第2話 風俗通い

 夜の街を歩いていると、なぜにそんなに怒りに満ちたことを思い出したのか、自分でもわからなかった。本来であれば、これから至福の時間を味わおうという気持ちでいるはずなのに、自分からこんな意識になるなど、不思議で仕方がなかった。

 お金がもったいないなどという意識はすでになくなっていたはずだった。最初の頃は、賢者モードになりながらも、誘惑には勝てず、ドキドキしながら通ったものだが、店を出てくると、一気にテンションは下がってしまって、しばらくは、精神的にきついものがあった。

「お金がもったいなかった」

 という理由で賢者モードになっていただけではないだろう。

 なぜなら、その後に店を出てから、

「何か食べて帰ろう」

 ということで、結構贅沢なものを食べることもあった。

 しかも、その時に、

「ここでの千円ちょっとくらい、さっき払った数万円に比べれば微々たるものだ」

 という意識があるくらいだ。

 金銭感覚がマヒしてしまっているということなのだろうが、それはそれで、しょうがないと思っている。何が自分を賢者モードに引っ張っていくのかということは、その時点ではハッキリと分からないのだった。

「おいしいものを食べると、その時は満足だし、空腹時も、食べるというころを想像しただけで、至福の思いを得ることができるのだが、いざ満腹になってしまうと、その時はいいが、少ししてから、満腹が胃のもたれをもたらして、そのために、苦痛に感じられるようになる」

 という思いがあった。

 店を出てから少しの間の賢者モードは、この時の満腹感に似たものがあるのではないかと感じるのだった。

 食事をしていると、以前は、空腹感がそのまま感じただけのものを食べることで、満腹感に襲われるのだが、それは、そのまま満足感になっていた。

 しかし、いつ頃からなのだろうか、腹八分目までしか食べていないのに、気が付けば、満腹感に達していて、それが満足感として味わうだけの時間に余裕があるわけではなく、すぐに、胃もたれに変わってしまうのだった。

「胃下垂なのではないか?」

 と言われたこともあttが、それもまだ若いので、そこまで気にすることもないだろうということであった。

 しかし、あまり気持ちのいいものではないと思っていたが、それでも、何度か似たような感じを覚えてくると、慣れてくるにつれて、違和感を感じないようになってきた。

 最初から分かってさえいれば、無理もしないし、どうすれば一番おいしく食べられるかということが分かるというものだ。

 そんなことを考えていると、お金の使い方であったり、心の持ちようによって、

「理屈ではない考え方が頭の中を巡っている」

 という感覚に陥ったりするものであった。

 店を出てから、焼き肉を食べることが多かったのだが、そんな時は絶対に、腹八分目でやめておこうと最初から思うようにしていた。

 というのも、お腹は減っているにも関わらず、最初から腹八分目でいいということが分かっているのだ。

 たぶん、店で注文し、料理が来るまでは、

「腹八分目ではダメだろうから、追加注文すればいい」

 と思っているのだが、来た料理を見た時、

「やっぱり、これくらいがちょうどいい」

 と感じる。

 見た瞬間に、少しだけ、お腹の中に食事が最初から入っていたような気がするからだった。

 そんなことはそれまでにはなかったことだった。

 料理を見てから、その匂いから、余計に食欲がわいてくるということはあったが、お腹を満たしてくれるような要素はなかったのだ。

「それだけ、年を取ったということなのか?」

 と感じたが、

「いやいや、大丈夫だ」

 という、もう一人の自分もいて、そのもう一人の自分の力なのか、満腹になるようなことのないように意識づけられるようになっていったのだった。

 鏑木が、早朝から出かけているのは、いわゆる、「早朝ソープ」と言われるところであり、一か月に一度の楽しみであった。

 鏑木は、酒を飲むこともタバコを吸うこともないし、ギャンブルもしない。ただ、パチンコだけはたまにするようになっていたが、別に嵌っているわけでもない。

 会社の皆は、

「鏑木さんって、くそがつくほどに真面目な人なんだよな」

 と、ウワサをしていたのは知っていたので、

「まさか、俺が早朝ソープに通っているなど、想像もつかないだろうな」

 と思っていた。

 それは、

「バレたら嫌だな」

 という思いよりも、

「皆が知らない俺がいる」

 ということを自分で分かっていることが楽しかったのだ。

 まるでまわりを欺いているかのようで、これほど楽しいものはない。特に真面目だと思っている人間に裏があるということを、誰も知らないということは、これほど快感だとは思ってもいなかった。

 別にソープ通いがバレたとしても、そのことがショックなわけではなく。このひそかな楽しみがなくなってしまうことの方が、よほど辛かったのだ。

 辛いというと少し違うだろう。

「寂しい」

 と言った方がいいかも知れない。

 これこそ、

「ひそかな楽しみ」

 というもので、それは、以前まで感じていたソープのイメージと、実際に通ってみて違うと感じたイメージを、

「お前たちは知らないだろう」

 という、

「自分だけが知っている」

 という感情があるからだった。

 もちろん、錯覚かも知れない。かつての風俗を知らなかった自分が抱いていたイメージがそのまま感覚となっているからだった。

 特に風俗という、一種の、

「開けてはいけないパンドラの匣」

 というようなイメージを持っていたからで、そのイメージは、昔のマンガなどで得たものだった。

 鏑木は、今三十歳だが、中学高校時代には、マンガに嵌っていた。

 しかもその嵌ったマンガというのは、当時連載していたようなマンガではなく、それからさらに以前のマンガであり、昭和の頃のマンガを読んだりしていたのだ。

 確かに、あの頃のマンガというのは、今でも金字塔として残っているマンガもたくさんあるが、鏑木が読んでいたマンガは。どちらかというと、もっとマイナーなものが多かったのだ。

 しかも、中学生、高校生が読むには、年代的には違うと思えるもので、もう少し年齢の高い人が読みそうな本を好んで読んでいた。

例えば、サラリーマンの出世ものであったり、学園ものでも、青春ストーリーというよりも、もう少しドロドロしたものが多かった。

 能と狂言の、

「狂言」

 のように、口直しで、ギャグマンガを読むことも多かった。

 しかし、それよりもやはりサラリーマンや、大学生が好んで読むものが多く、

「これらのマンガは、小説としても発刊できるようなものじゃないのかな?」

 と感じるほどであった、

 サラリーマン風のマンガというと、どちらかというと、絵のタッチは劇画調であった。小学生の頃までは、劇画調というと、恐怖を感じさせるものというイメージで嫌いだった。

 それともう一つ感じていたのは、

「エッチなシーンが多いのではないか?」

 という思いから、劇画は嫌いだった。

 実は、中学に入ってから、少しエッチにも興味を持つようになって、マンガやエロ本と呼ばれるようなものも見たことがあったが、どうにも劇画調のものは好きにはなれない」

 という思いが強く、マンガは読むことがあっても、劇画調のものは敬遠していたのだ。

 だが、テレビドラマで面白いドラマがあって、毎週欠かさず見ていたのだが、その話の原作があるということでエンディングを見ていると、原作が乗っていたので、さっそく、ネットカフェに行って、読んでみることにした。

 表紙を見た瞬間、劇画調だったので、一瞬にして、高ぶっていた気持ちが萎えてきた気がしたのだが、

「せっかくだから、最初くらいまでは」

 と思って、少し読んでみると、嵌ったのだった。

 ドラマの雰囲気とは明らかに違っていたが、マンガならではと思われるところが描かれていて、ドラマにはない面白さがあった。

 特に、サラリーマンというものを、裏から見た描写は、不特定多数が見るドラマと違って、基本的に読みたいと思ってマンガを買って読む人だけ、つまり、ファンにだけ分かっていればいいと思うようなことが描かれていたのだ。

 それだけ、

「ファンに寄り添った作品」

 と思えてきて、原作を読むことで、ドラマを見ていたよりも、さらに特別感が味わえるということがどれほどの楽しみかということを分からせてくれたのだった。

 そのマンガにおいて、一人の青年が、あることをきっかけに、その会社の社長と知り合うのだが、社長がお忍びでどこなに出かけているところを知り合うという、結構ベタでありがちな話であるところが、却って、気になるところであった。

 そのあたりの最初の掴みは、ドラマと一緒だったが、やはり劇画と実写とではかなり違っているようで、最初は劇画に違和感満載だったが、次第に慣れてくると、原作というよりも、まるで別の作品を読んでいるようで新鮮だった。

 本当は原作を読みたいという思いで来たにも関わらず、劇画に嵌っていったこともあって、

「途中から、ストーリーが違っていてくれればいいのにな」

 と思うほどになっていた。

 そして、その話は、期待に漏れることなく、ドラマとは、違ったストーリー展開になって、

「一粒で二度おいしい」

 という感覚になってきたのは嬉しかったのだ。

 そんな中、やはりと言ってもいいが、そこには、えっちなシーンが織り込まれていた。ドラマではなかなか表現できないものも、マンガ、それも劇画ともなれば、結構可能だったりする。

 だが、鏑木は、そんなえっちなシーンには、それほど興奮はしなかった。むしろ、

「せっかく劇画というものを好きになりかかってきたのに、えっちなシーンで台無しではないか」

 と感じるようになったのだ。

 だが、その中でそれまでにない感動を与えてくれるシーンがあった。それが風俗のシーンだったのだ。

 ソープのシーンで、そのマンガの時代は、さらに昔だったので、まだ、

「トルコ風呂」

 と呼ばれていた時期のことだった。

「阿波踊り」

 と言われるものが、主流だったこともあって、

「泡姫」

 と呼ばれるお姉さんのテクニックをマットで味わっているシーンがあったのだ。

 そのお姉さんは、金髪にパーマといういかにも劇画に出てきそうなお姉さんで、サービスを受けている男性は、まったく何も感じていないのか、無表情だったのだ。

 そんな男性に対して、そのお姉さんは、仕事という垣根を越えて好きになっていたようで、どうやらその客、主人公ではなかったのだが、話の中で、重要な地位を占める位置にいる人だったのだ。

 テレビでの俳優とは、まったく違った雰囲気だったのも、新鮮だったが、そのおかげなのか、

「やっぱり、ノベライズにしてほしい気もするな」

 と、実際に人物から完全に想像の世界に入れるものを所望したいという気持ちになったのも面白いところであった。

 泡姫のお姉さんは、必死で男に奉仕していた。

「こんなお姉さんが、この男に限っては、まるで借りてきた猫のように従順になってしまうんだ」

 と感じたほどだった。

 そんな雰囲気をずっと中学時代から、風俗に対しては、妄想として持っていた。

 だから、

「あまり俺は好きじゃないな」

 と考えていたのだった。

 それまでに、彼女ができて、セックスができるかも知れない。愛する人とするのが一番なのは絶対のことなので、好きでもない人に、しかもお金を払ってしてもらうというのは、何か虚しい気がした。

 そのマンガの中で、一人の男性がその店に入り浸っているという設定があった。

 その男性は、数か月に一度、お金を貯めてやってくるのだが、いつも、相手をする女の子とは、冷めた感じの対応をされていて、

「何で、そこまでされて、必死になって貯めた金を捨てにいうようなことをするんだ?」

 と考えたが、その答えはなかなか出なかった。

 当時のトルコ風呂は、今のように、大衆店、激安店などのお店があるわけではなく、マンガにも、料金表が描かれていたが、百分で、総額で六万円などと言った決して安くはない値段であった。

 普通なら、

「ボーナスが入ったら」

 というのが、普通だったのではないだろうか。

 当時はまだ昭和の時代、バブルも弾けるどころか、これから、どんどんという景気の上り調子の時代。今と比較しても、全然景気のよかった時代だっただけに、そんな人たちが、

「ボーナスが入ったら」

 と言っているくらいなので、一般市民からすれば、風俗というのは、かなり敷居が高かったのだろう。

 それは金銭的にというよりも、どうしても、まだまだ、

「いかがわしい」

 というイメージが強く、当時は、まだ市民権もあるわけではなかった。

 これも、マンガに乗っていたことなのだが、当時の風俗街というと、通りに呼び込みの人がたくさんいて、

「おにいさん、三十分、〇〇ポッキリでっせ」

 と言っては呼び込んでいるというそんな時代だった。

 しかも、呼び込まれて中に入ると、暗い部屋に、テーブルとソファーがあり、ソファーに座って待っていると、女の子(いや、おばさん)がやってきて、ズボンの上から、足を触ったりしてくる。

「おビールでいいかしら?」

 と言いながら、ビールを注文し、

「私もいいかしら?」

 と言って、もう一本注文する。

「手なら、これだけ、口なら、これだけ」

 と売って、指で示している。

 このあたりをウロウロしている男なので、意味は分かっているので、その値段を高いと思うのだが、ここまで来て、何もしないというのも、我慢の限界がある、そうなると、そのおばさんのテクニック(?)いや、強引なしごきによって、まったく気持ちのよくない状態で、放出させられる。身体は強引な状態なので、感覚がマヒしているようだ。

 そして、スッキリもしていないのに、

「お会計は、三万五千円です」

 などと、法外な値段を吹っかけてくる。

 最初の触れ込みは、三十分で、請求額のゼロが一つなかったはずだった。

 ここで、文句をいうと、裏から用心棒というのか、チンピラが数人出てきて、裏に連れ込まれ、ゴミ箱のあたりで、ぼこぼこにされ、強引に財布からお金を抜かれて、そこにそのまま放り出されるというのが、お決まりだろう。

「ぼったくり」

 と言われるもので、

 それこそ、

「ボロい商売」

 というものだ。

 今ではまだ存在しているのか、あるとしても、ここまでひどい商売ではないのだろうが、いわゆる、

「ピンサロ」

 と呼ばれるお店だった。

 マンガでもしっかり描かれていたことで、中学生だった一人の少年には、かなりの衝撃だったという記憶があった。

 今では、そのようなお店はほとんどないだろう。

 風俗営業法も厳しくなってきたのだが、それでも、当時のピンサロのような店はいつ頃まであっただろうか? 今でもあるかも知れないが、少なくとも呼び込みによる、あのようなぼったくりはほとんどないに違いない。

 それだけ、当時は風俗街というと、トルコ風呂から変わったソープランド、そして、男性クリニック、ファッションヘルスと言った、

「本番なし」

 の風俗があったりした。

 今でも、継続しているが、若干彩が変わってきているかも知れない。

 ソープランドも昔のように高級店ばかりで、敷居が高いというような店は少なくなってきた。

 ほとんどが、大衆店だったり、格安店などが主流になってきていて、総額、五万円もいかないところが増えてきている。

 特に最近は、昔との一番の違いは、

「お店にそれぞれ、コンセプトがしっかりと出来上がっている」

 ということである。

 これだけ、大衆店、格安店が増えてくると、何らかの差別化を図らなければいけない。

 料金や割引で差別化を図るとしても、経営との問題を考えると、なかなか難しい。

 そこで考えられたのが、

「コンセプトの確立」

 というものである。

 それぞれにコンセプトが違えば、客層の差別化も図ることができる。

 たとえば、

「コスプレができるお店」

「マット専門店」

「恋人気分を味わせるお店」

 などと、それぞれのコンセプトに合わせた趣向を店側が示せば、それぞれに趣向を持った客が行く店はある程度限られてくる。

 そうなると、値段的に変わらなくとも、コンセプトが自分にあったお店であれば、通いたくなるというものだ。

 SMがしたければ、SMクラブにいけばいいのだろうが、そこにソープがコラボしたり、マッサージなど、リラクゼーションやアロマテラピーとコラボするお店も出てきているくらいだ。

「一粒で二度おいしい」

 と、前述とは違う意味での、さらにリアルな感覚になっている言葉であった、

 さらに最近では、昔はなかったお店も出てきている。

 それは、

「早朝サービス」

 だった。

 早朝サービスというのは、実は結構メリットが客側にはあるもので、店側としても、その時間帯から稼げるというのは、いいことなのだ。

 早朝ソープがいつから始まったのかは分からないが、店舗型の風俗営業には時間が決まっていて、朝の六時から、夜の0時までというのが、風俗営業法で決められている営業時間である。

 さすがに夕方からの時間よりも、客は少ないが、それでも、真昼間とあまり変わらないくらいなのかも知れない。

 サラリーマンの中には、九時から出勤の人は、朝出勤前に、ソープに行き、その足で会社に行くという人も少なくないだろう。

 時間的にも、ちょうどいいではないだろうか。

 ただ、問題は早朝六時から入ろうと思うと、

「果たして交通機関が動いているか?」

 という問題があるが、マイカー通勤であれば、朝のラッシュ前に都会まで出てこれるので、却ってメリットと言ってもいいかも知れない。

 そんな早朝を狙っていく客は、店に入る時など、変な目で見られることもないので、気軽に行けるというものだ。

 昔の六時といえば、朝、店の前を従業員が掃除をしているのが見られるくらいで、まったくゴーストタウンだった。そういう意味では、六時からの営業はある意味、健全なのかも知れない。

 早朝ソープにあるメリットとして少し列挙してみよう。

「予約がスムーズ」

 というところがある。

 そもそも、早朝には、客が少なく、対象の女の子も少ないが、ほぼ、バッティングすることはないだろう。

「待ち時間が少ない」

 というのがあるが、これは、最初からのお客さんなので、女の子も、六時を目指して準備をしているので、前の人がなどという問題もなく、ほとんど待たされることもない。

「口明けができる」

 つまり、最初だから、誰とも接客していない女の子と相手ができるというところのメリットである。

「疲れていない」

 当然最初なので、若干眠いかも知れないが、まったりできると思えば許容藩にであろう。自分だって眠たいのだろうから、ちょうどいいかも知れない

「いつも同じ子になる場合もあるが、すぐに仲良くなれる」

 ということもあるだろう。

 ただ、デメリットもないわけではない。それでも、メリットに比べれば、許容範囲だと思えるのは、自分だけだろうか?

「高級店のようなサービスは受ければ位」

 なぜなら、高級店が、価格を安くしてわざわざ早朝営業をする必要がないからである。

 逆にそんなことをすれば、高級店としてのコンセプトが失われ、高級店の意味がなくなってしまうからだ。

「女の子の選択肢が極端に狭い」

 これはメリットの裏返しであるが、メリットとして仲良くなれるというのがあるが、それは、裏を返せば、

「毎回同じ女の子になってしまうほど、出勤の女の子が限られている」

 ということである。

 ただ、この場合のメリットとして、

「早朝の女の子は、昼や夜に出勤できない。つまりは、昼職だったり、学生だったりということであるからだ」

 と言えるのではないか。

 それは、プロのテクニックを求める人にとっては、残念だが、元々早朝ソープで、高級店のような技を求めるのが無理なことなのだ。それを思えば、

「長所の裏返しが短所、短所の裏返しが長所」

 ということで、悪いことばかりではないということだ。

 そういういろいろな意味で、早朝を利用する人も少なくない。

 さて、そんな早朝ソープを、最近の鏑木は利用するようにしている。

 彼はちょうど、一か月に一度、会社で夜勤があったのだ。その日は、

「夜勤明け」

 となって、もう出勤しなくてもいい。

「帰って寝るだけなんだから、帰る前に、スッキリするか」

 というが、そのきっかけだった。

 鏑木の会社から、ソープ街のある一帯までは、徒歩で十五分くらいであろうか。

 仕事が終わるが、午前五時、そこから途中の二十四時間営業の牛丼屋で、朝食を食べて、ちょうどいい時間に入ることができるのだ。

 いつも相手をしてもらっている女の子は、かずみという。

 背がそれほど大きくなく、本当にかわいらしいと思えてならない。

 他の女の子を知らないわけではないが、今のところ、自分が知っている風俗嬢の女の子では、ナンバーワンだと思っている。

 ただ、いつも早朝の同じ時間に相手をしてもらっているという感情から、

「どこか、自分が彼女を一人占めしているように思えてならない」

 とは思いながら、それが贔屓目になってしまっているというのは、否めないだろう。

 だが、

「最近の風俗嬢は、アイドルや女優などにまったく引けを取らない」

 と思えるのだ。

 実際に、完全に顔を隠しているわけではないが、パネルの写真などで、きれいに映るように加工しているところがあり、それを、

「パネマジ」

 というが、パネルマジックの略で、少しでもきれいに見せるという店側の作戦でもあるのだ。

 ちなみにパネマジというのには、たぶん、もう一つの理由があるのではないかと思う。その理由というのは、

「身バレしない」

 というもので、

「要するに、少しでも自分の身元がバレないようにする」

 ということのようだ。

 実際に、家族は昼職をしている人の会社の人にバレてしまって、仕事を失うということもあるかも知れないからだ、

 店によっては、来たお客さんが、女の子の知り合いかどうか、女の子が対面する前に、隙間から垣間見るということをしているところもあるようだ。

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