オリーブの木


 初夏の清々しい風が、丘南面に広がる放牧地の青々とした牧草の上を駆け上がってくる。


 オリヴィアの背中に届いた風がうなじを優しく撫であげると、短くなった鳶色の髪がふわりと踊った。


 腰のあたりまで伸ばしていた長い髪をバッサリと切ったのは、ほぼひと月前。

いまだに、軽くなった頭と晒されたうなじには心許なさを感じてしまう。



・・・はずなのだけれど、今は。

悪戯な風を、意識する余裕はない。



とっても気まずい。

最高にいたたまれない。


何よりも、怖い・・・


オリヴィアは竦んで小刻みに震えてしまう肩を、傍の大きくて温かい芦毛の馬体にすり寄せた。



目の前には、驚くほど顔立ちの整った黒い髪の男性がいる。


長身で、がっしりとした立派な体躯。目が合った瞬間、吸い込まれそうになって慌てて目を逸らした。深い群青の瞳には、戸惑いはあっても、苛立ちや怒りという負の感情は浮かんでいなかったと思う。


 その敷地の西側には、長らく放置されて荒れ果てている薬草の丘があるという。彼は、何が何でも働かせて欲しいとオリヴィアが切望するホーソンヒル牧場のオーナーだ。




 ホーソン氏は、しばらくウッドラフをまじまじと見つめていたと思ったら、何か小さなぼやき声をこぼして片手で顔を覆い、ガックリと項垂れた。





 ————ここまでの展開は、閣下の読み通りだった。





 閣下は言った。「ウィルフレッド・ホーソンという男は、馬と人を見る目は確かだ。遠目からでも、ひと目君を見れば、その髪の短さを度外視して、骨格だけで君が女性であると見抜くであろう」と。



 赤紫の目を優しげに細めて、片方の口の端を僅かに上げた初老の偉丈夫の顔が脳裏に蘇る。



「あの男は、詳しくは言えんが極上のワケありでな。顔がちょっとばかり良すぎるせいで、女性に対しての警戒心が非常に強い。通常であれば、青年偽装をしている君を雇うことはない」


閣下は、さらに目を細めると、にっと不適な笑みを口元に刷く。


「が、しかしだ。君にはあの芦毛の魔馬がいる。ウィルは馬が大好きでなぁ。中でも、幻の魔馬に対する情熱はなかなかのものだ。青年オリバーだと言い張って、君とウッドラフとの関係を見せつければ、陥落する」



 そう断言した閣下は、執務室のソファーで体を固くして縮こまっていたオリヴィアをまっすぐに見て、挑発するように笑みを深めた。



「叔父ヴィクトルの薬草の丘と観察記録を手に入れられるかどうかは、オリヴィア嬢、いや、オリバー青年、君の薬草への愛にかかっている。私の逃亡で呆れさせ、魔馬で堕とした直後が攻め時と思え。一瞬でいい。己を支配しようとする恐怖心をかなぐり捨てるのだ。一気呵成に畳み掛け、希望の丘をその緑の手の掌中に収めよ」





————そんなふうに、辺境の大地に君臨する老獪な領主に煽られて。

オリヴィアは今、背筋を這う嫌悪と恐怖に耐えながら、黒髪の大きな男性の前に立っている。



 オリヴィアが、ヴィクトル・ウィンドワーズの『辺境伯領における薬草観察記録』の抜粋を目にしたのは、16歳のいま頃の季節、王立魔術学院の2回生だった頃のことだ。もう3年も前のことになる。


 まさか、偶然目にして憧れに心を馳せさせた薬草の丘を手に入れようとしているなんて。きっとあの頃の自分には、想像すらできなかったに違いない。


のだけど。

・・・やっぱり怖い。


体の芯から震えがきて、冷たい汗が背中をつたう。

オリヴィアの青ざめた顔をウッドラフが、心配そうに覗き込んでくる。


 ホーソン氏が背にしているのは、立派な2階建ての屋敷だった。向かって右手の東側は厩舎エリアだろう。広い放牧地には、まだ線が細く幼なげな馬たちが思い思いに散って、首を垂れて草を喰んでいる。


 手前にある、白い柵で囲われた小さなスペースに入れられた1頭は、オリヴィアたちのいる位置から一番遠い角に頭を押し込んでじっと動かない。何となく怯えられているのが伝わってきて、申し訳なく、それが、いたたまれなさに拍車をかける。


そして、左手には、平屋があって・・・


 恐怖心をを紛らわせるため、腕を組んで考え込んでいるホーソン氏の大きな体から目を逸らした。彼の背後左右に視線を巡らせていたオリヴィアの視線が、ある1点でぴたりと止まる。




左手の建物の前に、一本の木があった。




 それは、オリヴィアの目が確かならば、アルタイル王国北部の寒冷地では育ちにくいはずの、オリーブの大木だ。幹をぐるりと囲うには、オリヴィア1人の両腕では足りない。おそらく、大人の男性2人分の長さが必要だろう。


 優雅に広がる枝。気まぐれな風にひるがえり灰銀色に輝く葉。ちょうど開花の時期で、小さな白い花が泡立つように咲いて小枝の隙間をうめていた。



なんて立派で美しいオリーブだろう。



ああ、いますぐに、駆け寄ってあのオリーブを確認したい。あの幹に触れてみたいし、なんなら抱きつきたい。葉の香りを堪能して、花もくんくんしたい・・・


急沸騰した欲望と強烈な憔悴感が一気に体を駆け巡って、オリヴィアの胸を蝕む恐怖心を一瞬で焼き払った




 オリーブの花言葉は、平和と知恵、そして勝利。まるで天啓を得たように、オリヴィアは、いまこそが閣下に授けられた知恵を生かし勝機をつかむ時だと知る。


気遣わしげに鼻面を寄せてくるウッドラフをそっと撫でて、体を離す。

グッと両手を握って肩に力を入れ、震えを抑え込んだ。



攻め時だ。



思う存分あのオリーブを愛でたい。

荒れてしまっているという、ヴィクトル先生の薬草の丘の手入れをしたい。




 オリヴィアは、意を決し首から下げている皮袋に手をかけた。


手のひらよりも少し小さなカードを取り出す。それを両手に握りしめ、一歩間合いをつめると。がばっと勢いよく頭を下げて、カードを両手で捧げ持ちホーソン氏に差し出した。




 ずっと気まずげに視線を彷徨わせていたオリヴィアが、急に顔をあげて、凛々しく間合いを詰めてきたものだから、ホーソン氏は驚いたようだ。ギョッと顔を上げて少し背後に身を引いた。



 その隙を逃さず、オリヴィアは畳み掛ける。


「オリバーと申します。19歳です。平民ですが、薬草採取、育成、栽培は普通にできます。薬草園経営の経験もございます。ヴィクトル先生の薬草の丘については、『辺境伯領における薬草観察記録』の抜粋を拝見し存じております。ぜひ私にヴィクトル先生の薬草の丘の手入れをさせてください。もちろん、ご要望の薬草があれば、作ります。苗も種もなければ、必ず手に入れて育てます。何卒よろしくお願い申し上げますっ」



差し出したカードは、オリバー名義の冒険者ライセンスだった。


サンザシ丘に向かう道中、閣下に連れられ立ち寄った冒険者ギルドで、『オリヴィア・アシュテル』名義だった登録を書き換えてもらった。


かなり雑に。


これも閣下の策略のうちなのかどうかはわからないけれど。

ホーソン氏は、そのカードを手にとって確認すると呆れたように苦笑する。


ライセンスの登録者欄が明らかにおかしい。

苦笑されても仕方ないと、オリヴィアだって思う。



『オリ』の後に白い修正紙が貼られていて、その上に『バー』と手書きされている。長い本名を隠した修正紙の余った空白には、しれっと正式な辺境伯の修正印が押されていて、但し書きは『保証人バートランド・ウィンドワーズ』と閣下手ずから書き込んでくれたものだ。


おかしいにも程がある。


「ちょっと、いや、かなりだ、修正方法がデタラメすぎるが。この実績欄には手を加えた痕跡はないから本物だよな。・・・君、見た目と中身が違いすぎないか?」



 実績欄には、ギルドから登録者に依頼をかけるときに判断材料となる等級が記載される。評価は、S級を最上級として、A、B、C、でD級が最低級となる5段階。


『オリバー』に付与されている等級は【薬草採取=S、魔物討伐&素材採取=C、護衛=未登録】だ。



 薬草採取実績が、最高Sランク。討伐のCランクとの落差がありすぎる嫌いはあるが、オリヴィアの華奢な体ならC評価の方が普通だろう。薬草採取のS評価が異常なのである。



「・・・薬草畑は、ここ3年、ずっと再建したいと考えていた。できれば、先々代の研究も引き継いでもらえればと。・・・そんな思惑を持っていて、S級採取者を逃すバカはいないな」



はぁーーーーっと、長い長いため息を吐いたあと。

ホーソンヒル牧場の主人は、目を伏せてうーーーーん、と天を仰いだ。



オリヴィアは、凛々しくビシッと頭を下げ続けている。

傍のウッドラフが、ぱかりと一歩前に足を踏み出して、グッと首を撓める。と、白い額で黒髪の美丈夫の逞しい胸板をトンと押した。



「くっ 催促か? 賢すぎないか? ああっ もうっ わかったっ わかったよっ いいだろう、採用だっ ただし、その芦毛の魔馬とセットでだっ」



ホーソン氏がヤケクソ気味に芦毛の馬魔を指差しつつ、そう宣言した。



「俺は、ウィルフレッド・ホーソン、この牧場のオーナーだ。君をホーソンヒルの薬草の丘の管理者として採用する。そっちの芦毛には、君の護衛と、聞かん気の強い若馬の矯正を依頼したい」


「・・・採用」と小さく呟いて、オリヴィアが恐る恐る頭を上げると、深くて穏やかな群青の眼差しと目線が出会った。


採用された嬉しさと、採用されてしまった戸惑いと。一気呵成の勢いが過ぎてしまえばじわっとぶり返してくる底冷えのする嫌悪感と恐怖とで、胸の内はぐちゃぐちゃだ。


オリヴィアは目を逸らして俯くと、さささっと後退して、再びウッドラフの大きな馬体にピタッと体を寄せた。


そんなオリヴィアの脇腹を、芦毛の愛馬が鼻面でツンと突く。

眉間に軽く皺を寄せ、困った顔になって、ふーっと鼻息を吹きかけてくる。

もう少し頑張れ、というのだろう。そのまま鼻面で少しだけ前に押し出された。



芦毛の馬に、この男なら大丈夫だろうという雰囲気を醸し出されて、ホーソン氏は苦笑いだ。護衛どころか父兄だな、と。



「・・・あ、ありがとうございます。精一杯努めます。よろしくお願いいたします」



護衛で、お父さんでお母さんな愛馬に小突かれて。

偽装青年オリバーなオリヴィアは、小さな頭をぺこりと下げた。



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