八 八重
一つの身体にまとめられて生まれてきた私たちに、母はそれぞれ名前を与えてくれた。
名前というものは恐ろしい力を持っている。ただの生命であったものが、名前を与えられた途端に一つの存在としての自我を持ち始める。
異なる生き物の集合体、本来であれば別々に生まれてくるはずの多胎児だった私たちは、肉体の大部分を共有してはいても決して同じ存在ではなく、それぞれが異なる価値観を持ち、各々に自分の意思というものがある八匹の大蛇だった。八岐大蛇という総称でひとまとめにされる時、私たちには謎の一体感が生まれ、八匹の個体は一体の妖となる。
私たちの縄張りは、内の人間が
その頃弥楽は戦乱の渦に呑まれていた。外の人間が結界を越えて常世の国に侵攻したのだ。だが当時私たちの危機感は薄く、彼らの殺し合いは他人事に過ぎなかった。私たちは愚かだった。生き物が生き物として存在するために必要な殺傷とはまるで異なる、残酷で醜い卑しい殺し合いが巻き起こるそのすぐそばで、呑気にいつもと変わらない生活を送り続けた。
そうしてあの日もいつものように、常日頃水分の補給場所としていた森の中のとある湖のほとりにやってきて、八つの口それぞれから湖の水をためらいなく口に含んだ。途端に強烈なめまいが私たちを襲った。意識を失った八つの頭が一つ、また一つと、地面にどしどし倒れていく。その水には得体のしれない悪意が混ぜられていた。私たちが予想もしていなかった、残忍な悪意だ。
目を覚ますとそこは真っ暗な洞窟だった。八つの首それぞれには洞窟の壁面につながった頑丈な枷がはめられていた。
不意に洞窟の入り口から明かりが見え、そこから黒い影がぞろぞろと足を踏み入れてきた。それはめらめら燃える松明と、黒々と冷たい武器の両方を手にした人間どもだった。
人間はまず一番上の兄の首元に近づいていった。それからそのうちの一人が、手にしていた斧を頭上にかかげ、一瞬の躊躇いもなく兄の首めがけ勢い良くそれを振り落とした。
ざっくりと嫌な音がして、辺り一面が切口から吹き出す血に染まった。人間はたった今斬り落としたばかりの兄の頭をいそいそと回収し、今度は首を斬られて絶命した兄の首から下の肉を、刃物を使って数人がかりでざくざく切り取っていった。奴らの手つきはまるで食用肉を解体しているかのように手慣れていた。私たちきょうだいとの結合部分を残し、ばらばらに切断された兄の肉片は洞窟の外へ淡々と持ち出されていった。残された私たちはどうすることもできないまま、血の匂いが充満する狂気じみた混乱と恐怖の闇に閉じ込められた。そこは怒り、憎しみ、悲しみ、どの言葉を用いても表現しきれない耐え難い苦痛に満ちた世界だ。
常世の大蛇族は一般的に、代謝作用によって一生のうち何度も定期的に脱皮を繰り返す。しかしながら私たちは特異であり、それぞれが一生に一度ほどしか脱皮をせず、その時期も自分たちの意思などでは決められない。だが、暗く閉ざされた洞窟内で精神に強烈な打撃を受けた私たちの身体は均衡を失い、体内に残った薬の影響もあってか、狭い空間の中で数匹が脱皮をした。姉の五重も洞窟の中でちょうど脱皮の時を迎えた。彼女がそれをし終えると、人間どもは待っていたとばかりに再び私たちの前に現れてその皮を持ち去っていった。五重はその時には殺されなかった。彼女が長兄と同じ目に遭ったのは、二重と三重と四重が同じように順番に殺されていった後のことだった。
その頃には洞窟内は地獄よりも酷い場所に成り果てていた。辺りは血の海だ。食糧の提供もなく、飢えに蝕まれ、身も心も全てが血にまみれていた。
ある日、六重が殺されて、とうとう残りは私と七重だけになった。
六重が片付けられた後、突然洞窟の扉がごうごうと音をたてて開き、首を持ち上げた私たちの前に投げ込まれてきたのは、土の
ああ、土の皇子。可哀そうな人間の子。この無垢な子もまた巻き込まれてしまったのだ、このあまりに残酷な殺戮の渦の中に。
藤紫の瞳の縁に溢れた涙はその透明な頬に流れて線を描く。
一人で生きていたくない。みんなのところに行きたい。
あの時、あの子が抱きかかえていたのは確か、斬り落とされた父親の生首だった。
あの時、あの子が助けを求めていた相手は私たちだった。
そしてあの時、私たちはその子を守ると誓った。命にかえてでも守ると誓ったはずだった。
でも、七重はその誓いを守らなかった。
次に目が覚めた時、隣で七重が死んでいた。カッと目を見開いた状態で、全身を引き裂かれて。
それだけでなく私の身体はおかしくなっていた。視力が落ち、物があまり見えなくなっている。身体をくねらそうとすると動きが硬い。それに変なものが生えている。人間の手足だ。おまけに声を出そうとするとうまく喉が動かせず、代わりに私の喉からは自分のものではない声が漏れた。それはまるであの子の声だった。はっとして見ると、あの子が纏っていた着物を着ていた。顔や身体をぺたぺたと触ると、それは人間の肌の感触だった。
ふと冷たい地面に目を落とすと、そこには七重の血で言葉が書かれていた。
それは弥楽の文字だった。私自身にその字を書いた覚えは全くない。私は混乱する頭を必死で動かし、状況を把握しようと試みた。
そして私は、あの術のことを思い出した。禁じられた呪術のことを。
禁忌の術を使われた者がどうなるのかまでは知らなかった。だが、人化されていなければ、あの時私が目にしていたのはおそらく蛇と人間の肉体をかけ合わせた歪な怪物の姿だったはずだ。
七重の遺体はみるみる腐っていった。洞窟の扉はその後開くことはなく、気づけば何日何年何十年何百年何千年と飲み食いをしない日々が続いた。けれども私たちはそこに存在していた。死ななかった。だが生きているとも言えない。私たちはいつの間にか、廻り続ける生と死の円環から外れた者になっていた。生きてもいなければ死んでもいない、最早生まれ変わることもない、狭間の者に。
これが禁じられた術の末路かと思った。しかしそれだけではなかった。暗い洞窟の中で長い間抑えつけられてきた私たちの行き場のない感情は、時が経つにつれ恐ろしい魔物へと変化し、私たちの身も心も
私たちの身体の中からは一本の
とうとう洞窟の封印が破られた時、復讐に囚われた心はその他の感情を失っていた。目には最早モノを視る力など残されていなかった。私たちは片手に剣を握りしめ、洞窟の外へと足を踏み出した。人間に復讐するために。
私は気がつかなかった。復讐した相手が皆妖であったことには、一度も。きょうだいたちと同じように首を落とし、切り刻んで血まみれにしてやった人間どもの正体が、本当は仲間であったことには、一度も。
だが、今となってはわからない。気がつかなかったのか、気がつけなかったのか、それとも気がつきたくなかったのか。
ただ一つ確かなのは、私がこの手で、常世の国の尊い命を奪った、殺したのだ、ということだけ。
****
「・・・と、まあ大体、こういうことらしいんだけれどね。八重ちゃんが言うには」
どこからか小鳥の囀りが聞こえ、まだ白みが残った青空を鳥の影がすうっと横切っていった。
黎は口を閉じると、隣の伊桜に目を落としてその反応を待った。
伊桜はじっと考え込むように黙っている。細い眉がしわを刻んでいた。
「どう解釈すべきか悩む話だね。あの子自身には、嘘をついているつもりはないんだろう?」
「うん。彼女はなるべくたくさん自分が経験したことを話そうと努力してくれたと思うよ」
「それでもその話にはおかしな部分がいくつもあるように感じるね」
「多分八重ちゃんの話は、半分は正しくて半分は正しくないんだよ。でも、出来事を正確に客観的な視点から話せる者なんてこの世には一人も存在しないと思わない?」
「まぁ、それもそうだね・・・」
八重の身体に眠り薬が効き始めてから、黎はこっそり部屋を出て、自室で翔たちを伴い雑務を片付けている最中だった伊桜を呼び出していた。二人が立ち話をしている廊下の先には、八重が眠る応接の間がある。ここにいればその出入口を確認しながら話をすることができる。
伊桜は黎を見上げて静かに問うた。
「それで、どうするんだ。ひとまず何も言わないでおくのかい?」
「ただでさえあんな風に混乱しているのに、さらに事態を悪化させるようなことはしたくないからね。実際に何があったかはこの後うちの灯籠を使えばはっきりすることだし。彼女の話を否定するつもりはないよ。それにしても思ったより複雑だなぁ・・・。みんなにどうやって話そうか。八重ちゃんじゃない方にも是非話を聞きたいところだけれど、あまり時間も残っていないしね。そういえば、兄さんと連絡とれた?」
「いや。まだだ」
「そう。いてくれれば助かったんだけどな」
「・・・・・・黎。本当に
「うん」
「あの子の望み、全て叶えてあげるつもりなのかい」
「全てというわけにはいかないけれど、なるべく彼女の希望に沿った形にはするつもりだよ」
「お前さんは・・・あの子を殺してしまうんだね」
一瞬の間をおいて、黎は答えた。
「ある意味では、そうだね」
「本当のことを教えてあげないのかい」
「本当のことって?」
「・・・・・いいや、何でもないよ。それがお前さんの信念みたいなものなんだろ」
****
応接の間で何が行われたのかは定かではないが、結局事態は伊桜が言った通りになった。
太陽が空の頂に輝く頃になってようやく黎は、その時ちょうど伊桜の指示で気もそぞろに書庫整理に従事していた翔たちを空き部屋に呼び出し、事を説明してくれた。
といってもその説明は説明とは言えないほど曖昧なものだった。おまけに黎の隣には翔たちにとって思いがけない人物が立っていた。
その人はあの青年だった。しかし、不可思議なことに、雰囲気がまるで違う。これまでの過激な言動はどこへ消えたのやら、恐ろしさの欠片もない儚げで薄幸な青年がそこにいたのである。藤紫の瞳を不安そうに揺らし、身体の前で両手をぎゅっと握りしめ、うつむいて翔たちの方を見ようともしない。
翔や炎典たちは困惑を表情に出して黎と彼を交互に見つめた。伊桜だけは表情が変わらなかった。彼女には大抵翔たちにはわからないことがわかっている。だが彼女もまた、詳細を説明しようとはしないのだった。
「紹介するよ、この子は
目元に疲れを滲ませつつ黎はいつもと変わらぬ声の調子で語っている。だが翔たちの理解は追いつかなかった。それもそのはずで、黎には翔たちが理解し納得できる筋の通った詳細な話を提供する気などさらさらなく、弥生の面倒を見ることだって一応皆に訊ねる形を取ってはいるものの、たとえ翔たちが反対してもそれを変える気など全くないのである。
長く彼と共にいれば誰でも薄々とだって察することができるようになる。黎はいつだって物事の詳細を語りたがらなかった。翔の過去にまつわる質問を幾度もひらひらとはぐらかしてきたように、彼は翔たちが何かを知ることを良しとしていない。
炎典と藍蘭は黎の眷属としての立場があるゆえか、すんなりとまではいかないものの彼の提案には賛成するようだった。翔と真楯と水瀬も不安を心に残しつつ、首を縦に振らないわけにはいかなかった。
「言いづらい話だけれど、実は弥生も八重ちゃんも、家族を外の人間に殺されているんだ。特に八重ちゃんときょうだいは、利用していた湖に薬物をまかれて気を失わされ拉致された。それから洞窟に監禁されて、順番に殺されていったんだよ」
話が一段落し、黎に頼まれた伊桜が無言のままの弥生を彼用の部屋に連れていった後で黎がこんなことを言うと何となく空気が変わった。
特に反応したのは水瀬だった。それを聞いた瞬間に彼の両目は驚きをあらわにぐっと見開かれた。細めの身体の動きが数秒の間止まる。それとほぼ同時に真楯が心配そうな顔で水瀬の方を一瞥した。
水瀬はしばらく焦点の定まらない目をしていたが、ふっと意を決したように目を上げて黎の方へ片足を踏み出した。
「黎さん。弥生の世話役、おれにやらせてもらえませんか」
「あぁほんとに?良かった、俺も水瀬が適任じゃないかなぁって思ってたんだ」
水瀬の申し出に満足げに微笑んだ黎を見て、翔の頭には一瞬奇妙な考えがよぎった。
もしかして黎は、水瀬がそう言ってくれるとわかっていてこの話をしたのではないか。
自分のことだけでなく、黎のことも戒のことも、伊桜や水瀬や真楯や炎典や藍蘭のことも、実際はよく知らないのだという事実が、不意に翔の目の前に浮かび上がってくる。
その時、伊桜が皆のもとへ舞い戻ってきた。弥生はおらず彼女のみだ。廊下を駆けてきたせいか珍しく息が乱れていた。
「黎。表玄関に客が来ている」
表情だけでなく声までもが何やら険しい。
「誰?」
「
伊桜は苦虫を嚙み潰したような顔で答えた。
黎の反応は薄かった。
「へえ。審問官殿のお出ましだね。誰が呼んだのかな」
「とにかく玄関へ来ておくれ。烏丸はいいが、季任の奴がうるさいんだよ」
「わかった、今行くよ。真楯、水瀬。悪いけど弥生のことお願いできる?翔と炎典と藍蘭はひとまず部屋に戻っていて」
素早く指示を出した黎が伊桜と共に玄関へ、真楯と水瀬が言われた通りに弥生がいる部屋へ向かった後、残る三人はその顔を見合わせた。
「翔。俺には考えていることがある」
炎典が大げさに腕を組みながら言った。
「俺たちはここでおとなしく待っているより、黎様と伊桜の後をこっそりついていき二人の様子を観察するべきだ。そう思わないか?」
「こっそりって、そんなことしたらきっとあとで怒られるよ」
「そんなことで怯んでどうする!俺たちはずっと蚊帳の外にいるんだぞ。たまにはそれくらいしたっていいだろ。な、藍蘭」
「うん。あたしも気になる。それに烏丸さまは盗み見たりしても怒らないから大丈夫よ。季任っていう人はよくわからないけど」
「決まりだな。行くぞ二人とも。俺に続け!」
「ちょ、ちょっと炎典っ」
翔の静止も空しく、炎典はずかずか廊下を進んでいく。藍蘭が悪戯っぽく笑って翔の手を取り、恋人の後をてくてくとついていった。
翔は小さく息を吐いた。こうなっては仕方がない、心のどこかで実はそうしたがっている自分を認めて、素直に同行するしかないだろう。
三人が廊下の角から玄関口を覗くと、黎と伊桜に向かい合って、むっすりと不機嫌そうな顔をした初老の男と、包帯の下で申し訳なさそうに笑みを浮かべている烏丸が並んで立っているのが見えた。
三人ともそれほど身を乗り出したつもりはなかったが、翔たちの存在はすぐに烏丸に察知されてしまった。烏丸と目が合った時翔は思わずぎょっとして首を引っ込めたが、烏丸はほんの僅かに目元を緩めただけで、何も指摘せずに黎に視線を戻してくれた。藍蘭がほらね、というように翔と炎典の顔を交互に自慢げに見つめる。
「突然すまないね。実は、奈津外君から連絡があったもので」
「ここに殺人犯が来ているそうだな。無駄話をしている暇はない。さっさと差し出してもらおうか」
柔らかな口調の烏丸と違って、季任は語気が鋭くのっけから威圧的な態度だった。
「何の話かわからないな」
「とぼける気か。かくまうならお前も同罪だぞ」
「奈津外から連絡があったって言うけれど、外の世界にいる彼が何のために、うちに殺人犯が訪ねてきたなんて話を君たちにしたのかな」
「ふん、そんなことを知るか。奈津外の眷属が常世の森で殺害現場を目撃し、さらにその犯人に遭遇した。その犯人は不気味な若い男で人間を探している。そして人間と犬神黎に会いに御影屋に向かった、と言っている。そう奴が知らせてきたから今ここに来ているんだ。そうでなければわざわざ来ると思うか?こんな、人間の匂いが染み込んだ劣化した場所になど・・・」
「へえ。それじゃあその若い男は、きっとまだうちには到着していないんだね。でももしその殺人犯とやらが来ても、その時は君たちの上役に対応してもらうから大丈夫。遠いところ手間をかけさせて悪いけれど、帰ってもらっていいよ」
「犬神戒は留守だと聞いたが?あの男が戻るまで野放しにしておくつもりか。くだらん冗談を並べるな。中を調べさせてもらうぞ」
「君にその権利はないよ、季任」
「何だと?俺は上代の審問官だぞ」
「審問官に犬神の縄張りに許可なく立入る権利なんてない。君ほどの妖なら、そんなこと当然言われなくてもわかっているとばかり思っていたんだけれど、どうやら違ったみたいだね。うちに足を踏み入れたいなら、戒に決闘を申し込んで犬神の長にでもなったらどうかな。それなら誰の許可も無しに思う存分この中を探して回れるよ。まぁ、君が兄さんに勝てるとは思えないけど」
たちまち怒りに満ちた強烈な視線が黎に注がれた。
「自分が俺に舐めた口をきける立場だとでも思っているのか。非上代の分際で」
「上代の妖であられる季任様こそ、この御影屋で好き勝手できる立場だとでも?」
「この、青二才が・・・っ!」
顔を真っ赤にした季任の肩を横から烏丸がそっと叩く。
「まあまあ、落ち着こう」
「俺たちがこうなったのは全部お前のせいなんだぞ。忘れたのか」
「季任。そこまでにしろ」
「そもそもお前がいなければこんなことにはならなかったんだ。お前がいなければ、俺たちの仲間は死なずに済んだ」
「やめるんだ。ほら、一度外の空気を吸って・・・」
「黙れ!お前だってそう思ってるだろう烏丸!お前の娘が殺されたのはこの犬神のせいなんだぞ!」
「いい加減にしないか!これ以上うちの黎を侮辱するなら上代といえどもただじゃおかないよ!」
伊桜がここまで怒鳴るのを翔はこれまで一度だって見たことはなかった。炎典と藍蘭も同じだ。覗き見ていた三人は動揺して、どうしたら良いのかわからずにその場でおろおろと互いに顔を見合わせる。
辺りに充満するひりついた空気が穏やかな呼吸を妨げた。
大きく上下する伊桜の細い肩。微動だにしない黎の後ろ姿。憤怒の形相で黎を睨みつける季任。酷く険しい目をした烏丸・・・。
「すっきりしたなら帰ってくれると嬉しいな」
聞こえてくる黎の声に変わったところは一切なかった。ここからでは見ることができないが、彼の表情もきっと何ら変化していないのだろう。それが余計に季任を怒らせたのは間違いない。だが今度は烏丸が季任の暴走を許さなかった。烏丸は季任が再び何か怒鳴り出す前に素早く己の口を開き彼を制した。
「本当に申し訳ない。こんなつもりではなかったんだ。僕らはまた改めて出直させてもらうよ。でも、何かあったらすぐにでも連絡をしてくれ。それじゃあ失礼」
烏丸に腕を力強く引かれた季任は怒りに満ちた顔をしたままだったが、烏丸を振りほどけずに渋々玄関から去っていった。
二人の姿が見えなくなるよりずっと前に伊桜が玄関の戸をぴしゃりと閉じた。
そこで急に黎が振り返る。まだひょっこり頭を出した状態でいた三人とばっちり目を合わせ、黎はいつものように小首を傾げて微笑んだ。
「全く、烏丸さんに気を遣わせたら駄目だよ、三人とも」
どうやら覗き見ていたことは黎にも気づかれていたらしい。炎典と藍蘭は揃って気まずい顔をして黎の前に進み出たが、黎は笑ったままだった。
その笑顔はいつもとちっとも変わらない。怖いくらいに、何を思っているのかわからない。
「あの・・・黎兄さん」
炎典と藍蘭が伊桜に小言を言われながら連れていかれ、御影屋が再び静かになったところで、何も言わずに閉じられた戸を再び開け静かに玄関から出ていこうとする兄の後ろ姿に、翔は思わず声をかけた。
「うん。何?」
振りむいた顔には、いつも通りの笑みが浮かんでいる。
「あの・・・大丈夫ですか?」
「それは翔の方だよ。ごめんね、びっくりしたでしょう」
「いえ、僕は大丈夫です。でもあの、さっきのって」
「季任は昔からああいう感じなんだよ。先祖が犬神に縄張り争いで負けたのをいまだに気にしているんだ」
黎は笑ってそこで話を切り、顔を戻してまた歩き出そうとする。
その時翔は、今までで一番と言ってもいいくらいの勇気を出して黎を呼び止めた。
「黎兄さん、待ってください。どこへ行くんですか?」
「え?あぁ、ちょっと奈津外のところにね。詳しい事情でも聞きにいこうかなぁって」
「僕も一緒に行きます」
「駄目だよ。外の世界は危険だから」
「それは外の世界に、兄さんが僕に隠しておきたい色々なことがあるからじゃないんですか」
黎はゆっくりと振り向き、真顔で翔を見た。
「どういう意味?」
「・・・奈津上様から聞いたんです。僕は、奈津上様の孫だって。母の名は奈津前、奈津上様の末の娘で、外の世界で死んだとも聞きました」
「・・・・・・・・・」
「それに、産霊の山に行った時に泊まった宿のお婆さんが、僕には何か兄さんの呪いがかかっていると教えてくれました。兄さんは・・・知っていたはずですよね。こういうこと全部。どうして、何も教えてくれなかったんですか」
「・・・翔。今は慌ただしいから、落ち着いた時にでもゆっくり話さない?」
「・・・っ・・・どうして・・・どうしていつもそうやってはぐらかすんですか?僕のことだけじゃないです。さっきの、弥生さんや、兄さん自身のことだって、僕たちにほとんど教えてくれないのは何故なんですか。炎典の言っていた通りです。僕たちはいつだって蚊帳の外で、大事なことは全部兄さんたちだけの秘密にされています。誤解だったらすみません、でもそんな気がしてならないんです・・・」
「誤解じゃないよ。君たちは蚊帳の外にいる」
突然勢いを削がれたように翔は口をつぐみ、そこで一気に勇気がしぼんで、そこから何も言えなくなってしまった。
「・・・でも、そろそろ中に入れてあげなくちゃね」
黎は瞬きもせずに翔を見つめていた。本心を覆い隠した妖艶な微笑が口元に浮かんだ。しかしその時翔には、黎の赤い瞳の奥に広がる何も見えない底知れぬ闇、その中に流星のように刹那に現れて、瞬く間に消えてしまった何かの姿が見えたような気がした。
「戻ったら、翔が知りたいことを何でも話してあげるよ。約束する。だから今は何も言わずに見送って。じゃあ・・・また後でね」
黎は静かに被衣の裾を翻して、御影屋を出て行った。
どうして自分は兄にあんなに悲しそうな目をさせてしまったのだろう。
翔は一人、誰もいない玄関口に立ち尽くした。心には後味の悪さだけが残った。
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