第三十四話 ジェーン・ドゥ


「ありがとよ、千明」


 奉司はそう言ってくしゃっとした笑みを向けた。


 第二セッションの終了後も、奉司と玲生の間に積もり積もった話題は尽きないままだった。当然ゲーム終盤の僅かな時間で語り切れるものではなく、二人はあらためて話をする機会を設けようと約束を交わした。


 奉司はぼくが新しく橋を架けたと思っているようだけれど、本当は違う。


 二人の間にあった橋は、たとえ何年経とうとも欠けてはいなかった。


「また今日もオレん家に飯食いに来るか? ガキもお前のこと気に入ってたし、例の秘密の件も話しておきたい」

「ううん、せっかくのお誘いだけど、別の用事があるんだ」

「じゃあしょうがねえな。また今度の機会に、玲生も入れて語り明かそうぜ」


 その言い方だと徹夜になってしまいそうだけれど、野暮なので言わないでおいた。


 奉司と別れ、その足でロッカールームへと向かう。教職員用の昇降口の傍は使用者の少ない穴場。ぼくがここの一部を自分専用のように扱っていることを知る人は僅かしかいない。


 その僅かな人の中に、彼女がいることを確認したかった。


「やあ、さっきぶりー」


 柔和な微笑み。大きく丸い瞳。間延びした声音。


 それらによって構築された雰囲気が、明滅するかのように今の彼女と重なっては消える。


「寄り道してたのかな? 思ってたより待たされた、っていうかもう来ないんじゃないかと心配してたところだったんだあ」

「……毎日は使わないからね。今日は女子制服だから・・・・・・・・・・、寄らざるを得なかっただけ」

「そうなの? まあ知ってたけど」


 どこまで本気なのかが分からない。向こうから距離を詰めてくるくせに、こちらから近づけばスッと身を引いて空振りさせてくる。誰にでも優しいスクールカーストの上位、その権化みたいなものだと思うと性質のイメージだけは湧いてくる。


 そのイメージすら、彼女の本質を隠すヴェールなのかもしれないけれど。


「何か用があるなら早く言ってほしいな。着替えるときは出て行ってほしいし」

「えー、いいじゃん女の子同士なんだし。見られたくないなら背中向けとくからさ、その間に着替えちゃってよ」

「ふーん、君はそれでいいと思ってるんだ。意外と価値観アップデートできてないんだね、見かけのわりに」

「…………ひゅー、言うねー」


 彼女の小さなこめかみに、充電ケーブル未満の太さの血管が僅かに浮き出る。


「久しぶりにあなたと話してたらいろいろ思い出してきちゃった。中学のときはけっこう好戦的だったもんね、お互いに」


 その言葉を聞いて確証を得る。


 間違いない。外見は似ても似つかないけれど、やはりぼくは彼女を知っていた。


「君だったんだね。姫野ひめの理香りかさん」


 名前を呼ばれた彼女――理香は三年ぶりに、その不敵な笑みをぼくへと向けた。




 鹿野ひめりは姫野理香だった。


 意識してみれば単純すぎるアナグラムだ。しかし同一人物である以上、その名前が並んで存在することはあり得ない。思考の死角を突くにはこの単純さが有効に作用するのだろう。


 理香は中学二年生の頃のクラスメイトであり、学級委員長でもあった。いつもはきはきと喋り、大人に対しても物怖じせずに話し、同級生に悪口でも囁かれようものなら全力で言い負かす。


 俗っぽく言えば、レスバ最強。そんな理香の強さにぼくは陰ながら憧れたりもした。


 それも彼女の秘密を知った今では、憧れの感情を向けることすら不謹慎に感じてしまう。突き詰めるなら彼女の本質は複製コピペであり、その強さはどこまでいっても彼女自身のものにはならない。


 姫野理香が存在したのは中二の八月から中三の三月までのニ十か月間のみ。そしてそれ以降、姫野理香は戸籍すら残さず消失ロストした。


 現実の世界において、使い捨てのPCのごとく振る舞う彼女の本名は、誰も知らない。


「内通者を捜しましょう」


 各々が疑心と焦燥に駆られる中、方針を掲げたのは亜月だった。


「来るかどうかも分からない非通知着信を待つよりそのほうがずっと建設的です。内通者を縛り上げれば先生方も動きやすくなるでしょうし、バスに乗っている人たちの安全にも確実に寄与できる」

「フン、珍しくいいこと言うじゃねえか委員長」

「そうでしょうそうでしょう。今のうちにもっと媚びを売っておくといいです」

「……ほんと仲良いね、あんたら」


 こんなときまで漫才を繰り広げる奉司と亜月に、夕奈は一周回って感心し始めていた。


 そういえば亜月も委員長なんだっけ。まあ外付けのキャラ作りに過ぎなくて知性が追いついていないとか散々言われていたみたいだけれど、直前に思い出していた昨日の記憶のせいであまり笑ってやる気にもなれなかった。


「で、内通者を捜すってどうやって? ひとりひとり丁寧に尋問でもしていく?」

「そうしたいところですが、あいにく今は時間がありません」

「時間があったらしてたんだ」

「皆さんスマホを出しましょう。連絡手段を管理してしまえば情報が漏れることもありません」


 亜月が周りを見回して促す。初めからスマホを出してあったぼくを除けば、奉司、夕奈、そして亜月がスマホを所持していた。


「……意外に皆携帯してるんだね」


 雄星がなんともいえない表情でつぶやく。暗黙の了解とはいえ一応は非申請での携帯は校則違反。こういうところでルール遵守するのはスポーツマンの彼らしい。


「わ、私はちゃんと申請していますので」

「うちらだってそうだわ。通学定期をスマホで買ってるやつは皆そうしてるっつの」


 夕奈の言う通りだ。むしろ学校にスマホを持って来たいがためにアプリ版の定期券を買っている人もいる。電子マネーに慣れた現代の学生には常識だった。


 ……自転車通学なのにスマホを携帯している奉司のことには触れずにおこう。


「机の上に出していない数久田くん、鹿野さん、漣くんは携帯していないということでいいですか?」


 亜月が場を仕切っているのは何気に新鮮だ……とのんびり考えてはみたけれど、今は非常事態なのだから真剣にもなるだろう。緊張感がないほうがおかしい。


 玲生は昨日筆談という手段を使ったことから原則禁止の校則を真面目に守っていることが窺える。雄星もルールを破るという発想自体がなさそうだ。残るはひめりだが――


「よく失くしちゃうんだよねー、えへへ」

「うわ出た、あざとい言い訳」

「ところがどっこい、ほんとなんだよー」


 さすがに無理があるだろう。夕奈も呆れている。


「そうですか。あるあるですよね」


 あろうことか亜月はその言い訳を信じたようだった。


「私もよく宿題を家に忘れます」

「小学生か?」


 亜月も大概、どこまで本気か分からない人だった。


 ともかくこれでスマホを携帯している四人に内通者の嫌疑がかかる。この絞り込みが絶対ではないにしても、この場に釘付けにしておけばバスジャック犯の側に情報が行くことはないだろう。もちろん二台持ちの線も捨てきれないから、互いが互いを監視し合う状況は維持しなくてはならない。


 この場から誰一人として教室の外へ出さないこと。外部への連絡端末であるスマホを常時目の届く場所に置くこと。この二つさえ徹底していれば状況が悪化することもないはず。


 そんな考えを悠長だとあざ笑うかのように。


 奉司のスマホが、鳴動した。

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