全に反抗できない。自分のことをまず分からないと、まわりが見えてこないはずなので、自分のことで精いっぱいになるというのも当然のことだ。

「大人も厄介だけど、今の自分も厄介だな」

 と、思春期に感じることなのだろう。

 高校生になると、今度は、余計にまわりの人と絡まなくなった。高校生というのは、最初に、うまくまわりに絡めなければ、そのまま孤立化してしまうもののようだ、なぜなら、中学への進学は義務教育で、しかも、校区がそれほど違わないので、ある意味、ほとんど皆同じ中学に入ることになる。

 だが、高校では義務教育ではないので、成績のレベルから、必然的に学校が決まっていくので、中学時代に仲の良かった人と同じところに行けるという保証はない。

 逆に、中学の頃にあまりいい思い出のない相手と別れることができるという意味で、それはそれでありがたいのだった。

 高校生になると、中学生の頃と違って、学年ごとに、明らかに違いがハッキリしてくる。二年生は二年生で、三年生は三年生で、それぞれの貫禄のようなものがあり、一年生から見ても、相手が何年生なのかが分かるというものだ。

 身体の成長もそうだが、精神的な成長が大きいのだろう。身体の成長ということであれば、中学時代の方が、背が伸びたり、女性は身体の発育が、明らかになるからだ。

「人間って、身体の成長が先で、後を追うように、精神的な成長がついてくるものなんだろうな」

 と感じた。

 だが、二年生になると、今度は、一年生の時に二年生の成長を感じたほど、一年生を見て、

「まだまだだ」

 という感覚にはならない。

 三年生を見ても、一年生の時に感じた。二年生ほど遠くに感じることはない。

 二年生という中間にいると、それぞれに分かってくるものがあるからか、上も下も見えてきて、三年生になってからよりも、二年生の時の方が、よく分かっているような気がするのだった。

 中学時代には、そんな発想はなかった。

 中学生の時には、確かに先輩というと、

「大きいな」

 という感覚はあったが、そこまでではないことは、二年生になって分かった。

 二年生になると、自分が見ていた二年生と、まったく変わらない二年生になった気がしている。

 要するに、、まったく成長したような気がしないのだ。

「まわりが、今までと変わらないというところがあるからなのかも知れないな」

 と感じた。

 自分がこれまで知っている相手が、同じように成長していく姿を一緒に見ているので、相手の方が成長が大きくても、一緒にいると、そこまで相手が自分よりも成長した気にはならないからだ。

「そのうちに、自分が成長する時期になって、同じになるんだ」

 ということを感じているので、人の成長も自分の成長に関しても、あまり意識がないのだった。

 だが、高校生になると、今まで知っている人たちではない人たちがまわりにいることになる。

「どんな人たちなんだろう?」

 と考えてしまったが、思っていたよりも、想像とは違えたものだった。

 一番の違いを感じtのは、成長の度合いで、中学時代の友達と比べても、みんな垢抜けているように見えた。

 それは、今までずっと一緒にいた人と比較するからそうなるのであって、高校で同級生になった連中も、中学時代の友達と、さほど変わりのない成長だったに違いない。

 さらに、クラスメイトの皆も、本当であれば、同じことを思っているのであろう、ただ、それを悟られたくないという思いから、虚勢を張って見えるのかも知れない。

 だから、まわりにも、自分が同じように見えているとすれば、きっと、皆、

「食わず嫌い」

 のような感じで、相手をけん制しあってしまって、近づこうとしないからこそ、余計な距離ができてしまうに違いない。

 それが分かっているから、お互いに余計に近寄ることもなく、適度な距離を保っているのだろう。

 その距離も慣れてくると、皆が皆距離の取り方がうまくなり、ずっと、

「交わることのない平行線」

 を描くことで、結局、卒業するまで、接することのない人は、ずっとそのままの距離を取ることになるのだろう。

 そんな高校時代になると、急にまわりが皆大人に見えてきて、そんな中で好きになる女性が現れるかと思ったが、そうでもなかった。

 気になる子がいたにはいたが、その子は、すでに彼氏がいて、まわりの人の話では、結構な、

「あばずれ」

 だという。

 おとなしそうに見えたのだが、どうも、夜になると、夜の街を俳諧しているという話で、先生からも目をつけられているが、先生も、彼女には手を出せないという。

 バックには、危ない人たちがついているということだったので、学校のクラスメイトごときが相手になるような女ではない。

 目鼻立ちがハッキリしていて、ほとんどの男性が彼女の容姿について悪くいう人はいないだろう。

 怪しげな魅力には、妖艶という表現がふさわしく、

「ひょっとすると、彼女のバックにいるという危ない連中が彼女を守っているわけではなく、あの連中こそ、彼女の魅力に魅了されてしまったのではないだろうか?」

 と、すべて、彼女の美しさから起因しているものだといってもいいという話だった。

 ただ、クラスの中で、幅を利かせているやつがいうには、

「あの女の魅力は、男を魅了しているだけではなく、あの女本人を狂わせているのではないか」

 というのだ。

 その話をしてくれた男性とは、なぜか鏑木は仲がいい。他の連中に対して、一歩下がってしか見ていなかった鏑木に、彼は自分から話しかけてきたのだ。

「君は、まわりの連中に臆しているように見えるけど、どうしてなんだい?」

 と聞かれたのだ。

 いきなり、そんなことを聞いてきたので、一瞬、

「お前には関係ないで見抜いたはないか」

 と言いそうになるのをこらえて、思わず見返した。

 すると彼はニッコリと笑って、

「そうか、それは悪いことを聞いたな。でも君は別に臆する必要なんかないと思っていたので、今君が俺に見返してくれたその目を見て、君とは仲良くやっていけそうだって思ったんだよ」

 というではないか。

 そんなこと言われたのは初めてだし。いくらクラスメイトとはいえ、話をしたこともなく、ほぼ初対面と言ってもいいような相手に、そこまでいうというのも、少しびっくりした。

 だが、それだけ彼が、こちらを気にしてくれていて、初対面ではないという意識を持っていてくれていると思うと、嬉しい限りだったのだ。

 それから、彼とは仲良くなったのだが、彼のことだから、鏑木が、その女性を好きになりかかっていることを分かったのだろう。

 彼であれば、言われても別に悪い気はしなかった。逆に自分のためにアドバイスをくれようとしていると思うと嬉しかった。彼のいうことには、ほとんど間違いはなく、的を得ているからであった。

「他の動物などでは、女王バチのように、メスが圧倒的に強い動物もいるが、人間にはそのような性質はないんだ。何だかんだいっても、男性世界なんだよな。だから、女性が著しい力を持ったとしても、それは無理のあることだと思うんだ。まわりを魅了している魔力が備わっているとすれば、それは下手をすると自分を滅ぼすことになるかも知れない。本来ならその女がそれだけの力を持っていてくれればいいんだが、それがないとすれば、彼女のまわりの男も女も、すべてが瓦解してしまう。そうなると誰も、彼女が作り出した魔力に打ち勝つことができないんだ。彼女が死ぬか、あるいは、まわりがすべて亡ぶことで、その効力がなくなるしかないんだ」

 というのだった。

「でも、女性の帝王がいたおかふぇでよかった杯もあるんじゃないかい?」

 というと、

「もちろん例外もあるだろうが、そのほとんどは一代で滅びたり、違う家系に変わったりして、長続きしていないではないか。それを歴史が証明しているではないか。世の中なんてそんなものさ、しょせんは、歴史の中に、答えはあったりするものだからな」

 というのだった。

「かなり壮大な話になってきた気がしたけど?」

 というと、

「うん、俺もそう思う。ただ、お前はあの女のことは早く忘れた方がいいな。本当はお前だけではなく、他の皆も狂ってしまう前に、気づいてほしいんだ」

 と彼は言った。

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