魔馬ウッドラフ、陥落す。


アルフレッドは、ぺこりと下がったままの小さな頭を見て、こっそりため息をこぼす。


丘から駆け上がってきた気まぐれな風が、目の前の短な鳶色の髪に絡みつく。次にはアフルレッドのため息をさらって、軽やかに吹き去っていった。




この髪型だし、媚びるような様子もない。

線の細い綺麗な顔をした青年と言われれば、そうかなと思えるレベルか・・・



討伐でCランクなら、武器は扱えるだろう。薬草採取のSランクが本当であれば、身体能力はかなり高いはずだ。危険回避能力がずば抜けていなければ、討伐C評価の腕力で、大概は危険地帯にあるSランクの希少な薬草を採取なんてできないだろうし。



実に羨ましいことに、この子には魔馬もいる。



浴室とトイレのついた主寝室は空いているしな。

まぁ、なんとかなるか。



正直、年頃の女の子と2人住まいになるのは、全くもって気が進まない。



・・・んが、閣下は、この子の言い値で投資するとか言ってはいなかったか?

ケチ、いや、予算に厳しいあの古狸閣下にあそこまで言わせるのだ。よほど領内に留めておきたい人材なのだろう。



よし。


ならば、きっちり投資してもらおう。

ウィルフレッドは、腹を決めた。


そして、腕組みを解くと、雇用成立の握手をするため手を差し出して、頭を上げるように声をかけようとしたのだが————




 差し出したその手を、すかさず鼻面でそっと払った芦毛の魔馬が、じっと何かを訴えかけるようにウィルフレッドを見詰めてきた。


それで、ようやく気づいた。

頭を下げているオリバー青年推定オリヴィア嬢の肩が小刻みに震えている。



・・・え?

怯えている?


この子は、もしかして、俺が怖いのか?



 動植物に深く関わる人間の中には、時折、繊細すぎて人間との関わりが苦手なやつがいる。おそらく、言葉を持たない生き物に対応する感性や観察能力が高すぎるためなのだろう。無自覚に、発する情報量の多い人間に対しては距離を置いてしまうような。


ウィルフレッドは、オリバー青年偽装の推定オリヴィア嬢も、そういう類の人なのだろうと思っていた。



目を逸らして小さくなっていたのは、閣下の豪快な逃亡策のせいだけではなかったのか?


そういえば、この子をしっかり見ようとするたびに遮られていた。

で、ついつい、芦毛の馬体に気を取られて、思考もそちらへ傾いていた。


・・・こいつが、たぶん魔馬だから。

しょうがないだろう。ずっと会いたかった馬に、ようやく出会えたんだ。



「・・・あー、そうだな」



ウィルフレッドは差し出した手をそっと持ち上げて、頭の上に乗せ、なんとなく指で軽く自分の髪をワシワシとかき混ぜた。



まさか、これを教えるために、俺の前に立たせたのか?

恐るべし、魔馬。その辺の脳筋よりも思慮深いのでは?



はてさて、どうしたものか・・・

ウィルフレッドは困惑する。


これは思った以上に、レベルの高い厄介ごとのようだ。

ワケありだというからには、碌でもない経験をしてきたのだろう。



「・・・とりあえず、何か要望はあるか?」


できるだけ柔らかい声音で聞くと。弾かれたように顔を上げたオリバー青年偽装のオリヴィア嬢が、ぴたっとオリーブの木を指差した。


「あのっ ・・・あの、オリーブを近くで拝見したいのですが。ふ、触れても構わないでしょうか?」



・・・そんなに震えているのに。

最初に出す要望が、オリーブなのか?


まぁ、あれに目をつけるのは流石だし、目敏くはあるが。

ウィルフレッドは、軽く首を竦めて苦笑を浮かべる。


「ああ、好きなだけ見てくれて構わないぞ」

「! ありがとうございますっ」


青ざめていた顔にさっと朱が差す。

駆け出したいのを堪えているような早足で真っ直ぐにオリーブに向かって行く背中に、ワクワク感が滲み出ていた。


オリーブ周辺の地面を見て、何かに気づき驚愕に目をまん丸に見開き。

恐る恐る幹に手を触れて、ほうと感嘆のため息を漏らす。


そして。


そっと頬擦りをしたかと思ったら、大きく腕を広げて太い幹に抱きついた。

幹に耳を当てて、内部の音を聞き取ろうと目を伏せている姿は、とても幸せそうだ。




見ているこちらまで、自然と口角が上がってしまう。




「なるほど。あれは、植物への愛情が完全に恐怖心を凌駕した、という場面か?」

傍に立った芦毛の魔馬に話しかけると、ふんと鼻を鳴らして頷くとか。


本当に、言葉を理解しているのだなと思うと、胸が熱くなった。

すごいな馬魔。



 そんな馬魔のウッドラフは、今は主人の傍ではなく、少し離れた場所に立ち止まってオリヴィアを観察しているウィルフレッドの隣にいた。そこから、じっとオリーブの大木に抱きつく主人を優しげな深緑の目で見守っている。


主人との適切な距離を教えようとしているのだろうか。



「あのオリーブは特別なんだ。説明するためなら近づいても大丈夫か?」



そう問うと、チラリとウィルフレッドを見てゆっくりと、小さな鳶色頭の主人に向かって動き出した。合わせて歩き始めても歩みを止めないから、問題ないということなのだろう。


ウッドラフが、大きく梢を広げたオリーブの木陰に入ったところで歩みを止めたから、ウィルフレッドもその傍で立ち止まる。


幹に抱きついて幸せそうに目を伏せているオリバー青年偽装の御令嬢まであと3歩の距離だった。



「そのオリーブの樹齢は65年だな」

「・・・65」


努めて穏やかに静かに語りかけると、エメラルドの瞳がスッと開いて、梢の入り組んだ銀の茂みを見上げて瞬いた。


「そうか、閣下の。・・・この子は、辺境伯閣下の誕生記念樹なのですね? だから、こんなに大切に守られて」


聡い。数字だけで、あっさり正解に辿り着いてみせた。



オリーブの巨木の周囲を広く取り囲むように、ぐるりと敷石が埋め込まれてる。この敷石には、樹木を冬の極度な低温から守る魔術陣が組み込まれているのだ。


「その陣を敷いたのも、オリーブをここに植えたのも、先々代のヴィクトル翁だな」

「・・・本当に、素晴らしいです。もしかしたら、天敵のアナアキゾウムシ避けも組み込まれているのではないでしょうか?」

「ああ、確かにそんなようなことが書いてあったなぁ」

「書いてあった!?」


銀の梢を見上げていた初夏の緑を宿す瞳が、ぱっとウィルフレッドに向けられた。

完全に興味が恐怖を打ち消しているらしい。

子供のようだな、とちょっと笑ってしまった。


馬のことになれば、俺も人のことは言えないのだが。


「先々代の作業日誌があってな。それに陣の詳細が書いてあったと思う。俺の専門外なんで、うろ覚えなんだが。先々代の記録は全て書斎にある。自由に出入りしていいぞ?」


「全て!? 自由に!?」

エメラルドの瞳が、驚愕と歓喜にまん丸になった。



「あー、その代わりと言ってはなんだが、こいつに触ってもいいか?」



胸に頭突きを食らったり、手を鼻面で叩かれたりはしたが、まだ自分からは触れていない。


こんなに近くにいるのに。

触れて撫で回したいのをじっと堪えている。


無理に触って嫌われなくない。

でも、触りたくて触りたくて、なんなら乗ってみたくて、たまらない。



「ラフ、いいよね?」



キラキラと煌めくエメラルドの瞳が、期待を込めて芦毛の魔馬の森の深淵のような瞳を見ると。


オリーブの幹の前に立つ大切な主人と、傍の黒髪の人間とを見比べて半眼になって、次には諦めたように項垂れた。



「ふふふ。ありがとう、ラフ。大好きよ」


オリバー青年偽装を忘れた推定オリヴィア嬢が、嬉しそうに笑んで、あと3歩の距離を詰めてくる。愛馬の首をぽんぽんと軽く叩くと、だらんとぶら下がったままになっていた手綱を手に取った。


初夏の爽やかな日差しのような笑顔が、とん、とウィルフレッドの胸を叩いたような気がしたけれど。魔馬を前にしては些事である。


「乗ってみますか?」

「・・・え? 乗せてくれるのか?」


そんなお誘いを受けて仕舞えば、魔馬に跨がれるかもという期待に、男盛りの27歳、威厳溢れる辺境伯を前にして少しも怯むことのない黒髪の大男ウィルフレッドも、胸のときめきが止まらない。


「ラフは嫌いな人間には絶対に近づきません。こんなに近くにいて平気なら、乗せてくれるはずです。ね、ラフ」




唯一無二の主人オリヴィアは別格として。子供以外の人間を乗せるのは初めてだった。

しかも、こんな大男を乗せなくてはならないのか、とウッドラフは悄然と首を垂れた。


ナンチャラ先生の記録にすっかり心を奪われている主人の、最近は見ることのなかった笑顔が、大きな馬体に染み渡る。



ウッドラフは、嬉しそうに細められた新緑の瞳に、粛々と陥落した。



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