九 警告

 深紅こきくれないの森に棲む妖狐たちにとって夕凪ゆうなぎは最も権威ある存在だった。現在の常世の国に彼女よりも長く生きている妖はそういない。様々な呪術や伝承の類に詳しい知恵ある雌の妖狐であった夕凪は、かつてはヌラリヒョンの奈津上、犬神の炎など名だたる常世の英傑たちに影響を与えた才媛として知られていたが、かなり昔に高齢を理由に上代の妖から引退し、近年その姿を公の場で見ることはなくなっていた。

 深紅の森の妖狐たちはその老女のことを、敬意を込めて大婆おおばあ様と呼ぶ。

 うら若い間壁まかべがその大婆様に会うのは今日が初めてだった。妖狐が支配する幻想と魅惑の森・深紅に行くことすら、彼にとってはこれまでに一度もない貴重な経験だ。だが間壁はそんなことにはあまり心惹かれていない。彼にとって今日がこれまでで最も感動的な日だと断言できるその理由は、犬神戒の存在にほかならない。

 戒は間壁の少し先を淀みない足取りで歩いている。その広い背中を見つめるたびに、間壁は己の心が喜びに沸き立つのがわかった。

 間壁にとって戒は、こうして共に務めるのも畏れ多いくらい憧れの存在だ。幼い頃から彼は犬神族という偉大な血筋の若き長たる戒の、厳しさと鋭さの中にあたたかみを秘めたまなこ、確かな統率力と決断力、そしてその恵まれた体躯を己の理想としてきた。あの戦の後に生まれた間壁は戒のいわゆる犬神時代を知らないが、知らないがゆえに想像は膨らみ憧れは増している。

 戒をもっとそばで見てみたい、深く関わってみたいという願望が思わぬ形で叶い、間壁は自分をここに遣わしてくれた親戚の聞馬もんまに、本人にはそんな優しい心遣いをしたつもりは全くないだろうが、心の中で何度も感謝した。

 上代の妖の一員である聞馬は間壁の遠い遠い親戚にあたる男だが、間壁とは年齢も心の距離も相当離れているため親族であるという実感はまるでない。

 間壁が聞馬のもとでただ面倒ごとを押しつけられるだけの雑用係じみた仕事を始めたのはつい最近のことだ。しかも上代の地位にこびへつらった彼の両親の意向で、である。しかしながらこういうことがあるのなら、間壁は何年でも何百年でも聞馬のところで喜んで働いてやろうという気になってくる。

 間壁は本当は戒の眷属になりたかったのだが、噂では戒は元いた眷属のうち一人だけを残して他全ての契約を解除しており、もう新しく誰かを眷属にするつもりはないのだそうだ。唯一残された幸運な眷属は落ち着いた所作の無口な女で、犬神でないのは確かだが、一体どの種の妖なのかは謎の女であるらしい。

 戦後生まれでまだあまりに若く、他者の妖力もそれほど感じ取れない間壁にとって、人の身をした妖の素性を当てるのは至難の業だった。

「なんであんなに夕凪様のこと嫌いなんですかね、聞馬様って」

 間壁は小走りに戒の隣に追いつきそう訊ねる。

「僕を代役にする時も物凄く嫌そうな顔して話してましたよ。職務放棄するくらい仲悪いんですか?あの二人って」

「いや、夕凪があいつを嫌っているだけだ。聞馬は顔を合わせるのが気まずいだけだろう」

 戒はちらりと間壁を見下ろしてから淡々と答えた。

「お前が聞馬の代理で来ることは伝えていないが、何か言われたら俺が対応する。あまり緊張するなよ」

「ありがとうございます。でも実はそこまで緊張してないんですよ」

「そうなのか?」

「はい。夕凪様は確かに凄い方かもしれないですけど、僕にはあんまりぴんとこないし、正直戒様がいるなら他はどうでもいいです」

 それから間壁は不意に、にやっと笑って戒を見上げた。

「まあ、あの姫顔さんを直に見れると思ったら少しだけ緊張しないこともないですけどね。きっと機嫌良いんじゃないですか?こんなに早くまた戒様に会えることになったもんだから」

 比較的短期間のうちに戒が二度も深紅の森を訪ねたとなると、様々な方面であることないこと厄介な噂がたつ。間壁は既に戒と姫顔に関する噂を何度か耳にしたことがあった。間壁の一族は皆、やたらと聴覚が良いのである。

 戒はやれやれと困ったように溜息を吐いた。

「また余計なことを聞いたな」

「姫顔さんってとても綺麗な方らしいですね。昔からそうだったんですか?」

「さぁな。妖狐は幾らでも好きな姿に化けられる」

「夕凪様も若い頃は相当な美狐だったとか聞きましたよ」

「遊びに来たんじゃないんだぞ」

「わかってます。これはれっきとした上代の妖の仕事ですよね。まあ僕はさぼった聞馬様の代理ですけど」

 間壁を見下ろした戒の呆れ顔には微かな笑みが含まれていた。それを見て間壁はもっと笑顔になった。

「思ったことを何でも口に出さない方がいい」

「よく言われます」

 遠回しに発言することが苦手で、加えて声の調子にあまり抑揚がなく能天気な話しぶりである間壁は大抵年上と話すとその態度を指摘され注意を受ける。だが彼にしてみればそれは普通のことだ、別に悪気があるわけでない。戒はそれを理解してくれているのだろう。

 間壁は尚も続けた。

「ねえ戒様」

「何だ」

「しないんですか。再婚」

 質問が耳に届くと戒はほんの一瞬だけ目を見張った。それから皮膚の下で筋肉が不意に強張ったように見え、端正な顔がすっと間壁から逸らされた。口から静かな吐息が漏れた。

「・・・・・・何でも口に出さない方がいいと言っただろう?」

 その後二人は神秘的な冷気が流れる深紅の森の中のとある場所に辿り着いた。そこには錆びれた館が周囲の自然に溶け込むようにして上手に建てられている。夕凪と、彼女の玄孫にあたる姫顔の棲み家だ。

 戒と間壁は姫顔に出迎えられた。姫顔は艶やかな金髪を細い背に流した、目鼻立ちがはっきりした白肌の美女だったが、派手な見た目からはあまり想像ができない細々した地道な解析や分析を得意としており、非上代ながら上代の妖の仕事にたびたび協力を要請されている大婆様譲りの才媛である。

 姫顔は戒の訪問をわざとらしい笑みとあざとい仕草で歓迎したが、慣れた様子の戒はそれには動じず、姫顔に夕凪のもとへ案内するようそっけなく告げた。姫顔は意外にもあっさり二人を夕凪のもとへ案内した。戒と姫顔はそれなりに古い仲だ。彼女の方も彼のこうした態度には慣れている。

「その子は聞馬の代わり?一緒に入るのかしら」

 木材でできた書斎の扉の前でくるりと振り返り、姫顔は美しく首を傾げて戒と間壁を交互に見やった。

「ああ」

「無神経な聞馬よりずっとましだけど、大婆様は何ておっしゃるかわからないわね」

 姫顔は間壁に悪戯っぽく笑みを投げて、戒に大きな目を移す。

「大婆様は本当はあなた一人で来てほしかったのよ。でもそれは難しいだろうから、あなたと上代の中でも絶対にうちに来そうにない聞馬を指名して、最近噂になってる八岐大蛇のことで話しておきたいことがあると本部宛てに私信を書いたの。そうすればあの男は大婆様に会いたくないからここには来ない、大婆様の狙い通りあなた一人に話ができるってわけ」

「連れがいて不都合なら、何故俺だけに宛てて私信を書かなかった?夕凪の私信はお前が言った通り上代宛てに届けられた。俺がここで夕凪と大蛇の件で何らかの話をすることは上代の間に周知されている」

 姫顔は声高に美しく笑った。

「あら、その方が良かったのかしら?そんなことしたらきっと皆、わたしとあなたが密会でもするんじゃないかと想像したでしょうね」

 戒は顔をしかめる。それを見た姫顔は満足げに微笑み、身体の向きを変えて書斎の戸をぐっと押し開いた。

「さ、どうぞ?でも忘れないで、大婆様はもうあまり長いこと起きていられないの。長話は身体にひびくわ」

「あぁ、わかった。・・・何かあればすぐに呼ぶ」

 戒は低い声で囁き、間壁を連れて書斎の中に足を踏み入れた。

 二人の背後で扉がそっと閉まる気配がした。

 その部屋は薄暗かった。設置された本棚の意味もなく、天高く積み重ねられた古い書物の山が床のあちらこちらにそびえたつ中、奥の壁に近い場所で一目見てかなりの高齢であるとわかるような顔をした老婆が一人、小さく丸い身体をすっぽりと大きめの布に包んでしみだらけの分厚い座布団に座していた。遠目からでは置物と見間違えてしまいそうだ。間壁がじっとその姿を見ていると急に瞼が持ち上がり、老女が骨と皮だけの片手を上げて二人に手招きした。

「視力が弱くてよう見えん。近う寄れ」

 その見た目からは意外なほどしっかり聞き取れる声だった。

 戒と間壁は言われた通りにその老婆、即ち妖狐の大長老大婆様こと夕凪のそばに何とか場所を見つけて腰を落とし、彼女と目線が合うようにした。

 夕凪は戒と間壁を交互に見やり、また見やり、また見てから、少しだけ笑った。

「ややこでも連れてきよったかと思ったわ。新しい眷属かえ?」

 長命すぎる夕凪からすれば間壁のような若者は昨日生まれたばかりの赤子も同然だ。

「聞馬の代理で来た間壁だ。歳は若いが器量はある。同席しても問題ないだろう、夕凪?」

「ええだろう、ええだろう。若いもんには場数を踏ませねばならん」

 夕凪はいそいそと膝を進め、できるだけ戒に近づいてから、真剣な眼差しで彼を見て単刀直入に言った。

「で、八岐大蛇が生きておったそうだな」

「まだ決まったわけじゃない」

 戒はやや苦い顔で夕凪を見る。

「ほぼ決まったようなもんだろが。恐ろしい事態になったのう。歴史はやはり回る。私らの命と同じように」

 そう言うと夕凪は、近くの山から古い書物を一冊手に取りゆっくりとその扉を開いた。

 間壁は興味津々といった目で夕凪の動きを追う。その隣で戒は固く険しい表情を浮かべている。

 文字に目を落とし、しばらくそれを見つめてから夕凪はすっとしわしわになった唇を開いた。

「『生き物が争い、多くが死に絶えた昔、万葉の神々は選ばれし者に長寿の秘術を授けた。選ばれし者の円環が再び冥界の入り口に近づいた時、万葉の神々はまた彼らに秘術を授けた。その儀式は八日続けられる。月の神に、火の神に、水の神に、木の神に、金の神に、土の神に、日の神に、同じ血を流す魂をそれぞれ生贄として捧げると、八日目に遂に大いなる神々の力は選ばれし者の眼前に現れる。選ばれし者は不老不死の宝を得た』」

「不老不死・・・」

 間壁が呟くと同時に夕凪は少しだけ目を上げる。

「戒、これが何かわかるか」

「・・・いや」

「これは、世にはあまり知られておらぬ真人まひとの古い伝説の一部だ」

 戒の顔がぐっと険しさを増す。

「真人って何ですか?」

 夕凪は目を動かして間壁を見た。

「まだ私とて生まれておらぬ遠い彼方の古に、真人という生き物がおったのだ。彼らは万葉というクニを築き長きにわたり繁栄したが、争いの果てに一対の雌雄を残して滅び、その子孫はさらに長き時をかけて二つの生き物に分かれた。分かれたそれは、いつの日か妖と人間と呼ばれるようになった」

 間壁は思わず口をあんぐりと開けて夕凪に見入った。

「妖と人間って・・・。え、じゃあその真人っていうのは僕らの祖先で、妖と人間はもとは同じ生き物だったってことなんですか?」

「そうだ。私にもお前たちにも人間たちにも、辿れば同じ真人の血が流れておる。それを証明しているのが、今の私らのこの姿。昔、この世に呪いがかけられたことは若いのも知っとるな?」

「人化の呪いのことですよね」

「そこいらの昆虫や鳥どもを見てみろ。今も姿が変わることなく生きておる者が大勢おるだろう。何故だかわかるかえ?」

「いやわかんないです」

「私らに流れる真人の血。それが人化の種であったのだ。真人の血を持たぬ者には人化の呪いは効かなかった。ゆえに虫や鳥ども、私らと系統が異なる生き物たちの姿はちっとも呪いの影響を受けてはおらん。外の人間どもはこの秘められし古代呪術を使用して、私らを人間、つまり自分たちと同化させる策を実行した。だがこの呪いは本来、外の人間どもが知っているはずがないものだった。私ら妖の手で隠されてきた禁忌の術に含まれたものなのだ。あの戦の頃、その内の幾つかが外の人間に漏洩してしまった」

 夕凪はこもった咳をした。

「・・・いかん、話が逸れた。で、先の伝説だが。戒よ、お前これを聞いて何か気がつかんか。大蛇の一件に当てはまっているとは思わんかえ?」

「・・・例えばどの部分だ。夕凪」

「この儀式に必要なのは八つの同じ血を流す魂だ。不老不死の宝を得るためにはそれを日ごと、神々に生贄として捧げねばならん。同じ血を流すという言葉の解釈は難しい。血がつながっているという意味で良いのか、それとも全く同じ血でなければならんのか。だが八岐大蛇は間違いなく同じ血が流れている結合多胎児であった、ゆえに生贄としての条件がわかりやすく備わっておる。全員が殺されたわけではないかもしれぬと想像することも容易い。実際に生贄として捧げられるのは魂七つ分で良いのだ。儀式は八日続くとあるが、八日目に生贄を捧げよとは書かれておらず、八つ目の魂をどう使うかは不明だからな。調査の時に見つかった大蛇の死骸は全員分ではなかったのだろ。それに生死が確定しないまま死亡とされた中に含まれたのは、あの七重とその妹だ。ますます怪しい・・・」

「よく知らない僕が言うのもあれですけど。ちょっとこじつけっぽくないですか、それ」

 間壁は悪気なく本音を声に出した。

 夕凪は笑いながら若い妖に目をやった。

「そうとも、普通はそう思う。だが私らのように実際にあの時代の空気を吸った者からすれば、あながちそうとも言い切れんのだ。のう、戒よ」

 夕凪は戒に顔を向けた。

「八岐大蛇の鱗が見つかって、お前と奈津上は同じことを危惧したのではないのかえ?神代こおしろと、奴を崇拝する者たちの勢力が、今再び力をつけようとしているのではないかと」

「神代は死んだ。奴に後継者はいない」

 戒の口調も眼差しもどことなく冷えきっていた。間壁は戒の方にちらと目を動かし、その横顔の強張りに思わず瞬きを忘れて戒を見つめる。

 戒は夕凪の言おうとしていることをある程度察しているようだ。そして彼女の考えに賛成できない・・・いや、賛成したくない立場であるらしい。

 夕凪と戒は何度か言葉を用いずに目で互いの意思を疎通した。

 それから夕凪はにやりと笑った。

「仮にでも良い、八岐大蛇の死が、外の人間の手によるものでなかったと考えてみろ。とんだ勘違いをしたのは私らの方だけではなかったはずだ。奴らはどこかで知りえた伝説の儀式が失敗したものと思い込み、大蛇を放置したに違いない。あの戦の混乱の中でのことだ、大蛇殺しも人間の仕業と誤解されても仕方がなかった。奴らは自分たちの悪行を隠し通すことができたのだ。ところがしかし儀式は成功していた。忘れ去られた大蛇は不老不死の宝を持つ者となって、今この世に現れあちこちで暴れておるんだ。不老不死の宝が何かというところは謎だが、きっとそれを手にした者は自身もまた不老不死になるに違いない」

「鱗のことはどう説明する。あの戦を生き残ったのなら、呪いで大蛇も人の姿をしているはずだろう。だが見つかったあいつの鱗は本来の姿の時のものだ。それに奈津上にも言ったが、どの死体からもあいつの気配はしなかった」

 言いながら戒は徐々に視線と声量を落としていき、不意にその口を固く閉ざした。そしてそのまま、何も言わない。何かを考え込んでいる様子で、じっとどこかを見つめている。夕凪も黙って何かを考えていた。間壁はそんな二人の様子をちらちらと伺った。

 やがて戒は重々しく呟いた。

「・・・この話を他の誰にもするな、夕凪。姫顔にも、鱗の話をするのは控えろと伝えてくれ」

「あの子は私の言うことは聞かんよ。父親のことが大好きだった子だ」

早蕨さわらびか。・・・・・・そういえば葬送に立ち会えずすまなかった」

「謝らんで良い。首なし死体の葬送など見てもつまらん」

 夕凪は切なげに笑って、書物をそっと閉じた。

「言っておくぞ、戒。用心しておけ。何かがお前の近くに忍び寄っている。弟に気をつけるのだ。・・・どの弟のことだかは、言わなくてもわかるな?」

 ほどなくして夕凪は疲労を訴えて姫顔を呼び、戒と間壁は揃って妖狐の館をあとにした。

 二人は自然と帰路を急いでいた。暗い森の影が頭上から覆いかぶさってくるような感覚がしている。黙ったまま素早く森を横切っていく戒とはぐれないよう間壁は必死にその後を追った。

 だが突然、彼は自分の肩に何か鋭い物が後ろからグサッと突き刺さったのを感じた。同時に焼けつくような痛みが肩から全身へぶわぁっと広がっていく。間壁は思わず声を上げ、肩を押さえながら地面に崩れ落ちるように倒れた。

 戒がこちらを振り向いた気配がした。だが間壁は顔を上げることができなかった。

「間壁」

 すぐそばで戒の切羽詰まった声が聞こえ、間壁の上体がぐっと持ち上がる。戒が間壁を抱き起こして支えたのだ。戒の心臓は間壁の耳元で早鐘を打っていた。

「抵抗なさるな。このような手段は、我が主も本意ではないのだ」

 ふと、戒以外の誰かの声が間壁の鼓膜を揺らす。

 間壁には聞き覚えがない太くて粗野な声だ。誰なのか気になったが、わざわざ首を動かして相手の顔を見るほどの余裕はなかった。

「・・・・・・自分の所業を理解しているんだな」

 顔を上げた戒が穏やかでない声で答える。口調からして、戒は相手と顔見知りのようだ。

「貴殿への無礼、当然ただでは済まぬこと承知の上だ、犬神殿。だがしかし我が心全ては主のため。血管に入った特殊な毒を解毒しなければ、その若者の命は数日と持つまい。貴殿が我らに従うならば、解毒の薬草を差し上げましょうぞ」

 戒は皮肉めいた笑みをこぼし、間壁を抱く腕にぐっと力を込めた。

「忠実な眷属だな」

「いかにも!主と眷属の絆とは全てを凌駕する魂の契りなり。この命、主のためならばいつでも喜んで捨てる覚悟」

 誇らしく声を張り上げた相手を、戒は冷たい目で睨んだ。

「望みは何だ」

「貴殿がしばし犬神の所領に戻ることなきよう、御上おかみは我が主に命ぜられたのだ。貴殿にはその若者の命を救う薬草と引き換えに我らの村に来てもらう。心配無用。御上の御用が済めば、二人共何事もなく解放されようぞ」

 それは嘘だ。襲撃者は己の正体を隠そうともしていない。堂々と、大胆にも素顔のままで戒と間壁に向かい合っている。戒はその襲撃者のことだけでなく主が誰であるかも知っているのだ。何事もなく解放される、そんなことがあるわけがなかった。

「御上とは誰のことだ。お前の主とは違う妖か」

「御上とは我が主の心を癒し苦しみを取り除いた尊いお方のことを指す。現世の現人神あらひとがみと呼ばれ崇められし、今代の神代こおしろ様のことだ」

 言葉を失った戒の首筋がぐっと浮き出て、喉仏が大きく動いた。

 刹那、その脳の片隅を遠い記憶の暗い影がザッとかすめていく。

 血が滴る牙を剥く、朱に染まった銀色の巨大な狼。

 散乱した灯籠の破片。

 とどめを刺した己の牙もまた、その切っ先から鮮血を滴らせていた・・・。

 戒は間壁を見下ろした。自分の腕の中で痛みに顔を歪め、苦しそうに息をしている彼を。戒が従わなければ間壁は死ぬ。だが従ったら、その間に大切な場所が危険にさらされることになる。

 黎。翔。伊桜。炎典。藍蘭。真楯。水瀬。御影屋。

 ・・・黎と翔。

 戒は唇を噛んだ。

 夕凪の警告が頭に浮かんだ。

「戒様」

 その時、戒の腕の中で間壁が精いっぱい力を込めて囁いた。

「僕のことはほっといてあいつ倒しちゃってください。このままじゃ二人とも殺されますよ」

「・・・・・心配するな間壁。天狗の里を脱出するのはそこまで難しいことじゃない」

 戒は間壁の揺れる目をじっと見つめ、彼にだけ聞こえるよう囁きを返した。そして再び顔を上げると、鋭く光る研ぎ澄まされた刃のような眼差しで相手を見た。

「・・・いいだろう。お前に従う。ただしすぐにでも間壁を解毒しなければ、お前もお前の主も命はないぞ。それを忘れるな」

 満足げに口角を上げる男の顔を戒は見つめ続けた。

 思い通りにはさせぬ。

 朽ち果てるにはまだ早い。

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