第2話 初っ端から違う件

 赤広あこう絵竜かいりはその日、早朝からランニングをしていた。

 部活に入っているわけでもないのに、中学生になったばかりの少年が早朝ランニングなんてしているのに、どんな理由があるのだろうか?

 不意に少年は立ち止まり、自分に疑問を抱く。

 自分がなぜ早朝からランニングなんかしているのか、本気で失念してしまったからだ。

 軽く肩を上下させる程度に息切れするほど長時間走っている。それでもまだまだ走れると、体はこうして走ることが習慣になっていることを教えてくれる。

 けれどそんな習慣が自分にあった覚えがない。

 十八年も前のことだから確かとは言えないが――


「……十八年前?」


 ごくごく当たり前に、今が十八年前だと認識している自分を発見し、愕然とした。


「本当に、戻ってる……」


 自覚すると、特に衝撃を受けるでもなく、タイムリープしたことが認識に染み渡る。

 同時に、沸々と怒りが湧いてきた。


「あの詐欺師め……っ!」


 劣化【賢者】のことである。

 あの【賢者】のホムンクルスを名乗る少年/少女は絵竜を騙していた。

 どう騙していたかと言うと、回帰魔法は自分しか対象にできない、というところだ。

 つまりオリジナルの【賢者】はそもそも回帰できない。魔法能力を失っていたからだ。

 なんのためにそんな嘘を吐いたのか。

 推測はできるが、それよりも、その嘘に騙されて回帰魔法の術式を焼き付けられたことに、怒りを感じていた。


 劣化【賢者】は、回帰魔法と偽って類感魔法を行使し、絵竜に術式を強制的に習得させた。

 それは、絵竜と劣化【賢者】が同期シンクロしたということだ。

 思い出すと怖気が走る。思わず吐き気が込み上げて近くのガードレールに手をついて蹲ってしまうほどだ。

 要は嘘の理由がそれである。類感魔法は悍ましく気持ち悪い。絵竜と話す内に、劣化【賢者】はそこに絵竜が気付くことを――気付くだけの推理力があることを見抜き、類感魔法に抵抗されることを懸念して、騙したのだ。その挙げ句に、類感魔法で絵竜を操り、回帰魔法を行使させた。それもまた、悍ましく気持ちが悪かった。

 彼/彼女がそうした理由はわかるし、そうでなければ失敗したかもしれないという事情も理解はできるが、騙されたというのは気分が悪いし、そもそも類感魔法が、理由がわかっても納得できないくらい気持ちが悪かったのだ。


 ともあれ回帰に成功はしたらしい。

 回帰される側――つまり過去であり現在の自分の、直前の記憶が上書きされてしまっているのは想定外だったが、逆に、未来の記憶は、少なくとも自覚上は欠損がない。十八年も体にギャップがあると少なからず何らかの欠陥が現れると思っていたのだが、思ったよりも類感魔法に求められる相似性というのは幅が広いようだ。まあそうでもなければ、ホムンクルスだとか言っていたあの劣化【賢者】と絵竜が同期するなんて真似、不可能だっただろうが。

 それでも記憶以外で気持ち悪さがないのは、歳を隔てても自分は自分、ということなのだろう。体が小さくなっているのに違和感がない。

 オリジナルの【賢者】が劣化コピーしか造れなかったということからも、未来の自分たちが把握していた以上に、人間の固有性というものは強固でありながら、フレキシブルなもののようだ。そう言うのを頑迷という気がするのはともかく。

 

 しかし困った。

 本気で自分がなんでランニングなんかしていたのかわからない。

 前述したように早朝にランニングする習慣に覚えなんかないのだ。あるいはこれが記憶の欠損なのだろうか。

 疑わしくなって首を捻って周囲を見渡す。


「というかここどこだよ……」


 なんとなく街並みに記憶はあるが、当時の生活圏ではなかった。ランニングで割と遠出して、当時の自分が普段通らなかった場所に来てしまったのだろう。中学に上がったばかりの自分はそれほど生活圏が広くない。せいぜい家族の車ででかけたときに通りがかって記憶に残っている程度だ。この後引っ越したから行動範囲が広がってもここは更新されていなかった――


「いやまて、つまりやっぱり俺にランニングする習慣なんかなかったってことだ。……どういうことだ」


 もしや別人に入り込んでしまったのだろうか。世界の崩壊がどこにも見えないから、過去へと遡ったことに疑いはない。だから自分の手を見たりして、記憶と照らし合わせて自分が赤広絵竜であることを確認する。手というのはカメラや鏡でもなければ自分では見えない顔よりも見慣れたものであり、その照合を間違えることはありえない。さすがに回帰前とは大きさとか節榑とかで違いはあるが、手相を見ても違和感がないので間違いなく自分の手だ。

 自分は自分だという確信に揺るぎはない。

 ゆえにこそ、恐怖だ。

 何かが間違っているという確信があることが、恐怖だった。

 その確信があるのに誰が、何を間違えたのかわからないことが恐怖だった。

 だが、あの劣化【賢者】は、こうしたことが起きうると、おそらく予見していた。

 考えればおかしな話だったのだ。

 術式を焼き付けられた絵竜は、回帰魔法を自分で行使できる。ほんの数分だが、今すぐにだって回帰できるだろう。

 それは翻すに、何度でもやり直せるということだ。

 けれどこうして、一回目の回帰でさえ、初っ端から記憶に齟齬が現れている。

 おそらくは、回帰によって過去が変わったのだ。まだ絵竜は何もしていないが、回帰魔法を行使したという事実によって遡及的に改変が起きている。

 そのことに絵竜が気づかない可能性があるから、何度でも回帰できるということをできるだけ絵竜に気付かせないように話を運んだのだ。

 回帰を繰り返すことによって、過去の改変という歪みが蓄積してしまうことを懸念したのだろう。


 結局、その目論見は絵竜が彼/彼女の想定よりも察しがよかったことによって杞憂に終わったわけだが……。いや、未来の空は崩れて落ちてきていたわけだが……。


 本当に、あの劣化【賢者】は信用できない。そしてまるで信用されていなかった。

 結局、彼/彼女が言っていたことはどこまでが本当のことだったのだろうか。むしろ本当のことのほうが少なかったのではなかろうか。あるいは本当のことなんて何一つとして言わなかったのかもしれない。こうして思い返してみればいくつもの矛盾点があった。間違いなく彼/彼女には絵竜を欺す意図があった。


 まあ、あの時点で生き残っていた絵竜が信頼されるわけもないから、仕方のないところではある。

 そう自分を納得させようと、沸々と湧き続ける怒りの感情を飲み込もうと、息を整えつつ努力する絵竜だ。

 そんな絵竜に声が掛けられる。


「あの……ど、どうしたの? だ、大丈夫?」


 おどおどとした声がけだ。

 さもありなん。

 早朝とはいえ人通りがまったくないわけではない街路のど真ん中で少年が突然ガードレールにもたれかかって蹲ったかと思えばブツブツと繰り言を呟きながら両手をくるくる回して顔色もくるくる青褪めたり真っ赤になったり土気色になったりと色彩豊かな百面相をしているのだ。

 世紀末な未来では、哲学的ゾンビが電信柱に頭を打ち付けて流血しながら「死ねどってて死ねよどっててなんでどってて死なないどー。殺せ、死ねよ。なんで死ねない」みたいなことを呟いているのは珍しくない光景だったので絵竜は麻痺していたが、出始めた当初は普通にホラーだった。

 つまり怯えたような声なのは当然だが、声がけしようと思うのは普通ではない。普通は遠巻きにしてせいぜい携帯端末で撮影するくらいだろう。(※絵竜は殺伐とした未来の意識なので現在の常識を逸脱しています)

 もしや知り合いだろうかと、絵竜は顔を上げて声の主を見る。


 そして、すべてを悟った。


 だってなんかキラキラエフェクトがかかっている。脳内フィルターがエンジェルラダーの真下にいるかのようなスポットライトを少女に浴びせている。


 記憶がなくてもわかる。


 絵竜はこの少女にお近づきになるために遠出して早朝ランニングなんて習慣をでっちあげたのだ。

 少女は今の絵竜と同じ年の頃といったところで、十八年後の意識からすると完全に子供だ。そういう対象として見ることがないはずなのに、脳内フィルターが勝手にエフェクトをかけるのだからもう、そうとしか考えられない。というか絵竜が実はロリコンだったという認め難い性癖があるのかもしれないと思うと恐怖しか湧いてこないのでそうとしか考えたくない。あの歳まで色恋沙汰に興味がなかったことの原因がそれだなんてことがあったらあんまりだ。


 いやいや、現在の絵竜がこの少女に惹かれていたということは同年代に対して興味を持つ健全な性的指向ということだ。何も問題ない。

 問題なのは絵竜の性的指向ではなく、絵竜の記憶にこの少女のことがまったくないことだ。絵竜の性格的には中々ありえない、習慣をでっちあげてまでお近づきになろうとするほど、絵竜にとって印象深い相手であるにもかかわらず。

 遡及的に改変が起きている証拠であり、絵竜の持つ未来の記憶が初っ端から当てにならないことの証左である。


 あらゆる意味で衝撃を受けて愕然とする絵竜をどう思ったのか、少女はあたふたとした様子でリードを握った手を振る。


「あ、あの、大人の人、呼んでくる?」


 リードを目にしたことでようやく気づいたが、少女は犬を連れていた。行儀よくおすわりして、ハッハッハッと犬らしく息を吐いている。

 これが目に入らないとはどんだけだ、と絵竜は更に自分に呆れた。

 少女が犬を連れていることには疑問はない。犬の散歩でもなければ早朝から私服で出歩くことは――いや、休日だったらわからない。そういえば例の日――世界がズレた日――は覚えていても、その曜日までは覚えていない。そもそも焼き付けられた回帰魔法をそこまでコントロールできなかったというのもある。回帰魔法で遡れるのは魔法発生のその日までということから、その日から大きくズレていることはないはずだが。


「今日って何年何月何日何曜日?」

「へ? えぇ? っと?」


 徐ろに問いかける絵竜に少女はやっぱりあたふた。いやまあ、具合悪そうな少年がいきなり平静な調子で暦を問えば当然の反応ではあるが。

 

「――いや、大丈夫。ごめん」


 別に彼女に聞かなくてもいいことだ。家に行けばカレンダーくらいはあるはず。

 というか関わらない方がいい。絵竜にはやらなければならないことが多い。優先順位を間違えさせかねない彼女とは関わるべきではないのだ。元の記憶にはない存在だ。早朝ランニングをやめれば今後関わることもないだろう。


 すっくと立ち上がり、拒絶するように手を振りながら少女に背を向けておぼろげな記憶を辿って家に戻ろうとする。この辺りはよく知らない道だが、最悪探知魔法を使えばマッピングくらいはできる。いっそのことこのまま状況がどうなっているのか、どう変わっているのか探りに行くべきか。ここ数分だけでもうお腹いっぱいなまでに変化は見えているが、これの把握は最優先事項だろう。この辺りのダンジョンへ通じる亀裂はどこらへんだったか。まだ発見されていないはずだから目印はない。それこそ探知魔法の出番だろう。ただ、そもそもこの体で魔法は使えるかどうかを実験してみなければ。魔力は感じるから大丈夫だとは思うが、回帰前に仮にも十数年鍛えた能力をそのまま再現できるとも限らない。鍛える方針を定めるためにも現状把握からだ。


 まずは特にエフェクトもない探知魔法を歩きながら行使する。

 というか魔法全般、発動に際して特にエフェクトはない。攻撃魔法はそれ自体がエフェクト染みているが、魔法陣から炎が飛び出てくるみたいなことはなく、直接炎が発生する。大規模魔法だと違うのかと思って劣化【賢者】には騙されたが、あれだって魔力線を辿りやすいようにした水糸みたいなものだと説明されていた。


 ただまあ、今となっては本当にあの魔法陣が意味のないものだったのかさえ、疑わしいわけだが。あんな手間のかかるものをわざわざ演出のためだけに作るのか、という話である。回帰魔法を絵竜に焼き付ける下準備だったのか、あるいは本気でただの演出だったのか……。どちらの意味でもやりかねないので、もう考えるのは辞める。今現在は生まれてもおらず、生みの親が新生児であるはずなのだ。気を取られるだけ無駄だ。


 探知魔法では背後で手を上げたり下ろしたりしている少女の動作を捉えるが、だからそっちに焦点をあわせてどうするのかとセルフツッコミを入れて無理やり範囲拡大して、ヒャンヒャンと犬が吠えるのに釣られてまた焦点が戻り、やっぱり無理やり広げて――それを捉えた。


「――は?」


 思わず振り向く。

 視界が捉えたのは街路を走る軽トラックだ。けれど探知魔法が捉えたのはそのトラックの進行方向。絵竜の視界が遮られているそこにいる存在だ。


魔物モンスター、だと?」


 この時期にダンジョンの外に魔物がいる。そんなありえないことを探知したから、絵竜はこの先に起こることを予測できなかった。未来であれば、すぐさま予想できたことだったのに。

 

 キキィ――! というブレーキ音と、ボグシャ、と聞いたことのない衝突音と、風切り音と。


 笑えることに、軽トラックが跳ね飛ばされた。

 物理法則が嘲笑われている。

 せいぜい成人男性の1.5倍程度の体格の魔物が急ブレーキで減速したとはいえ時速40km以上の速度で走っている軽トラックを正面から打ち返したのだ。

 そして跳ね飛ばされた軽トラは、あたかも狙ったかのように少女へと向かう。いや、正確には、狙われたのは犬だろう。魔物は吠え立てられたから、攻撃対象を犬と定めたのだ。


 ――そんなことが今わかったからって何になる。


 我知らず、絵竜は自分に身体強化の魔法を行使する。その直前にはもう足は動いていた。

 だが、無理だ。間に合うけれど間に合わない。矛盾している? そうではなく、少女を庇うことはできても、それは絵竜が肩代わりしなければいけないということだ。少女を救うことはできても、その代わり絵竜が死ぬ。楽観的に見積もっても重症だ。まして今の絵竜の体は未熟で、身体強化の勝手が未来と違う。おそらく死ぬ。非常に高い確率で死ぬ。哲学的ゾンビになる。魔法能力を失う。回帰した今、そうなることはきっと致命的だ。実際どうなる? わからない。未来の記憶を失うかもしれない。魔法能力を失うだけならともかく。魔法についてわかっていることはあまりにも少ない。最高の魔法識者【賢者】でさえ読み違いをいくつも起こしている。絵竜に予想できる道理はない。目的を思い出せ。絵竜の代えはいない。少女は未来の記憶にない。多少成長したところで絵竜が彼女を見間違えるハズがない。少なくとも有名でないということは重要な人物ではない。見捨てるべきで、この足を向けるべきはあの魔物だ。


 ――走馬灯だ。


 内心で苦笑する。見捨てるならば見ないはずの走馬灯を自覚したから。

 やっぱり俺は何も成せないんだな、と。

 少女をなるべく優しく押し飛ばして、軽トラックに半身を打たれながら、その一瞬で魔物に対して攻撃魔法を放って、意識を喪失した。

 その直前に、魔物を仕留められたかどうかを確かめられなかったことだけが心残りで、少しだけ可笑しかった。

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