第3話 オウルシステム

「――おそらく、一時的な健忘症でしょう。少なくともCTで見る限り脳内出血も見られず、器質的な異常は見られません。一過性健忘は頭部へ外傷を受けた際にはまま見られることがあります。ただ、全般性健忘は珍しいですね。いや、失礼。ただの印象です。統計的なバックデータがあるわけではありません。主観的な記憶の話ですから、正確なデータを集めること自体が困難を極めますし、脳分野は未だ以てブラックボックスだらけですからね。

 忘れているフリをしているだけではないか、ですか。その可能性は否定できませんが、なんのために、でしょうか。私は状況を伝え聞いたに過ぎませんが、交通事故の被害者である以外になにか疑わしい点でも? 十二歳の少年に? 自転車にさえ乗っていたわけでもない歩行者が?

 それに個人的な意見ですが、忘れたフリだったとしても、それは本人が忘れたいからそう思い込もうとしているということはあると思います。その場合は、できるだけそっとしてあげるのがいいと思いますが。私だったら、思い出したくはないですからね、軽トラックと衝突する前後のことなんて。ついでに全部忘れてしまいたいと思っても、不思議ではないでしょう。翻って、それほどのストレスを受けたということです。トラックの運転手の方は残念でしたが、クランケにこれ以上のストレスをかけることは容認できません」



 †―†



 赤広絵竜というのが自分の名前らしい。

 気付いたら入院していて、入院以前のことも思い出せず、絶賛混乱中である。


 聞いたところどうにも特殊な交通事故が原因で入院しているらしく、目撃者がいるにも関わらず事故検証ができておらず(軽トラック進行方向の反対側の車線の歩道に逆さになって突っ込んできたというのだから確かに意味がわからない)、相手側が亡くなっていることもあって相手の保険適用に難航しているのだとか。


 覚えがまるでないので、あらゆることに実感が湧かない。


 周囲に対して違和感が、というよりも、自分自身に対して酷い違和感がある。


 それは周囲にとってもそうだったようで、逆に、全般性健忘――いわゆる記憶喪失については疑われなかった。両親からは一目瞭然に、人が変わっているとのことで……いやまあ、騙しているわけではないので順当なのだけれど……変わっているとお墨付きをもらっているのに、自分は変わっていないような気がするのが、もう訳が分からない。


 訳が分からないといえば、もう一つ。


「カイリくん、カイリくん、明日のお見舞い何がいい?」


 なんか自分に懐いている少女が毎日毎日お見舞いにくることだ。

 いや、事情は聞いている。

 絵竜が入院することになったその原因というのが少女を庇ったからだという話だ。


 その記憶がない絵竜の実感のなさはともかく、感謝されるのは理解できる。そして少女がトラウマ級の事故現場に直面したはずなのに、絵竜の前では明るく振る舞っている理由も分析できる。簡単に言えば、そんなトラウマ級の出来事から救ってくれた人物の傍にいることで安心感を得ているのだろう。肩代わりしたという絵竜の無事を見ることで罪悪感に落ち込みすぎないという面もありそうだ。彼女を省いて彼女の親からお礼を言われたときに仄めかされた事情からそれは推察できた。


 理解できないのは、やっぱり自分の感覚だ。同年代の女の子が『懐いている』なんて表現を当てはめることを自然と感じるのだ。端的に言えば、子供に見える。年相応の背格好の少女に対して抱く感想としては甚だ不適切だとわかっているのに、そう感じる。それでいて、とても魅力的だと感じるのだ。


 今はいいが将来的に酷く不安を覚える感覚である。将来の絵竜はこの年代の少女にしか魅力を感じない偏った性癖になるのではないかとかなり危ぶんでいる。


 まあ、記憶が戻ってからするべき心配だろう。器質的な異常は見当たらないという話だし、予断は許されないが、おそらく一時的なものであろうと、主治医は言っていた。


「暇を潰せるものがありがたいかな。食べ物は、まあ間に合ってるし」


 お見舞い品を遠慮するのも、気を遣わせるだけだと思って絵竜は素直に受け取ることにしている。


「えー、そうなの? 叔父さんが入院したとき、ごはんが美味しくなくって差し入ればっかり食べてたって聞いたけど」

「今は病院食も進化してるんじゃない? 知らんけど」

「そっかー。でもじゃあ、マンガとか?」

「マンガじゃないけど、ラノベなら家にあったってやつを母が持ってきた。記憶戻らないかって」


 そういってキャビネットを示す。ギプスで固定されていない側の手で。


「……戻った?」


 黙って首を振る。

 申し訳無さそうな顔をさせてしまって気まずい。話運びをしくじった。


「いやでも、正直さ、記憶喪失って実感がないくらい、戻したいって感覚がないんだよな。それに、あるだろ? 記憶を失ってもう一度読みたい名作、みたいの。それをリアルでできてむしろラッキーみたいな?」

「なにそれー。聞いたことないよ。っていうかそんなに面白かったの? そのラノベって」

「オレはまだ名作に出会っていなかったらしい」

「面白くなかったんかい」


 半眼でツッコミ入れてくる。

 そのあえて乗ってきてくれるところに、ええ子や、と感じ入る絵竜は割りと重症だった。


「まあでもあれだ、母がマンガを持ってきてなかったことからも、オレってどちらかというと体を動かすのが好きだったんじゃないかな?」

「うーん。まあ、毎朝ランニングしていたわけだし、そうかも?」

「なんか含みがあるな?」


 ていうかランニングなんかしていたのか。例によって実感はまるでない。それに、事故当時が初対面だったという彼女がなぜ毎朝だと知っていたのだろう。色々不可解なのだが、そうした疑問よりも彼女の含みのある態度が気になる。会話の流れを優先してツッコミを控えたというのが本当だけれども。


「持ってきたのがお母さんってところが、ねー。記憶喪失にカコつけて、携帯ゲーム機とかマンガとかを忘れさせようとしてるんじゃないかなーって。ほら、ラノベってかろうじて小説だし、文字詰まってるし」

「……なんか、すごくありえる気がする。じゃあ、何か? 実はオレはゲームとかマンガとか大好きで実は大量に持っていたけど、退院したら痕跡もないほど全部捨てられているとか?」

「わかんないけど、そうかもねーってだけ」

「なんだろう。別に執着はないけど理不尽な感じがする」


 読書の楽しみを思い出せなかった絵竜だが、その横暴には軽い怒りを覚える。いや、そうだと確定はしていないのだが。そもそも自分の母がそういうことをしそうな人間なのかどうかさえも、思い出せないのだけれど。それでいて『母親とはそういうことをする』という共通認識みたいなものはあるのだから、不思議なものだ。ただし、それが彼女だけの認識でたまたま自分の認識と合致したのか、一般的な認識であるのかの判断はできないのだけれど。


「まあ、決まったわけじゃないけどねー。でもじゃあ、それじゃあさ、あの握ってぎゅ、ぎゅってするやつ持ってくるね。確か伯父さんが持ってたと思うんだー」

「――。……ちょくちょく出てくる伯父さんが可哀想だからやめたげて。あとそれ、多分ハンドグリップっていうやつ」


 ぎゅ、ぎゅってするやつって言い方かわいいね、と言いかけた絵竜はやはりかなりの重症である。

 初対面だったにも関わらず庇ったという自分の行動に関してだけは、何一つ疑問もなく納得してしまう。せざるを得ない。


 こんな他愛のないやり取りが妙に楽しい。なぜだか胸がいっぱいになる。本当に初対面だったのだろうか、と疑問に思うが、人が変わったかのようだという絵竜と少なくとも表面上は噛み合った会話をしているのだから、初対面だったのだろう。人が変わる前を知る両親とは、噛み合わないから、逆説的にそうなる。


「じゃ、また明日ねー、カイリくん」

「うん。今日もありがとう、また明日――ミク」


 なぜだか挨拶に名前を呼んでと要求されてから恒例となった挨拶を交わして、楽しい時間は過ぎた。


 しばらくそのまま、様子を伺うように絵竜はじっとする。

 そうして、力を抜いて仰向けに倒れた。

 けっして柔らかとは言い難いベッドが絵竜の背中を受け止める。


 疲れたのだ。

 ミクと話すのは楽しい。なんなら顔を見てるだけでいいくらい。お見舞いは嬉しい。

 けれど疲れる。

 それは、絵竜が重傷を負っているからではなく、むしろ逆で――


 コンコン、とギプスを叩く。骨折やら靭帯破断やらなにやらで手術された左腕だ。

 まるで痛みがない。というか、どうしてだか確信がある。もうこの腕は完治しているのだと、分かる。それが異常なことだとは、記憶がないから確信できなかったけれど、いい加減理解している。この回復速度は異常なのだと、傷口からドレナージするチューブが痛みを伴って自然と抜けた時点で、察してはいた。そもそも入院当初はほぼ全身に傷を負っていたのだ。それが体を起こせるようになるまで僅か数日という時点で、おかしいと思うべきだった。


 絵竜は記憶喪失とは関係ないところで、異常に見舞われている。あるいは記憶喪失も同じ異常に由来するのか。


 わからない。

 何もわからないけれど、そんな異常な自分をミクに知られたくなかった。

 だから重症患者のフリをした。それで、疲れている。健常者が重症のフリをするというのは、思いの外疲れる。記憶喪失のせいでどの程度を誤魔化せばいいのか判断できないせいもあり、とても気を使うのだ。


 尤も、医療従事者を誤魔化せていると考えるほど絵竜はおめでたくない。チューブが外れたのはともかく、そのチューブが刺さっていた傷口が完全に癒着していて、もう抜糸できる状態になっていることを見られているのだ。あえてCTを撮るまではやられていないが、骨折が癒えていることもすでに露見していることだろう。ギプスは外されなかったが、肋骨骨折の固定具コルセットはすでに外されているのだし、松葉杖でトイレまで自力で行く許可も出ている。知らないうちに点滴も撤去されていた。そもそも保険適用もされていないのに個室というのがおかしい(されていてもおかしい)。部屋の狭さとベッドの固さからしてVIPルームではないので、隔離部屋というやつではなかろうか。


 こうなってくると逆に、主治医や看護師からこの異常について何も言われないことが不気味で仕方がない。というかおそらく、術中にはもうこの異常について知られていたのだろう。きっと、絵竜の自覚以上に当初は重症だったに違いない。死んでいておかしくないくらいに(あるいは死んでいないほうがおかしいくらいに)。


 それについて両親が何か言ってくることがないことも不気味だ。病院側は伝えていないと考えるべきか、あるいは両親の意向でこうなっているのか。


 記憶喪失のせいでややこしくなっている。

 何を疑っていいのかわからない。

 そもそも疑うべきなのかもわからない。


 だから極めつけの異常については、誰にも悟られないように振る舞っている。


 ラノベを一通り読んだことでこれが隠すべき異常であると確信したのだ。

 ああしたフィクションは、フィクションであるために現実にあるものとないものとを区別するのに使えた。

 

――――オウルシステム(ログ)――――

・オートレジストシステム

┡【自動治癒】:完了


―――――――――――――――――――


 いわゆるステータスウィンドウというやつは、現行の技術では拡張現実用の機器を装着でもしないと見えないはずだということが、いくつかのラノベを読むことではっきりしていたから。

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