七 秘密の断片
「記憶を灯す・・・」
翔はまるで呪いの言葉でも唱えるかのように呟いた。
「犬神の影灯籠は照明器具として作られた品ではない。常世の未来と長命な者たちのために、彼らの記憶の一部の保存と保管の場所として太古の犬神が生み出した道具なんだよ。私たちは生きてきた過程を頭に記憶できるが、覚えていられる量には限りがあるだろう。けれど、己の脳の代わりに犬神の灯籠に記憶を移しておけば、灯籠を回すだけでいつでもそれを思い出すことができる。見返すことができるという方が近いかもしれないね。何も入っていない空の灯籠には何をしても明かりは灯らないが、記憶が移されている灯籠はひとりでに明かりを灯すことができる。そして灯籠が回り始めると、そこに移されていた記憶が影絵の代わりに映し出されるんだ。客たちは灯籠が灯した臨場感と新鮮味に溢れる記憶の映像をいつでも確認することができた。そうやって常世は過去の真実と叡智の数々をできるだけ正確に後世に伝えてきたんだよ。生の記憶を残すことでね」
「そんなに凄い物を黎さまが作ってるの?」
藍蘭が大きな瞳を輝かせて伊桜を見つめた。
「今はもう新規で製作はしていないよ。うちに残っているのは昔作っておいた余りだ」
「どうやって記憶を移すの?移した記憶って、その記憶の持ち主じゃなくても見れる?」
「影灯籠の扱い方なんていうのは、代々犬神の中の特に術に優れた者にのみ継承されてきた秘伝の技だ。今では黎以外には誰も知らない。ただ、灯籠が回れば誰でもそこに込められた記憶を見ることはできるよ。回し方を知っているのも黎だけだけれどね」
「凄いっ!あたしも使ってみたかったー。ね、炎典」
「藍蘭じゃあ若すぎないか?そりゃ、あることないこと忘れたくなくても忘れちまう爺さん婆さんには嬉しい商品だと思うがな」
「年齢制限なんてないさ。例えばお前さんが秘密にしている事柄だって、灯籠に移しておけるんだよ」
伊桜がうっすら口元に笑みを浮かべ、揶揄うような視線を炎典に向けた。
「な、秘密って何だ。そんなもんないぞ」
「ふっ。本当かねえ」
「ほっ、本当だ伊桜!この大妖怪炎典様には断じて、やましいことなど何にも、何一つ」
「伊桜はやましいことなんて言ってないぞ」
真楯に笑われた炎典はぎょっとした顔をして、言い訳をもごもご呟きながら居心地悪そうに倉庫のさらに奥へと引っ込んだ。
「あっ。これ、もしかして地図かな」
山積みにされた古い紙束を一枚一枚上から手に取っていた翔は、不意に手の動きを止めた。翔が手にした黄ばみの酷い古紙には、判読不能な文字と図形のようなものが墨で一面に描かれている。
真楯が翔のそばに軽い足取りでやってきて手元を覗き込んだ。
「見づらいが、地図みたいだな。俺もあの機械の中から一枚見つけたんだが、これとそれじゃだいぶ違う地形に見える」
「時代がかなり違うのかな」
「かもな。とりあえず、伊桜に渡すか」
それからさらに水瀬が三枚、翔と藍蘭と炎典が一枚ずつ、真楯が一枚、伊桜が三枚、同じ常世を描いたはずがかなり描かれ方が異なった複数の地図やその断片を見つけた。伊桜はそれら十二枚の地図らしきもの全てをひとまとめにして手に持ち、そそくさと倉庫の戸口をくぐってから振り返った。
「これで十分だね。それじゃあ皆、本館に戻るよ」
「はーい」
伊桜の指示に素直に従い、まず藍蘭がトコトコ駆けるように、次に水瀬と真楯がのんびり倉庫を出ていく。
「おい、待ってくれ。俺を残して行くなよ」
炎典が倉庫の奥からがらくたをかき分け慌てて抜け出してきた。その弾みで山積みになっていた物たちの間で雪崩が起き、金属や紙類が大袈裟な音をたてて崩れていく。
「おっと、危ねえ」
「炎典、大丈夫?」
翔は炎典を振り返って声をかけ、その流れで倉庫の奥に目をやった。
すると、見間違えだろうか。雪崩が起きてよく見えるようになった倉庫の最奥、暗い壁の向こう側が、何やらぼんやりと光っている・・・ように見える。
翔は数回目を瞬かせた。それから一度強く目を瞑り、また同じ箇所を見てみる。
その光はまだあった。広い範囲ではなく、ここから見える壁の中心より下辺りでぼうっと、壁の厚みのせいかかなりぼやけているが、光のようなものがかすかに揺れている。
(倉庫に灯りはないはずなのに・・・・・・)
翔はしばらくその不思議な光を凝視していた。まるで心を奪われたかのように、じっと。
「翔。行くよ」
ハッとして、翔は振り返った。伊桜が真顔でこちらを見つめている。炎典は伸びをして天井に腕をぶつけ、藍蘭がそれを見て笑っている。真楯と水瀬は隣同士で何かを話している。
翔は伊桜の目を見つめ、その感情の読み取れない視線に促されて、慌てて倉庫から出た。
全員が退出すると、伊桜がすぐにその重厚な扉をガッシャンと閉じてしまった。そしてしっかりと鍵をかけ直した。
全員揃って廊下を歩き出してからも、翔はまだあの光のことを考えていた。だが少しして、自分がとても馬鹿げたことを考えていたとわかり、翔は最後尾を歩きながら一人半笑いを漏らした。
どうして壁の向こうだなんて思ったりしたんだろう。壁に向こう側なんてあるわけがない、だってそれは、壁なのだから。
***
黎は客前に敷かれた座布団、先ほどまで伊桜が座っていた場所にさらりと流れるような動作で正座し、青年の姿をした旧知の大蛇と向かい合わせになった。
「うちの影灯籠がお目当てと言うからには、きっと君は記憶の一部をここに移しておきたくて来たんだよね。ご存知の通りこの影灯籠は、記憶の保存と保管用に作られた物だから」
言いながら黎は自身の右側に置かれた灯籠に目を落とし、その表面をさっと撫でていく。
「まだ予備が残っていて良かった。もううちでは灯籠商売やってないんだよ。今回は特別。八重ちゃんと俺の仲だからね」
「お前の予想は半分は正しい。だが半分は正しくない」
たった今飲み干したばかりの眠り薬と痛み止めの小瓶をカタと床に置き、八重は真顔で黎を見やった。若い男の顔と声には、実際の彼女の面影はない。
向かい合った二人はどちらも見た目は人間の男だ。だがこの二人の本質は常世の国の犬神と、八岐大蛇・・・正確にはその一部。両者ともれっきとした古の妖である。
「移したいのは私の記憶じゃない。この子の記憶だ。そして一部ではない。全てだ」
「ふぅん。それは大変。軽く数百年分はあるだろうね」
「数百年など一瞬と変わらぬではないか。それに、お前の力なら問題ないだろう。今もかつてのような力を保っているのならの話だが」
八重は顎を僅かに上げて黎を見た。
黎は軽く肩を上げてみせる。
「どうかな。長いこと扱ってないから腕がだいぶ鈍っているかもしれない」
「余計な謙遜はいらぬ。・・・それにしても、やはりお前のその姿は見慣れない。面妖な容姿になったものだな・・・。呪いのことを聞いていなければ、お前が犬神黎だとは絶対に信じなかった」
「君の方が俺よりずっと複雑で興味深い姿をしているよ。人化のせいで随分わかりづらくなってしまったみたいだけれど」
突然弾かれたように八重は押し黙った。その目は驚きに見開かれ、渇いた唇が僅かに開く。
黎は微笑んでいる。その彼の赤い瞳をじっと見つめ、やがて八重は蚊の鳴くような声を口から漏らした。
「・・・お前には、私たちのことが既にわかっているんだな」
「そうでもないよ。まあ、確信していることもあるけれど、ほとんどはあくまでも推測かな」
「・・・この子の怪我が浅葉のせいだとわかったのもか?」
「そう」
「私が八重だとわかったのも、推測か」
「そうだよ。昔の調査では八岐大蛇は死んだと結論が出されたけれど、君が確実に死んだ証拠はどこにもなかったから」
「調査・・・・・・なるほど。それで私だと考えたわけだな。八岐大蛇を名乗る者の中で、今も常世に存在していそうなのはこの八重だと」
「そう。でも、君が八重ちゃんだと思った一番の理由は、その子かな」
「・・・この子?」
八重は訝しげな顔をして、無意識に己の身体の胸元に手を当てた。
「自分を犠牲にしてまで見知らぬ誰かを助けようとするほどの優しい心の持ち主は、君しかいないだろうなって思ったんだよ。たとえ相手が宿敵だったとしてもね」
「・・・っ・・・」
黎は僅かに身を乗り出し、八重の瞳を覗き込むようにして見た。
赤い瞳が、きらりと妖しく光った。
「君たちは
八重は口を固く引き結び、しばらくの間沈黙していた。
長い沈黙だった。まるでこの部屋だけが外界と切り離され、終わりのない深くて暗い地の底にゆっくりと落ちていくような、静寂。だがこの程度では二人とも何も感じない。彼らはもっと深い闇の存在を知っているのだ。そして今も尚、その闇に囚われている。地の底よりも恐ろしい、闇。
やがて八重はそっと瞼を閉じると、おもむろに息を吐く。それから目を開き、諦めたように口を開いた。
「・・・・・・条件があったな。事の経緯を話せ、問いには正直に答えろと」
「うん」
「ならば語ろう。私たちの話を。訊かれていないことまでも、できるだけ全て。ただし、代わりに私の望みを全て必ず叶えると約束してほしい。実はお前に頼みたいのは、影灯籠を使うことだけではない」
黎は眉を上げて先を促した。
八重は真顔のまま続けた。その目は揺らぐことがなかった。
「お前の言った通り私たちはキメラだ。だからお前のその類稀なる力でこの禁忌の術を解き、私たちを分離してほしい。それから灯籠の力で生まれ変わったこの子をここで、お前のもとで生かしてやってほしい。そして私を上代の審問官どもに差し出してほしい。奴らに伝えてくれ。常世の禁忌を犯し、数多の妖たちを惨殺した罪でこの私、八岐大蛇のうちの一匹八重に死刑よりも重い罰を与えろと」
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