第15話  今日は最低

朝から部長の機嫌が悪かったのが始まりだった。

もともと社員にも嫌われている人間だから、加藤サヤも自分のデスクに座るとパソコンを起動した。



 「先輩、部長に提出する書類・・・」

 新入社員のミカさんが半泣きでサヤに話かけてきた。サヤは大学卒業後、入社して8年勤務している31歳。



 「自分で提出しないと、仕事にならないよ?」

 やんわり言ってみたものの、部長のパワハラのせいで新入社員が10人も辞めていて、中小企業だが、人手不足だ。




 「分かった。後で私から渡しとく」

 まるで仏様をおがむようにミカは、両手を合わせて資料をデスクに置いて、そそくさと自分のデスクに戻る。



 サヤは、ため息を吐き資料に目を通してから、タイピングがやたらうるさい部長のデスクに行った。



 「昨日、頼まれました資料です。チェックを宜しくお願いいたします」

  出来るだけ落ち着いた声で資料を渡しながら頭を軽くさげた。



   「チッ」

 周りにも聞こえるような舌打ちがサヤの心にザラザラと土足で入り込んだ。



 部長は、数年だけ入社がサヤより早いだけで、実力も仕事もサヤが出来る。




 働き方改革だの社会への女性進出だの、世間では言われているが、実際は長く働けば働くほど男性社会に埋もれていく。



 結婚した同期や友人が羨ましのが、正直なところだが、恋愛より仕事を優先してきた事に後悔はない。



 「加藤、全部やり直し」

 思わずは?と声がでそうになったが、こらえる。資料内容もミカさんので上出来だ。



 「出たよ、部長のパワハラ」

 後ろにいる男性社員が誰かとコソコソと話している。この部長は家庭内の私情まで会社に持ち込む。



 「ですが、この資料・・・」

 言いかけたら、思い切り資料の束がサヤの頭をかすめてバサリと床に落ちた。



 水を打ったように部署が静まりかえる。

辞めてやりたい。こんな会社。でも31歳での転職も今更きつい。



 「今日中に仕上げろ」

 また部長のタイピングの音がうるさく鳴り始めた。



 自分のデスクに戻り、自分の仕事量と資料のやり直しを見る。最終の電車に乗れればよいほうか・・・。



 ミカが半泣きの顔で何度も頭を下げてくる。今、1人でも辞められるよりはましだ。



 「大丈夫、仕事は少しずつ覚えていけばいいから」

サヤがいつもの愛想笑いをするとミカは安心したように、自分のデスクに戻った。



 「その前に、男見つけて退職かな・・・」

 思わず小声で嫌味がでる。



 案の定、終電前にギリギリ仕事が終わり、資料を部長のデスクに叩きつけるように置き、会社を飛び出した。



 冬の風が頬を切るように強い。早足で駅まで歩いていたら、右目から涙が流れていた。



 「うそ・・・」

 部長のパワハラも新入社員が仕事が出来ないのも、この8年耐えてきた。



 気がつくと31歳。独身。実家は妹家族がついでいる。



 私の居場所は、この先あるのだろうか・・・。

涙がポロポロ出てきたが、最終のホームには人がいない。



 パスケースをカバンにさしまい、マフラーで鼻まで顔を隠す。



 ホームから見える星がやたら綺麗だ。

 「最低・・・」

 思わず呟く。



 「お客様、線の内側にお並び下さい」

 白い息をはきながら、同じ歳くらいの車掌さんが慌ててサヤのもとに走ってきた。



 気が付かないうちに白い線から出ている。まあ、こんな人生だ。どうでもいい。そんな事を思いながら、うなずき、線の内側に入る。



 視線がある。思わず車掌を見ると口をあけて動揺していた。



 しまった、想像以上に自分は泣いているらしい。

車掌さんがもと来た場所に走っていく。



 世の中、そんなもんだ。

 サヤはますます虚しくなった。



 最終電車が前の駅にくると電光掲示板が教えてくれた時だった。



 さっきの車掌がパタパタとまた走ってきた。



 「寒い時は、缶コーヒーを飲むといいです。僕の買った物ですが、宜しければこれも」

  缶コーヒーと、スルメの袋まで渡された。



 思わずサヤは笑ってしまった。スルメって。


 「いつもご乗車ありがとうございます」

車掌は、それだけを言ってまたパタパタと戻った。



 ああ、こんな最低な日でも誰かは見てくれているのか。



 最終電車がホームに滑り込む。

サヤは、缶コーヒーを右ポケットに、スルメをカバンに入れて、暖房のきいた電車に乗った。




 

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