(空行なし版)黄色い風船とスカート
「じゃあ彩夏ちゃん、また学校でね。バイバイ」
「バイバイ」
病室から出ていくむっちゃんの背中を見送ると、急に部屋の温度が下がったような気持ちがして、泣きそうになった。学校帰りにお見舞いに来てくれたむっちゃん。この入院はそれほど長くないと言われているので、次に会うのは退院したあとだ。
時刻はまだ十七時を過ぎたところで、ベッドの上で動けない私にとって、この心がひんやりとした時間はまだまだ長く続きそうだった。
視線を下げて自分の身体を見る。
ベッドには包帯をぐるぐる巻かれた私の足がじっと横たわっている。何もしていなくてもじんと痛みがあるので、できるだけ触らないよう、動かさないように。
はじまりは学校帰りにつまずいて転んだことだった。膝の少し下あたりを擦りむいて、お姉ちゃんやむっちゃんにも「どんくさい」と笑われた。擦り傷は痛かったけど、私も「失敗したなあ」と思っていたくらいで、すぐに治ると思っていた。ただ数週間すると傷は塞がったものの、腫れが引かず、しこりのような物が出来ていた。次第にその腫瘤が大きくなってきて、更に不安は増した。
スマホで検索するのだけど、腫瘤と言っても原因は様々で、はっきり私と同じだと思えるような病例は見当たらない。何度も検索しては、さっき見た同じページにたどり着いた。どの記事を読んでも一向に不安は消えない。
そして気づいたときには病院に入院、手術ということになっていた。幸い腫瘍を取ってしまえば何も問題は無いということだったけど、次は手術への不安が押し寄せてきた。
「歩行に影響が出るような手術ではありませんので」
説明をしてくれた担当医はどんな顔をして言ってただろうか? 大して上手くもない足の絵を書いて手術の説明をしてくれたけど、私の心を占めていたのは、言いようもない重たい気持ちと恐怖だった。麻酔や切除と聞いて、怖くないわけがない。
現実には医師の言ったように、その手術は思っていたよりも淡々と、あっけなく終わった。あとにはベッドの上で動けなくなった私の出来上がりだ。
いまは麻酔も切れているので、手術直後と違って動くことはできる。けれども、痛みはあるのであまり動きたくはなかった。トイレも二、三日はベッドの脇に佇む車椅子のお世話になる。
ふと、視界の端に黄色い何かが横切った。
なんだろうと窓の外に目を向けると、新緑を蓄えたけやきの木が生い茂っていて、その枝先に黄色い風船が引っかかっていた。誰か子供が飛ばしてしまったのだろうか。
自由に飛べない風船。風に揺られてその場で藻掻いている。まるでベッドの上でじっと動けない私のようだ。鮮やかな黄色と緑が合わさって、胸の奥を圧迫する。鈍く痛む足を堪えながら窓際にすり寄ると、乱暴にカーテンを引いた。
翌日、お見舞いに来た母さんがカーテンを開けると、やはり黄色い風船はまだ引っかかったままだった。同じようにどこにも進めないのだ。
いまは木の枝に引っかかって留まっているが、たとえそこから逃れたとしても、広がった緑の葉が行く手を遮るように立ちはだかって、自由に飛べそうもない。
「痛みはどう?」
母さんが着替えやらペットボトルのお水やらをベッド脇の棚にしまいながら尋ねる。
「動かすとまだ結構痛いよ。昨日よりはマシにはなってるけど」
正体のつかめない不安を押し込めて、できるだけ明るく努めた。そう、車椅子の移動もなんとかこなせるし、たしかに昨日よりはマシなんだから。
「なにかほしいものとかある? 大丈夫?」
「大丈夫。さっきもメッセージ送ったじゃない」
仕事もあるというのに毎日様子を見に来てくれる母さんに対しては、感謝しか無かった。
「まあ、そうなんだけど。なにか欲しい物があれば遠慮なく言いなさいよ」
「うん。ありがと」
これからパートに出かけるという母さんは、テキパキとりんごの皮を剥いて、持ってきたタッパに入れると楊枝を刺して私へ差し出した。一切れは母さん自身の口へパクリと放り込まれる。
「うん、美味しい。このりんごは当たりね。これ食べてちょっと元気出しなさい」
りんごを咀嚼しながらじゃあねと慌ただしく出ていった。今回の怪我から手術と、心配のかけっぱなしだというのに。私の前ではいつも明るく力強い背中を見送って、とてもあたたかい気持ちになった。
私の手に残されたタッパのりんご。爪楊枝をつまんでりんごを一口齧る。少し硬めのしゃりっという食感と口に広がる爽やかな甘味と酸味。
「おいし」
少し気持ちが晴れていく。手術は無事終わった。痛みはじきにひくだろう。今日は車椅子で移動もできるんだから。気分を変えなければ。
窓の外は意識的に見ないようにして、むっちゃんがお見舞いに持って来てくれた雑誌をパラパラめくる。
夏を前にして涼し気な籠のバッグや浴衣。可愛い小物や服を見ていると楽しくなってくる。誌面にはふんわりと可愛いミニ丈の白いワンピースを着たモデルが笑っていた。スラリと伸びた足に目が留まり少しの高揚のあと、モヤモヤとした気持ちが胸の奥に湧いた。
思わずベッドに横たわる足に視線を落としてしまった。パジャマの下は包帯にくるまれていて見えないけど。
「五センチか」
これくらい、と指を広げてみる。乾電池くらいの長さだろうか。
「膝の少し下を五センチほど切ってます。あまり目立たなくなると思いますが」
執刀をしてくれた医師がまだぼんやりしていた私と母さんにそう説明していた。その時はまだ術後のホッとした気持ちが強かったのと、包帯で隠れていたため、ああそうなのかという感じだった。けれども、目立たなくなるとわざわざ言ったということは、跡はしっかり残るということなのだろう。どれくらい残ってるのか。本当に目立たないのか?
私はそっと、モデルのほっそりとした膝を親指の爪を立ててなぞる。圧迫された紙面に細長い傷がついた。もう一度、そっとなぞる。その衝動を風船に見られているように感じて雑誌をベッドに伏せ、窓から顔を背けるように寝転んだ。
「どう? 少しは歩けるようになってきた?」
お見舞いにやってきたお姉ちゃんは、冷蔵庫にあったカットスイカを一口食べながら聞いてきた。スイカは母さんが朝入れておいてくれたものだ。「食べる?」というように私の方に差し出してきたので、首を横に振る。
入院や手術が決まったときもそうだったが、お姉ちゃんは少し軽口を交えるくらいで話してくる。あまり深刻な雰囲気にならないのは、今の私にはありがたかった。
「うん、まだ痛みはあるけど。松葉杖がまだ慣れない」
昨日から歩けるようになってきていた私は病院から松葉杖を一本借りていた。トイレやちょっとした散歩はできるようになり、動ける範囲は広がっていたが、その松葉杖はまだ馴染まなかった。
お姉ちゃんはベッドに立てかけてあった松葉杖を手にとると、立ち上がって試してみる。
「うわ、けっこう腕が痛いね、これ」
「なんか、体重をかけすぎないほうがいいらしいよ。あくまで支えとして使うみたい」
「そうなんだ」
「足の替わりに全部支えるんじゃなくて、痛い足の負担を減らすみたいに使うんだって」
松葉杖、痛い足、大丈夫な足、と順番に。
「なる程、そうなんだね」
お姉ちゃんは何度か試して使い方のコツをつかんだのかそれとも飽きたのか、松葉杖を元の位置に立てかけた。備え付けの丸椅子に座った制服のスカートから素足が覗く。ひっそりと隠れていた胸の奥の何かが、少しぞわりと動いた。お姉ちゃんの足に目を向けないように逸らすと、今度は窓の外の風船が目に入った。
黄色い風船は相変わらずけやきの枝先に引っかかったままだ。まだ空に舞い上がることができずに、そこにとどまっている。
カーテンを閉じっぱなしというわけにもいかなかったので、最初の頃よりは見慣れた風景になったし、以前ほど心がざわざわしなくもなった。けれど、そこに停滞し続ける風船は正しく私の分身だった。よく見てみると、前よりも黄色が濃くなったように感じる。張りつめていた風船の空気が抜けて、しぼんできたためだろう。このまましぼんで落ちてしまうのだろうか。
「ん? 風船?」
私の視線を追ったのか、お姉ちゃんが窓の外の風船に気づいた。見てほしくなかった。
「うん。ちょっと前から引っかかってて」
私のように停滞した風船を見て、何を思うのだろう。そんな風に思って濃い黄色から目を外せずにいた。
「そっか、じゃあ彩夏を励ましてたのかもね」
「励ます?」
「だって、あんた黄色好きでしょ」
「えっ?」
黄色が好き? 私が?
何を言っているのだという気持ちが湧き起こった。それと妙に納得する気持ちも。
「自覚なかったの? あんたの物、わりと黄色率高いよ。そのスマホカバーも黄色だし、去年気に入って履いてたスカートも黄色」
お姉ちゃんが呆れたように言う。そう言われると、確かに選んでいる小物や服は、黄色い物が結構思い当たった。好きな色と意識してなかったことが滑稽なくらいには。
「ふふ」
「なによ、変な声出すなよ」
そうか、励ましに来てくれてたのか、キミは。そう思って窓の外の風船を見ると、胸のもやもやは見当たらずむしろ暖かい気持ちすら感じた。次いでベッドに横たわる足を見る。その包帯の内側にあるのは、手術を乗り越えた証だ。簡単な手術だったらしいけどね。
「ふふふ」
「だから、気持ち悪いって言ってるでしょ」
ありがとう、お姉ちゃん。
私は心のなかでそう呟やく。溢れる笑みを抑えることができず、またお姉ちゃんにしょうがない妹だな、という目を向けられるのだった。
退院の日の空は、青々と晴れていて夏の気候だった。もう一週ほどで夏休みに入るので、この時期に退院できるのは嬉しかった。
「ありがとうございました」
お世話になった看護師さんに、母さんと一緒にお礼を言って病室を後にする。
今朝になって窓の外を見ると、黄色の風船は無くなっていた。広がった葉にも引っかかっていなかったので、きっと一足先にゆらゆらと風に乗って出発したのだろう。
私は黄色いスカートから覗く足を見下ろした。これまでと同じように、包帯が巻かれた足。このお気に入りのスカートだと包帯がしっかり見えるので、包帯が取れると傷跡も見えてしまうだろう。
「じゃあ、彩夏。いこうか」
「うん」
大丈夫。大丈夫。足はまだ少し痛みがあるけれど、松葉杖がなくても支えられる。ゆっくりと歩けば良い。
私はお気に入りの黄色いスカートをなびかせて、夏の日差しの中に踏み出した。
完
黄色い風船とスカート 島本 葉 @shimapon
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