第8話 どうせエゴイスト同士の対決だから 相手は死んでいい

 どうせエゴイスト同士の対決だから 相手は死んでいい


 個人的規模の争いの連続が、人生の本質であり、人生に〈愛〉はなかった。

 私の描いた絵が、商業誌でイラスト採用されずに困っていると、誰かの絵は採用となり、泣く者と、笑う者に分かれる。また、私の生活が困窮していると誰かは喜んでいた。それと同様に、私は誰かが死に絶え、私に仕事と財産が転がり込んできたら喜ばないといけないのだろう。この地上の掟は、不断の決闘であった。おとなしい絵画制作も決闘であり、文学も決闘、音楽も、哲学も、慈善活動は、どうであろうか。宗教は、博愛精神、正義も、良心も決闘であろうか。結局、人間のすることは胡散臭うさんくさい。他人の目を気にかけた決闘ではないだろうか。そう思い捨ててしまえば、生き方として簡単だが、心のなかは殺伐としてくる。

 私は、十代後半で、無知無関心のノンポリ。二十代前半で、過激左翼的発想。二十代後半で、文学的無頼派志向。三十代前半で、家庭の幸福型無関心。三十代後半で、憔悴した芸術家やつれ。四十代前半で、煩悩ぼんのう再発見実践、であった。もう少し、細かく分類できそうであるが、それこそ猫の目のように、くるくると思想が変わるのは、余程一貫したものがないのか、暗然としてしまう。自己の確立が出来ていない。恥ずかしいかぎりである。たしかに私にとっては、しっかりした絵画制作と云う目標はあったが、それにしても短期間の思想の変化には、我ながらあきれる。

 まあ、いろいろ思想は変化していったが、私なりに、そのつど闘いの連続であった。そして、私には経験があまりなかったが、ボランティア活動でも個人間の闘いの雰囲気があったことを記憶している。何処どこへ行っても、大なり小なりの利己心の争いは避けられない。この世の仕組の基本が〈愚かさ〉であり、愚かを愚かとしてってゆかねばならない。


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