中編 呪詛の正体
剥がれた天井。無惨に崩れた壁。分厚い埃と、ボロボロの宣伝ポスター。光源は、心細い西陽。
ここは廃墟のショッピングモールの2階。
かつては明るくて賑やかだったのだろう。今は人もなく、音もなく、ほっとするような人工的な明かるさはない。エアコンもないので、ちょっと息苦しいし、臭い。
寂しさと、不気味さと、汚さと、西陽が伸ばす暗がりが支配する、打ち捨てられた空間。
美咲は独りで、恐る恐る歩く。
錆びて動かないエスカレーターの埃を踏み、ここまで登った。
昔アパレルショップであっただろうテナントの床に、小汚いマネキンの首が落ちている。
(あの人が今ここにいるらしいって、タッツイーで見たけど……)
もうずっと、肩がずっしりと重い。歩くのがつらい。きっとこれも呪いのせい。
早くあの人を探して、呪いを解いてもらわなきゃ。
ポーン。
突然響いた明るい放送に、重い肩が勝手に跳ねる。
『ハッピーモールにお越しくださり誠にありがとうございます』
誰もいないはずなのに。
前後を見渡す。視界の端の床のマネキンの瞳が、ギロっと動いた気がする。
「ひっ」
確認しようと、マネキンに焦点を合わせる。が、作り物の瞳は元のまま、ひとつも動いていない。
(気のせい? なんなの?)
怖くて怖くて、膝が小刻みに震える。
クスクス。クスクス。
どこから聞こえる声に、肝が潰れそうになる。
「誰かいるの?」
この際ハッキリさせてやろうと思った。
人間がやってるにちがいない。きっと、とびきり性格の悪い奴が。
ポーン。ポーン。
放送が鳴り響く。
『当店では女子高生を販売しております。2階、人売り場までお越しください』
空洞のような1階から、パタパタと人の足音。さざめき。
ゴウン、ゴウンと、エスカレーターが勝手に動く。人の足音も、ざわめきも、賑やかに音を立てて段々こちらに近づいてくる。そのおびただしさを予見させながら。
放送に混じる、ザザ、ザザっと砂をこすりつけるような音と、不鮮明な笑い声。
まさか。本当に。
手足は痺れきり、恐怖で目の前が真っ暗になった。
そして……。
「『消えろ!!』」
上から響いた鋭く高い人の声が、すっぱりと空気を裂く。
足音も放送も、エスカレーターの動きも、一斉に止まった。
あぜんとして見上げれば、
吹き抜けの天井の、上の階から、人がのぞいている。
異様に白い肌。切り揃えた長い黒髪。
例の、制服を着た日本人形みたいな女子高生。
横にはちょこんと、キジトラの猫の顔もあった。
(いた……!)
「あら。呪われてる人じゃない」
「どういうつもり?」
幽霊とか呪いの仕業じゃなかった。全部あいつのせいに違いない。
怒りで顔がカッと熱くなる。
あんないたずらで、からかって、人が怖がるのを見て楽しんでいたんだ。
猫崎言子は、唇にかすかなほほ笑みをたたえるばかりであった。
「話を聞きましょうか」
話を聞くだのなんだの、そういう場合じゃない。
そう怒る美咲だったが、結局、廃墟のカフェに連れて行かれた。
埃と錆だらけの椅子とテーブルが、なぜか残っていた。言子はそれらを軽く拭くと、堂々と座る。どころか、カバンからカフェオレの紙パックを取り出し、悠々と飲み始めさえした。
スカートの膝の上に、キジトラの猫がぴょんっと飛び乗って、腹を見せながら手足をばたつかせた。
「わしにも『かふぇおれ』を飲ませよ」
「猫は糖分取っちゃダメですよ、師匠」
さも楽しそうにじゃれあっている。
「あなたもどうぞ。座って」
促されても、美咲は立ったままでいた。
(汚いし。それになんでこんな人と……)
さっさと用を済ませよう。
「ねえ。私が呪われてるってどういうこと?」
「そのままの意味。あなたの背中に呪詛がまとわりついてるわ。とびっきり黒くて大きいやつが」
霊感のない美咲には、残念ながら見えない。
でも、やっぱり、と思った。
「お祓いでも行けば取れる?」
「取ること自体は簡単よ。『消えろ!』」
今時誰も使わない女言葉のあとに、唐突に乱暴な大声が発せられた。
その勢いに、美咲は吹っ飛ばされそうになる。
同時に、すぅっと肩が軽くなった。びっくりするほど急速に。
「はい。終わったわ」
「もう?」
「だって軽いもの。あなたについてたのは人為的呪詛じゃなくて、自然発生的呪詛だったみたいだから」
「自然発生?」
「簡単に言えば、呪詛師じゃない誰かが発した悪口のような、ちょっとした悪意が堆積して呪詛のように作用するの」
オカルトのことはよくわからない。が、最近のついてなさや不気味な現象が、誰かの悪口や悪意が堆積したというのは。
「つまり、誰かが私の悪口を言いまくったから、私は呪われたってこと?」
「そういうことになるかしら」
世界が終わったみたいだった。
黒いモヤモヤが、心を支配した。
今までの理不尽が思い起こされる。下手したら大怪我をしたり、最悪死んでいたかもしれないのに。
それほど私を呪っている人って、誰?
彼氏? 友達? パパ? ママ? 先生? 知り合い?
わからない。誰も信じられない。
立っていられなくなりそうだ。
「……それって、誰?」
言子は紙カップを片手に、思案するかのように「そうねえ」と言葉を伸ばす。
「説明すると面倒だわ。ま、知りたかったら午前1時に東通りを右折した林へいらっしゃい」
「は? 私は誰が言ってるのか聞いてるんだけど」
「来ればわかるわ」
「役立たず。もういい」
どうしようもなくイライラして、踵を返そうとした。
こんな奴いなくたって、自分で何とかしてやる。
背後の言子がクスクスと、さもおかしそうに言葉を投げてきた。
「そうそう。いいこと教えてあげる。あなたが突き立てた刃物は、いずれあなたの背中に刺さるわよ」
猫も嘲るように喉を鳴らしている。
美咲はそんな戯言を無視し、すぐに打ち捨てられた不気味な空間から出ていった。
問題を解決しようと行動したのに、むしろ余計なストレスという、新しい問題を抱えてしまった。
そんな時は、やっぱりネットだ。
膨大な情報でうんざりした気分を紛らわし、他人への悪口でウサを晴らす。
『役立たずの知ったかぶりが一番ムカつく』
父もいない、母も帰って来ない、暗い暗い部屋で、目が痛くなる光の板に、ただただ文字を打ち込んでいく。
書いても書いても、見ても見ても、胸の黒いモヤモヤは発散しきれない。
知ってる誰か、知らない誰かが美咲を呪った。
美咲はみんなを信じていたのに。
裏切られた。
呪われて殺されていたほうが、よっぽどマシだったかもしれない。
溢れてくる涙が、どうしても止められない。
一体誰が? どうして自分ばかり。これからどうしたらいいの? 私は……。
午前1時。美咲はペダルをがむしゃらに踏み込み、夜の通りを全速力で突っ走る。
ハンドルを切り、東通りを右折した。
真っ暗な怖い道を、涙目になりながら走る。
結局、頭が冴えて眠れなかった。部屋でじっとしているのも耐えられなかった。
誰が? どうして? 何で? 私が?
ぐちゃぐちゃした疑問への答えが、わからないのも耐えられず。
すごく
わけだけど……。
さっきから、追いかけられている。猛スピードで。
車でもない。自転車でもない。ましてや人でも。
ガサガサ。ガサガサ。ガサガサ。
徐々に、確実に、『そいつ』の気配が近づいてくる。
絶対に振り向きたくない。
とにかく、足を回してペダルだけを踏み込んで。前だけ見て。前だけ。前へ前へ前へ前へ。もっと前へ……。
ガチンと音がしたら、足がスカッとする。
チェーンが外れた。
「嘘」
もうスピードが出せない。
後ろの気配が肉薄する。
捕まる……。
「いやああああ!! やああああ!!!」
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