誘い

「木下先生、今日はあまり残業しないようにね」

午後の授業を終えて生徒にそう声をかけられてから何時間が経ったか。


教員というのは本当に忙しい。

今日も今日とて年齢も経歴もバラバラな30余名の生徒それぞれの回答用紙に目を通し、当人のやる気の有無に拘らず一つ一つ丁寧に赤字でコメントをつけていく。


30歳を過ぎて靴や衣服を作る専門学校を出たあとすぐ、後進育成のために学校が運営する店舗と教員、二足の草鞋を選んだのだが、残念ながら片方の草鞋はすっかりどこかへ置き忘れてしまった。


長い時間を経てペンを置き、ふと顔を上げると教員室には誰も残っていなかった。

それでも明日は実技実習だ、準備をしなければならない。


唐突にスマートフォンが鳴る。

どうせ同僚だろう、と普段なら一瞥して準備に取り掛かるが、その時はどうにも気になってディスプレイを見た。


【井垣】

ひどく懐かしい後輩の名前が表示されていて、思わず電話に出る。

「やあ、のっし(木下)さん、今週の土曜空いてる?久々にみんなで集まろうや!」

みんな?みんなって誰だ?

と首を傾げていると、蛇口を捻ったかのような言葉の洪水が耳に叩き込まれていく。

要約すればどうも井垣が所属していた団体の集まりになぜか私を呼ぶことにしたらしい。


以前、私は別の団体に所属しながら井垣の所属する団体へちょくちょく遊びには行っていたが、井垣の所属するグループからすれば、私は「なんか見たことある人」でしかなかった。

やつは時間が経ってからそういう人物を再び引き込むのがライフワークらしい。

やつにとってはひとり枯れゆくように生きていこうと決めていた私も例外ではなかったようだ。


その日の私はきっと疲れていたのだと思う。

普段なら断っていただろうに、ろくに考えもせず休みの予定を確認して、井垣の誘いを受けた。


その日の煙草は妙に旨かったのを覚えている。

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