第7話 最初の一歩
「あぁ、顔色も良くなったな。できそうか」
昼食後、シロガネ様と顔を合わせたら少し安心したような声が聞けてあたしは大きく頷いた。
「大丈夫です! すみません、もう大丈夫ですから!」
張り切って働きますよ、と仕事道具の刷毛を握ればシロガネ様は表情を緩めた。
「お前ならできる、タンポポ。頼むぞ」
シロガネ様の無条件の信頼はくすぐったいけれど、その信頼を裏切ってはいけない。はい、と気を引き締めてあたしは再度頷いた。
神様の部屋へ向かって、薄暗がりにランタンを持って入った。中のランタンに火を移してシロガネ様が作業に必要な明るさを用意してくれる。あたしはぽつぽつと明るくなっていく部屋で、改めて神様を眺めた。
チグサの国の神様は傘の形をしている。齢は四百を超え、長く、誰も覚えていないほど昔から長く、この国を見守ってくれている。元は誰かが作って、誰かに使われていただろう。大切に大切に扱われながら、誰かを雨から守り続けた。代替わりして今度はチグサの神様としてこの国を雨から守り続けてきた。チグサの国は実り多い土地だ。それも全部、この神様のおかげ。
それが今やボロボロでほとんど骨だけになり、朽ちてしまいそうだ。雨から人を、大地を守れなくなって今は四六時中ずっと雨が降っている。氾濫した川はまだ畑を飲み込み人々の生活を徐々に追い詰めているけれど、そのうちに人を飲み込むようになるかもしれない。
守っていたものから守りきれず死人が出ればその国の神様は、ひずみ神になる。
「そうならないように修繕させてくださいね、神様」
あたしはそっと膝をついて神様に語りかけた。物には口がないから声を発することはないけれど、語らないわけではない。見ただけで分かることはある。人の願いを受けて生まれ、人の願いを受けて何かから守り続けて、そうして神様として在ってくれたことは見れば判った。だからあたしはこれから精一杯、修繕を施すのだ。
「まずは少し触らせてね……っと。何処から修繕しよっかな。神様は何処を気にしてますか」
静かに手を差し出して神様に触れる。華奢な骨組みは主に竹で手持ち部分は別の木材のようだ。柔らかい素材のようだから藤かもしれない。親骨はまだ形を残しているけれど脆くなってきているようだ。貼っていた紙は見る影もなく、元がどのような柄だったのか、色だったのかさえ判別不能だった。恐らくこの傘として重要な部分がないから雨を防げないのだろうけれど、紙を貼るのは最後の作業だ。他のところも修繕してからとなるとそれだけ雨の期間が延びることになる。
どのくらいで紙の貼り替えに辿り着けるだろう。必要な神気の量は。残された時間は。
忙しなく頭の中で計算していたら、タンポポ、とシロガネ様に声をかけられて慌てて顔を上げた。ランタンの光にシロガネ様の星が散らばる綺麗な藍空の目が煌めく。すぐ近くにシロガネ様の顔があって驚いたあたしは声の出し方を忘れた。
「難しい顔をしていた。何か問題が?」
あぁいえ、とあたしはシロガネ様の目に惹きつけられたまま口を開いた。
「時間も神気もどのくらい必要かなって、計算してました」
「どのくらい要る」
「う……すみません、ちょっと触ってみないと何とも……。早速取り掛かってみても良いですか」
次に驚いた顔を見せたのはシロガネ様の方だった。何故驚かれたかが分からず、え、とあたしも目を丸くする。自分が表情を変えたことに気づいたのか、いや、とシロガネ様が視線を外した。長い銀の睫毛の下に綺麗な目が隠れる。それでやっとあたしもシロガネ様の顔から、というか瞳から、目を離せないでいたことを知った。
「そうだな、お前はアイテツの神を修繕した時もそうだった。その場で見て、その場で直した。他の修繕師は設計してから取り組んだがお前は違うんだな」
シロガネ様はどうしようもないものを見るような目をあたしに向けた。悪い印象は受けないけれど、シロガネ様が驚いたのはあたしのやり方になのだろう。
他の修繕師がどうやっているのか、偏屈ジジイ以外のやり方を見たことのないあたしはよく知らない。偏屈ジジイは天才だった。やり方が他の人とは違っていても仕方ないかもしれない。それを頼りに真似ていったあたしは其処までの才はない。でもこれ以外のやり方を知らない。もしかして修繕した物が黄色味を帯びてしまうのはその辺も関係するだろうか。結局、分からないままだけれど。
「物が自分の記憶を思い出せば形は自然と戻る……師匠はそう、言ってたので」
「ツヅミ殿か。お前はその弟子だったな。お前のやり方で良い。一度そうやってアイテツの神を直しているんだ。いつものようにやってみると良い」
いつも神様を直したことはないけれど、いつものやり方でとシロガネ様は言ってくれたんだろう。他のやり方も知らないし、はい、とあたしは頷いた。神様に向き直って観察を続ける。
「軸はちゃんとしてるけど、他の骨組みからだね。塗りも剥げてきているし其処から始めよっか」
クチナシさんが用意してくれたあたしの服に似ている作業着はあたしが着ていた物よりずっと上質だ。汚れるから別に新しくなくて良いのに、と言ったら神様の御前に出るのに下手な格好はさせられませんよ、と
懐から懐紙を出して一枚取り口に咥える。錆びる物ではないけれど、神様に息を吹きかけて良いはずはない。息吹は命を吹き込むもの。修繕師ではなく、作り手に許されている。
刷毛を手に静かに呼吸を整えて。あたしは神気を集め始めた。空気中に漂う神気を集めて刷毛に集中させる。触るよ、と心の中で話しかけて手を伸ばした。シロガネ様が緊張したような鋭い視線を向けているのを背中越しに感じる。神様に触るなんてそう許されることじゃない。神様が拒むことだって考えられる。でも神様はあたしの手を拒まなかった。ありがと、と目を細めてあたしは傘の軸に触れる。
紙を貼る親骨と軸とを結ぶ子骨は数が多い。放射線状に親骨へと広がり、軸に収束する。ただ並べただけではくっつくはずもないからそれを丈夫な糸でロクロと結ぶのが常だ。長らくの役目に紐もボロボロだった。それでも固く解けないようにと結ばれたそれは意地のようにも見える。あたしにはそれが、この神様の意地に思えた。
大丈夫、綺麗にしてあげる。
ひとつひとつ、丁寧に。まずは骨を染める工程をなぞった。本来なら何ヶ月もかけて多くの職人の手によって生まれる傘にもこの記憶はあるはずだ。思い出して、とあたしは願う。人と共にあるようにと生み出された作り手の最初の思い。人の手で大切に扱われ生まれてきたことを。
「──!」
物が自分の記憶を思い出せば元の姿も思い出す。形は自然と戻る。修繕師に求められるのは必要な神気のコントロールだ。物が本来の姿を思い出すために神気を注ぎ、細かい修繕を施す。繋ぐべきを繋ぎ、繕うべきを繕い、ほつれを縫い止める。そうして物が思い出した時、コントロールを求められる神気の量は、跳ね上がる。
石橋も、ペーパーランタンも、神気のコントロールは求められた。それでも制御できた。でも、今回は。
初回から求められる神気の量が桁違いだ。いきなり瞬間的に増えた神気の消費にあたしは息を詰める。此処で動揺して手元が狂えば刷毛は飛ばされあたしも意識を飛ばすだろう。必要な神気は物から求めてくる量だ。まだほんの少しの修繕なのにもうこんなに求められるなんて予想外だ。これがもし、四百年を過ごしてきた神様の必要とする神気の量ならば。
負けてたまるか。
あたしは気合を入れ、刷毛を握る手に力を込め直した。求められるなら応える。それが修繕師だ。物が欲しがるままに神気をあげられはしないけれど、手綱を渡すつもりは毛頭ない。この手がけた骨の染めが終われば一旦休憩を入れる。だからもう少し、頑張れタンポポ。
「ふぅ!」
「助力は必要なかったか」
咥えていた懐紙を外し、神様から少し距離を取って大きく呼吸を整えるあたしを見てシロガネ様が声をかけた。助力って、とあたしは首を傾げてシロガネ様を見上げる。あたしの後ろで腰を下ろし、一部始終を見守っていたらしいシロガネ様も小首を傾げた。
「アイテツの国の神の時は助力した。神気不足を起こし意識を飛ばしそうだったからな」
「あれって……シロガネ様のおかげだったんですか⁉︎」
火事場の何とやらで急に扱える神気の量が増えたかと思っていたけれど、そういうわけじゃなかったらしいことに思い至ってあたしは驚きの声をあげる。そうだ、とシロガネ様はあたしの大声に驚いたのか目をぱちくりとさせながらも肯いた。
「お前は神気の量は人より多いし扱い方も上手い。だが神の前では足りないことがあるようだ。俺の神気を分け与えたのでは馴染みのない神気に戸惑って手元が狂いかねないしあの時の俺は“ひずみ神”に呑まれ始め呪われかけていた。そんな神気をやることはできない。ただ、何にも染まっていない神気を集めるだけなら助けてやれると思ったんだ」
「……」
呆然としてしまってシロガネ様の言うことを理解するだけで精一杯だった。神気の扱いに関しては天才だと自負していたのに、上には上がいるらしい。あたしよりも広範囲の神気を集めることができるなんて。
「羨ましい!」
思わず両手で顔を覆って叫んでしまった。修繕師は神気の扱いが本当に重要なのだ。これが上手くいかないと修繕も上手くはいかない。
「羨ましい……?」
シロガネ様が驚いた声音であたしのセリフを繰り返した。羨ましいです、とあたしは両手から顔を上げて力強く頷く。シロガネ様は相変わらず目をぱちくりさせていた。
「シロガネ様、良い修繕師になれますよ! 保証します!」
言ってから、あ、別にシロガネ様は神官様だから修繕師になりたいわけじゃないんだった、と思い直す。訂正しようとしたらシロガネ様が堪えきれなかった様子で小さく吹き出して笑った。手の甲を口元に持っていって抑えるようにしているけれど、抑えきれていない。
「そうか、お前の保証なら心強いな。タンポポが俺の師匠になってくれるのか?」
「え、あたしなんてまだ三日前に修繕師にしてもらったばっかりなのに! 弟子を取るなんて早過ぎます!」
慌ててあたしが否定したらシロガネ様は、そうか、と穏やかに笑った。
「お前が師になっても良いと思ったら俺も修繕師を目指そうか」
「ぇえっ」
どうして、と驚くあたしを見て、シロガネ様は再び堪えきれない様子で笑った。
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