うた姫

花森ちと

ラクリマ

 青い世界にいました。

 わたしは頭上から降り注ぐ、光のようなうたに聴き惚れています。

『恍惚に浸るかのように』

 そんな言葉をふと思いつきました。しかし、この気持ちは、どうもそんな綺麗な言葉では言い切ることができませんでした。

 ――もっと黒くて生臭い気持ち。それでいて、この海のように青く澄んでいる……。


 わたしは人魚でした。

 人魚はうたう生きものです。うたわなければ、ほの暗い藍の闇でたゆたうだけの肉塊に過ぎません。

 満月の光が海を満たす夜、えらばれた人魚は、青い人魚の世界を抜け出して、天上の『岩山』と呼ばれるステージでうたうことが許されます。岩山でうたうことを許された人魚は、『ディーヴァ』という称号を授けられました。ディーヴァにえらばれることができると――ニンゲンと恋に堕ちるなどの罪を犯さなければ――その命のある限り、満月の夜にうたうことができるのです。

 ディーヴァをえらぶための基準はありませんでした。強いて言うとしたら、基準は人魚たちの意識でした。どの人魚たちも、頭のなかで、次のディーヴァがぼんやりと浮かんでいるのです。

 ディーヴァとしてえらばれた人魚は、その身に収まらないほどの幸福と快楽、そして優越感という美酒を舐めることができました。


 わたしも、やはり人魚としてディーヴァとなることを憧れていました。しかし、えらばれる程の才能や技術を持ち合わせてはいません。わたしは惨めな人魚です。うたうことができないわたしは、この世に人魚としての生を得られた意味なんてないのです。


「生まれた意味。そんなものを考えるなんて可笑しい話だわ。あたしたちは生きているのに、意味なんて考え始めたら命を軽蔑していることと同じじゃない」


 友だちのラエトゥスは落ち込むわたしを見ると、いつもそう言っていました。太陽のように燦燦と、真っ直ぐに。

 だけど、わたしは知っています。彼女はわたしのような気持ちになったことはきっと無いのです。ラエトゥスは才能のある人魚でした。だから失敗による後悔とか、自分の不出来さに涙を流すことなんて、今までで一度も無いはずなのです。わたしは彼女の人生をすべて識っている訳ではありません。これはただの憶測に過ぎません。そしてこれはわたしの妬み嫉みによる産物です。ですが、なによりも美しく輝くラエトゥスに触れると、どうしてもそう思わざるを得ないのでした。


「ラエトゥス。きっとあなたは次のディーヴァにえらばれるのでしょうね」

 正午の光のなかで、わたしは肚から苦い言葉をこぼしました。

 しかしラエトゥスはわたしの言葉を聞くと、嬉しそうに亜麻色の髪をたゆたわせます。

「あら! あなたもそう言ってくれるのね、ラクリマ。ついさっき、先代のディーヴァにもそう言っていただいたのよ」


 先代のディーヴァ。彼女のうたには、心を癒やす力がありました。あまりにその力が強大で美しかったので、どの人魚からも愛されていました。彼女は死ぬまでディーヴァであるだろうと噂が立った程です。

 ですが、先代がはじめてうたを歌った晩に、彼女はニンゲンと恋に堕ちていました。恋をしている間の歌声は、なによりも甘美でした。人魚たちはその歌声に酔いしれていました。しかしその甘美な歌声がニンゲンとの恋のためであったと暴かれた夜、その歌声はなによりも悲痛なものとなりました。禁忌を犯した彼女はいま、海の底にある洞窟で囚われています。


「そう……。あの人がそう言うのなら、きっと間違いないわね。それで、次のディーヴァが決まるのはいつでしたっけ」

「あら、それは今夜よ。待ち遠しいわ。もし、わたしが岩山でうたうことになったら、聴きにきてね」

 ラエトゥスはわたしの両手を握って微笑みました。

「ええ、ぜひ聴きに行くわ。だけど、もしディーヴァにえらばれたら、ニンゲンに恋しちゃうなんて絶対ダメよ」

「わかってるわ。ああ、早くうたいたい」

「海のなかではうたえないのかしら」

「うたえないに決まってるじゃない。あたしたちは魚のように海で暮らしているけど、うたはニンゲンのすることよ。ニンゲンは空気のあるところでうたうでしょう。ニンゲンと同じうたい方をするあたしたちが海のなかでうたったら、きっと溺れ死んでしまうわ」

 海のなかでうたうと死んでしまう。恐ろしいことに感じたけれど、心のどこかで、それは本望だと思いました。わたしはうたって死んでみたい。

「そう、なのね。やはり人魚という生きものは岩山でうたうことしか許されていないのね」

「ええ。だけど、どうしてわたしたちは海のなかで喋ることができるのでしょうね」

「たしかに。それって、すごく不思議」

 わたしたちは笑いあいました。ラエトゥスの純真な笑顔をみると、やはりわたしはこの少女が大好きなのだと気づいてしまいました。


 ラエトゥスと別れると、わたしは夜闇の迫る家へ戻りました。

 わたしの家は、ひいひいおばあさまのころから受け継がれていて、もう随分と古い家でした。

 人魚は女しかいません。そしてたまごを産むと、人魚はすぐに死んでしまうのです。だから、わたしたちは短命でした。そして、わたしはもうすぐその時期に差し掛かっていました。

 わたしはたまごを産むことに恐怖を感じていました。次の世代の人魚をつくる行為。わたしを殺すための行為。それには大きな痛みが伴うそうです。

『わたしはもうすぐ死ぬのだわ』

 鏡に映る、今にも泣き出しそうな女をみた瞬間、わたしはわたしの生を終えるなら、痛みのなかではなくて、うたのなかで死にたいのでした。


 月光が水中に差していきます。闇に呑まれていたわたしの髪が、明るく照らされました。夜が来たようです。

 淡い光と共に、聴き慣れた声が降り注ぎました。ラエトゥスです。やはりラエトゥスがディーヴァに選ばれたのです。


 青い世界にいました。

 わたしは今からうたおうとしています。海のなかで。澄み切った視界に胸が高鳴りました。わたしは嬉しくなって、息を吸おうとしました。海水がわたしの喉に入り込んできます。だけど、わたしはうたおうとしていました。声なんて出せなかったけれど、わたしは確かにうたおうとしていました。

 青い世界にいました。

 どうやら、うたうことはできなかったようです。そのなかで、天上からラエトゥスの歌声が朗々と響いてきます。わたしはラエトゥスのことが嫌いでした。妬ましく思っていました。だけど、わたしは彼女を愛していました。彼女のうたに恍惚なんてしたくはありませんでした。しかしそれは強がりでした。黒くて生臭い気持ちの反面、わたしは青く澄み切った気持ちで、彼女のことを信仰していたのです。

 青い世界にいました。

 わたしの身体はいつもしているはずのエラ呼吸ができずに、水中に白い泡をつくって藻掻いています。苦しい、苦しい。わたしは暗い海の底へ沈んでいきます。それでもわたしはうたのなかで死んでいきます。


 青い世界にいました。

 青い世界にいました。

 わたしは、青い世界にいました。

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うた姫 花森ちと @kukka_woods

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