十 五戒:不飲酒戒


 翌日もそのまた翌日も、戒と黎は御影屋に帰ってこなかった。

 何となく皆の間にどんよりした空気が漂っていることを感じ取ってか、店を臨時休業にした伊桜は珍しく炎典と真楯に内輪の酒宴の許可を出した。酒宴には二人に誘われた翔と水瀬、そして御影屋に来たばかりの弥生も参加することとなり、五人は朝から真楯と水瀬の部屋に集い畳の上で円を描いていた。

 翔たち三人がまだ一杯目も飲み干さないでいるうちに、炎典と真楯は既に三本もの酒の瓶を空にしていた。そんな二人を横目に翔はぎこちなく杯の縁に口をつけ、飲み慣れない酒をちびちびと飲む。その隣で弥生は両手で杯を包み込むように持ったまま、じっと中の液体に疑うような目を落として動かない。弥生の隣の水瀬は酒豪二人と気を抜いた様子で話しながら、話の隙を見て時折口に含む程度に酒を嗜んでいた。

 障子を開け放した室内からは、白い鳥が飛び去る無限の青空が見えている。憎いほどの晴天だった。

「朝からこんなに酒を飲んでも誰にも怒られないとは、不思議だな真楯」

「あぁ。あとで伊桜に礼を言おう」

 酒飲み仲間と嬉しそうに笑い合ってから、真楯は翔と弥生の方に気遣いの顔を向けた。

「苦手だったら無理するなよ?残しても俺たちが飲むから」

「ありがとうございます。でもこれくらいの量だったら何とか飲めるかも」

 ぎこちなく微笑んで翔はぐっと杯を傾ける。真楯の顔に心配そうな笑みが浮かんだ。

 黎との気まずい別れの直後に感じた後悔は時間が経つにつれてますます翔の心をさいなみ、今も灰色のもやのようになって一面を覆っている。早く謝ってしまいたくてもそもそも黎が帰ってこないのでできない。こんなに長く帰ってこない理由もわからない。もしかしたら自分と顔を合わせたくないのかもしれない。そんなことまで考えた。

 黎のことだけでなく戒のことも不安だった。戒が行方不明になってからもう何日か経過しているが、彼の眷属である伊桜にも御影屋にもいまだ誰からも何の連絡もない。伊桜は表には出さずともかなり気が揉めるようだった。彼女は戒の行き先を知っていたが、既に戒はそこにはいないであろうことも理解しており、目標を発見できずに戻ってきた訓練された常世の伝書鳩を、どこか影のある瞳で何度も迎えては、その口から重い息を吐いている。

 弥生はじっと真楯を見つめ、ゆっくりと杯を口元に近づけていった。その縁に唇をあて少し傾ける。と、すぐに顔をしかめてひょいと床に杯を置いてしまった。

「やっぱり弥生には苦手な味だったか」

 真楯が苦笑した。

「弥生、お水飲む?」

 水瀬が微笑みながら弥生に水が入ったお椀をすすめる。

 数日前、かなり特殊な事情で御影屋に加わったばかりの弥生だが、水瀬の熱心な世話のおかげなのか本人の素質なのか、彼は何と僅か数日のうちに客前で披露できる程度に舞と楽器を習得してしまった。弥生の驚くべき急速な成長ぶりは、何だか暗い気分に満ちている御影屋の面々を少なからず勇気づけた。

 人見知りの弥生はまだ水瀬以外の面子とはほとんど打ち解けて話したことがなかったが、特段問題なくこうして皆と座っていられるくらいには、弥生は彼らに対してあまり警戒心を抱いてはいないようだった。

 翔はふと弥生のやや中性的な横顔を不思議な気持ちで眺めた。今の弥生は、少し前に殺すだの何だのと荒れた言葉で脅しをかけていた者と同じ相手だとはとても思えなかった。記憶がないというだけで、こんなにも人は変わってしまうのか。

 以前、伊桜が記憶を己の魂に近いものだと言っていたことを翔は思い出した。

 記憶・・・自分がこれまでに経験してきたこと。己の過去。それこそが誰かを形作っているとするなら、それを忘れてしまった時、あるいは思い出した時、自分は一体何者であると言えるのだろう。

 もし思い出せない過去を知って、自分がかつて誰であったかを知っても、自分は今の自分のままでいることが果たしてできるのだろうか。

 今と同じように考え、話し、笑い、大切な人たちに囲んでもらえる、犬神翔のままでいることはできるのだろうか。

 翔が物思いの底なし沼に片足を踏み入れそうになった時、突然外がピカッと鮮烈に光り、ほぼ同時に大地まで震えるような激しい雷鳴が轟いた。

「うおっ!何だ雷か!?」

 炎典が驚いて大声を上げた次の瞬間には、地面に激しくうちつける滝のような雨が降り出した。水瀬が慌てて立ち上がり、部屋が雨水に濡れてしまわないよう急いで窓代わりの障子を閉める。

「急に降ってきたね。あんなに晴れてたのに」

 水瀬が驚きに目を丸くして呟いた。炎典が大きく頷いた。

「まったくだ。可哀そうに藍蘭の奴、今朝はいい天気だとはしゃいで出かけて行ったのに。伊桜が一緒で助かったが、この調子じゃあ二人とも帰りは遅くなるだろうな」

「あぁ」

 相槌を打ってからふと真楯は怪訝な顔をした。それを見た炎典も怪訝な顔になって友を見つめる。

「どうした真楯」

「あぁ、いや。・・・まるであの時みたいな雷雨だなって思ってさ」

「あの時って?」

「お前と藍蘭が喧嘩した日だよ」

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