第3話 坊主を目指す
鏑木が、早朝ソープに通うようになったのは、確かに最初は、割引だったり、他のメリットによるものだったが、今では違う。一人の女の子に遭いたいがためのものであり、これは、
「風俗で遊ぶ」
という感覚よりも、
「好きな人に会いに行く」
という感覚に近いものだ。
それまで、ずっと風俗遊びを繰り返してきた鏑木だったが、こんな気持ちになったことは、今までになかったかも知れない。通い始めてすぐであれば、それも致し方ないのかも知れないが、風俗通いという面でいえば、ある意味、ベテランだといってもいいだろう。それを思うと、本当に自分でも不思議な気がした。
最初は分からなかった。どうして、一人の女の子に執着するのかということをである。
だが、よく見ていると、その女の子が、昔自分が知っていた女の子に似ているということを感じ始めたからだ。最初見た時はそんな気持ちにならなかった、しかし、途中から、
「似ている」
と思うようになったのだが、それは以前の記憶が変わってきて、記憶の女の子が似ているように変わってきたのかと思ったが、どうやら、目の前にいる女の子が、会うたびに、記憶の垢の彼女に似てきているような気がするのは不思議な感じだったのだ。
では、その記憶の中の女の子というのは、いつ育まれたものなのかというと、今から十年くらい前の、大学時代にさかのぼることになる。
当時の鏑木は、家がお寺をやっている家に生まれたことで、
「自分は坊主になる運命なのだ」
ということを、自覚し、大学生活を送っていた。
高校時代までは、坊主になるという意識はまったく揺るぐことはなく、勉強も人生もそのつもりで歩んできたのだった。
思春期にも、さほど性欲が強かったわけでもなく、それよりも、
「俺は坊主になるのだ」
という意識が強かったことで、ほとんど迷いもなく、煩悩もなかったことから、大学受験も、それほど苦痛だと思うこともなく、こなせていたのだ。
「どうせ、寺を継ぐんだから」
という甘い気持ちがどこかにあったので、大学受験にそこまでプレッシャーを感じなかったのだろうが、それが却ってよかったのかも知れない。
どちらかというと、要領がよかった鏑木は、勉強方法も的確だったようで、大学入試のための勉強という意味でいくと、成功者だったのだろう。
さほどの苦痛を感じることもなく大学生になれた鏑木は、
「この世の春を謳歌しよう」
という気持ちで、大学生になったのだ。
これは、寺を継ぐという意識からではなく、誰にでもいえることではなかっただろうか。
大学時代の四年間を過ぎれば、そこから先は、誰にでも訪れる社会人という壁。高校時代までは、進学ということが一番で、そのために高校生活を犠牲にしてきたところがあった。
だが、その苦痛を乗り越えれば、その先には、
「この世の春」
と言ってもいいであろう、大学生活が待っているのだ。
それまでの、禁欲生活から解放され、その先には、
「極楽浄土」
が待っている。
と感じながら、受験勉強に勤しんでいた鏑木だったが、大学の合格発表にて、自分の合格を確認した瞬間から、それまでの感情と少し違ったものが芽生えてきたのも事実だった。
「これでやっと、大学生活という極楽浄土にいける」
という思いを素直に受け止め、合格という快感に浸っていられたのは、数日間だけだった。
数日してから、次第に頭の中が覚めてきたのを感じたのだ。
「極楽浄土というのは、人間の最終経路であって、そこから先はないのだ。そして、極楽浄土というものは永遠なのだ」
という思いが頭の中に現れてきたのだ。
実際の大学生活というのは、四年間しかない。その四年を楽しく過ごすことはできても、そこから先は、誰もが就職ということに足を踏み入れる。
そこでは、誰もが、新たな道であり、これまで最高学府という肩書を持っていたが、今度は、社会人一年生として、そこから先、今までとはまったく違った毎日を過ごさなければいけなくなる。
中には、そのプレッシャーに押しつぶされるやつもいるだろう。
高校生の頃に大学受験を乗り切って大学生になれたはずの人が、社会人一年生で挫折してしまうのだ。
「それだけ、大学生活が、人間を堕落させてしまうということなのか、それとも、社会人というのが、今まで経験してきた生活とは、計り知れないほどのプレッシャーなのかということなのか、実際になってみないと分からない」
と言えるだろう。
社会人というと、今の時代は昔ほどひどいことはなくなっていることは分かっていた。
今では、コンプライアンスという言葉に会社も敏感で、それまで、横行してきたといってもいい、セクハラであったり、パワハラであったりするものが撤廃されてきた。
新入社員にとっての苦痛は、半分は解消されているといってもいいかも知れない。
社会人になると、ある程度は、
「上司の命令は絶対だ」
と言われるだろう。
これはだいぶ上の先輩から、入社式の時のことを聞かされた時のことだった。
その先輩というのは、おじさんになる人で、親戚が集まった時、数人に対して、コンプライアンスの話が出た時に、話していたものだった。
「俺が、入社した時は、今のようなコンプライアンスのようなことは言われていなかったので、その時の入社式の時に言っていた言葉が結構今でも頭に残っているんだよ」
と切り出し、一息入れて、さらに続けた。
「いくつか話してくれたんだけど、最初は、三のつく数字を話してくれたかな? 三日持てば、三か月もつ。そして三か月持てば、三年もつってね。そうやって段階を自分で意識しながら仕事をしていると、仕事をするのも、そこまで苦痛ではなかったというんですよ」
と、三年について語った。
「なるほど」
と思ったが、その次の言葉の方が印象に深かった。
「とりあえず、最初の一年は、上司のいう通りに仕事をしてみてください。中には理不尽なことをいうと思うかも知れませんが、とりあえず、そうしてみてください。そうすれば、二年目以降に、その理不尽さがどこからくるのかということが、自分の中でしっかりと理解できるようになるんですよ。そこが大切なんです。最初に違和感や理不尽を感じたとして、それが本当はどこから来るものかを分からずに、反発するのであれば、それは、ただのわがままにしか見えませんからね、って追われたんですよ。最初は本当に何を言っているのか分かりませんでしたが、一年経ってみると、不思議と自分でも、よく分かるように感じました」
と、そのおじさんは言っていた。
それを聞いたのが、大学二年生の頃で、一番大学生活を謳歌している時期だったが、頭の片隅には、
「あと三年もしないうちに、大学を卒業するんだ」
という気持ちがあったのだ。
社会人であれば、それまでの理不尽さや納得のいかないことを、コンプライアンスと言う言葉が取り除いてくれ、今までの新入社員に比べて、格段になじみやすい生活になってくるだろうとこは分かるが、坊主を目指している自分には、そんなコンプライアンスなどと言う言葉とは無縁であることは分かっていた。
「毎日が修行で、楽なことなどあるはずはない」
と思っていたが、次第に、今の楽しい大学生活と、今後迎える修行の毎日を考えると、ジレンマに陥ってしまう自分を感じるのだった。
「しょせん、大学生などというのは、幻影なのだろう」
という思いで、二年生くらいを過ごしてきた。
だが、次第にその感覚が揺らいできたのは、それまで感じたことのない。恋愛感情だった。
最初は、大学生になるまで恋愛感情を抱いたことがないことを不思議に感じなかったことを、
「おかしい」
と思うこともなかったのが、おかしなことだったはずである。
思春期があったのは間違いない。街を歩いている女性に対して、
「あの人、きれいだな」
という感情が浮かんでくるのも分かっていた。
だが、あくまでも、自分にかかわりのない人なので、言葉を交わすこともない人間に、恋愛感情など抱くはずもなく、
「錯覚だ」
というくらいに感じていたのだった。
高校生の頃までも、同じクラスで、
「かわいい」
と感じた女の子もいた。
だが、その子と会話をしたこともなく、そのうちに、告白をしてきた同じクラスの男の子と付き合いだしたと聞いた時、
「告白していれば、俺にだって、チャンスはあったかな?」
と感じ、少しだけ悔やんだが、何と言っても、告白するかどうかというところに、大きな結界があるのだ。
そんな簡単に
「告白していれば」
などという言葉で片付けられるものではないに違いない。
高校時代は、それ以上に、
「大学受験」
というれっきとした目標があったのだ。
それに向けての目標が明確である以上、どう対処すればいいのかが、明確になっているような気がしたのだ。
大学生になってからは、まったくまわりの見え方が違ってきた。それまでなあった解放感ということ一つだけが加わっただけで、ここまで世間が違って見えるとは思ってもみなかったのだ。
同じ色でも、それまでとは違うのだ。焦点を合わせて見ているつもりでいるのに、まわりの色、例えば空の色が今までと違って見えることで、合わせた焦点の色がまったく違って感じるのだということを、すぐに理解できなかったのは、きっと、その解放感というものが邪魔をしていたからなのだろう。
そう思うと、
「なんて、皮肉なことなんだ」
と考えるようになった。
大学時代は、高校時代までになかった、
「解放感」
があるのだ、
焦点を合わせて見ているようでも、まわりまで見えていることに気づかないが、その分、見えていなかったものが見えるようになったというのも事実だった。
「これが大学時代というものなんだ」
と、皮肉をたくさん感じるようになったのも、同じ理由であると感じたのも、違和感からであろうか?
大学時代には違和感というものが、結構あったような気がする。それが、皮肉というものと関係しているのではないかと思ったが、どうやら、そこには時間差があるような気がした。
時間差というのは、いつも同じ間隔でなかっただけに厄介だ。同じ間隔であれば、見えてくるものの大きさが同じでも、違っていても、さほど意識はないのだが、間隔が違うとなると、大きさが同じであることに対して、違和感しか感じないのであった。
「それも大学生活というものだ」
と一言で今までなら片付けられたのだろうが、ある時からそうもいかない気がしたのだ。どうやら、それが、
「恋愛感情を持ったからではないか?」
と感じるようになった、きっかけなのかも知れない。
大学生活の中で、好きになった女の子がいなかったわけではないが、
「女性を好きになるという感覚が分からない」
という思いに至ったのだ。
その理由としていえることは、
「女性というものをどのように意識しているのかわからない」
ということであった。
人を好きになるというのは、相手の性格を好きになるということなのか、それとも、性的欲求も一緒に考えることなのかということが分からないと話にならない。
女性を、異性と考えるかどうかということから、性格的なものが変わってくるだろう。
「相手が男性であれば、基本的に友達、親友という感覚になるが、相手が女性、つまり異性であるとすれば、相手の性格的なところが、女性だから、という発想で片付けられるであろうか?」
ということである。
相手が男性だと思うと、
「同じ男性なんだから、気持ちはわかる」
と感じることだろう。
だから、
「男性だから分かる。女性だったら分からない」
という単純なものなのだろうか?
恋愛をしたことのない人、いや、それ以前に、恋愛感情を持ったことのない人は、男女というものを一刀両断にして、違うものだと感じるようになっているのかも知れない。
だから、女性に対して、どこか違和感があるのではないか、特に潔癖症だと感じている人に多いかも知れない、
逆に、女性に対して興味がなかったり、自分とは違う人種というくらいに感じている人は、自分を潔癖症だという意識がないのではないだろうか。自分のことを潔癖症だと思っているのだとすれば、この違和感はなく、逆に、
「潔癖症だから、女性を好きになれない」
と思うのかも知れない。
逆に、男というものに興味があるのかも知れない。
最近では、小説やマンガの世界でも、BLという、いわゆる、
「ボーイズラブ」
というジャンルが流行っている。
年配の人などには、よく分からないが、どうしても、年配の人間から見れば、男同士の同性愛は、
「暖色や衆道」
と呼ばれるような世界しか思い浮かばない。
戦国時代などには多かったもので、これは時代的に仕方のないことなのかも知れないが、あまり男性同士の同性愛というのは、言葉のイメージとしても、よくない感じがしてくるのだ。
だからと言って、女性同士が美しいというわけではない。耽美主義の中には、女性同士の恋愛を美しいと考えるものもあるのだろうが、今の時代のBLというものが、どういう発想からきているのか、よく分からなかった。
ただ、最近では、草食系男子と言われるような、女性に興味のない男性が増えている。結婚しようと考える男子も減ってきている。これは女性と性格的な関係を持つというよりも、性的欲求が生まれてこないことから、女性に興味のない男性が増えたということであろうか?
性欲が普通であれば、女性に興味がなければ、男性にいくのだろうが、BLのようなことは実際にはないだろう。
そうなると、この社会問題になっている、
「少子高齢化」
というのに拍車がかからないのも分かる気がする。
「結婚する人が減ってきていて、しかも、結婚してから離婚するという人が増えてきている」
これでは、子供ができるわけもない。
もっとも、子供を作っても、社会が機能していないのだから、少子高齢化は避けられない。
何と言っても、現在の夫婦生活は、共稼ぎが基本になってきている。そうなると、子供ができれば、託児所であったり、保育園に預けるということが基本である。
それにも関わらず、保育園に入所したいと思っている人の数に全然足りておらず、
「待機児童」
がどれだけいるというのか、
政府は、
「子育て支援:
などと言って予算を組んでいるのかも知れないが、結果、ほとんど機能していないのであれば、同じではないか。
そもそも、政府がどこまで真剣に少子高齢化を考えているのか分からない。
どうも、女性政治家の人しか考えていないように思えるのは気のせいであるのか、そう考えるから、
「女性議員が増えてきているのではないか?」
と思えるのだ。
「男性議員だと、どうしても男性の目線からしか見ることができないので、女性支援や子育て、少子高齢化を担ってくれる女性議員をたくさん増やしたいというのも、国民からだけでなく、男性議員の中にもいるのではないか?」
と考えられる。
要するに男性議員の責任転嫁になると思えるのだった。
性格的なことで、男女が仲良くなれないとすれば、それは小学生の頃の感覚に近いのかも知れない。
どうしても、男女の関係というと、そこに恋愛感情が存在しているかどうかというのが、まず最初に考えることであろう
恋愛感情であれば、また付き合い方も接し方も違ってくる。そうではなく、友達や兄弟のような感覚であれば、男性の友達とあまり変わらない付き合い方になるだろうが、どうしても歩み寄ることのできない関係が出てくるに違いない。
そんな恋愛感情を持つには、思春期というものを通り超えてくる必要がある。
その思春期の間に、恋愛感情を持ったことがあったかどうか、これも、その後の感情に大きな影響を及ぼすのではないだろうか。
思春期真っただ中においての恋愛感情が、性格的なところでの異性への感情なのか、それともズバリ、性的欲求によるものなのかということが問題だ。
しかも、後者であれば、その相手が特定されているのか、されていないのかという問題もはらんでくる。
相手が特定されていないのであれば、完全に性欲というものの現れであるといえよう。ただ、それが思春期ということであれば、
「それはそれで仕方がない」
と言えるのではないだろうか。
それが思春期というものであり、思春期における正当な判断ができるはずの年齢でもあるはずだ。
思春期における性欲の高揚は、仕方のないことであり、人間の本能だといってもいいかも知れない。だから、本来あるべき時間を、その通りに過ごしてこなかった弊害だって起こりえるだろう。
性犯罪の中には、思春期に勉強ばかりしていて、欲を抑えつけてきたことで、ある時、その抑えていたものが爆発することで理性を失い、性犯罪に走らせるということになる。
抑えつけていたものが何であるかということも分からずに抑えつけているのだから、すでに理屈で解決できる段階ではなくなってしまっているのだろう。
だから、抑えが利かずに、暴発するのは、自分で無意識な行動であるだけに、本人に抑えられるわけがない。無意識の状態に近いわけだからである。
それを、今度はまわりが、本人の意識に関係なく抑えようとして、抑えられるわけもない。
行動パターンも思考回路の構造も分かっていないのであれば、神出鬼没だと思われても仕方がないだろう。
思春期に、欲望を抑えつけるパターンとして、外的要因と内的要因とでどちらが多いのだろう?
自分で、
「性欲は悪いことだから抑えなければいけない」
というだけの理屈で、訳も分かっていないのに、抑えつけようとする場合、あるいは、まわりの大人が、
「この子は自分で抑えることができないから、親や先生が無理やりにでも抑えようとしないと、犯罪者になってしまう」
ということで、こちらは、強制的に完全に抑えつけてしまう。
そうなってしまうと、本人が納得する以前に、反発の方が強く、反発しようとすればするほど、性犯罪にのめりこんでいくものなのかも知れない。
そんな中で、大学生になっても、
「まだ、童貞だ」
という人も少なくはない。
以前のように、童貞だといって、気持ち悪がられる時代ではなくなってきたのか、それとも、草食系男子が増えてきたことで、そういう男子が強くなってきたのか、はっきりとは分からない。
草食系男子が増えた理由はどこにあるのだろう?
一つは、学校で苛めなどがあり、あるいは、親や大人に不満があったりして、引きこもりが増えたからであろうか?
さらには、パソコンやネットなどの普及もあって、チャットなどによって、遠隔で話ができるようになって、一緒にいる必要がなくなってきたからなのか。
さらに、アニメなどの、二次元などのキャラクターにあこがれを持つようになったからなのか、
それぞれに信憑性があるように思えるが、それだけに、どれが正解なのかというのは、分かりそうにもない、
昔でいえば、大学に入学してきて、童貞だと言えば、先輩が風俗に連れていってくれて、
「祝、童貞卒業」
などと言っていたものだが、最近ではどうなのだろうか?
実際には、
「風俗離れしている」
とも言われていて、ひょっとすると、昔の敷居が高かったソープではやっていけないことから、敷居を下げて、風俗離れしないような努力が行われているのかも知れない。
鏑木は、結構性風俗の世界の話をまわりから聞いて知っていた。
「自分は坊主になる運命なんだ」
ということが分かっているつもりであったが、どこまで世俗と切り離さなければいけないのかということを、自分の中で理解していなかった。
確かに、頭を坊主にしたり、袈裟を着たりなどという、形は大切なのだろうが、自分の欲をどこまで捨てなければいけないのかということを考えられるところまではいっていなかった。
中学、高校時代と、あまり性欲というものを考えたことがなかった鏑木だったが、大学生になり、少しすると、自分の中に性欲がみなぎっているということに気づいたのだ、
それが、一人の女性が気になるようになってからのことだということは分かっていたのだが、
「彼女のことを好きになったから、性欲がみなぎっていることに気づいたのか、それとも、性欲を彼女に感じたから、彼女のことを好きになったと思ったのか」
そのどちからであるということは分かるのだが、実際にどっちなのかということに対して、考えがまとまらなかった。
なぜなら、そのどちらも、
「決め手に欠ける」
ということだったからである。
鏑木が好きになった女性は、同じクラスの女の子だった。その日、テキストを忘れてきた鏑木に、ちょうど隣の席に座った彼女が、
「どうぞ、一緒に見ませんか?」
と言って微笑みかけてくれた。
「まるで観世音菩薩様のようではないか」
と、さすがに房洲らしい発想をしてしまった。
その笑顔に後光がさしているかのように見え、
「ありがとうございます」
と思わず、下からの目線で見上げるようにしたにも関わらず、彼女は上から見ている様子はなく、横からの視線を崩さなかった。
それなのに、目線が遭っているように見えるのは、まるで目の錯覚ではないかと思えるほどだった。
そんな感情から、彼女が今までに見てきた女性とは、種類が違っているような気がした。もちろん、男性というわけでもなく、今まで出会ったことのないような新たな人種という感じである。
まるで、天使様にも見えてきた。坊主のくせに、聖母マリアを想像してしまったくらいだ。
その時点では、彼女に性的欲求がぶつけられたという意識はなかったはずだった。
それなのに、彼女に性欲を感じたタイミングが、彼女を好きになったタイミングとどちらが先なのかということが分からないということは、彼女の視線の矛盾に新鮮さを感じた時が、彼女を好きになった時ではないといえるのではないかと思うのだった。
彼女の名前は、新垣あかりと言った。名前を初めて知ったのは、初めて口をきいてから、少ししてからのことだった。
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