六 秘密
一人で生きていたくない、とその子は言った。
ここにいたくない。みんなのところに行きたい、と。
嗚咽の止まらぬその身を包み込み、私たちは暗闇の中で目を合わせて誓い合った。
この子を守ってやらねばならない。命にかえてでも、必ず。
そう信じ込むことは、もしかしたらあの時の私たちにとって、たった一つの救いであったのかもしれなかった。
あの時、他に選択肢は残されていなかった。
こうするしかなかったのだ。
けれどその決断は、間違っていた。
「・・・遅かったな」
部屋と廊下を区切った襖障子が僅かに音を立てて開くと、青年は顔を上げてもの悲しげに笑った。
「じきに夜が明ける。・・・私の言葉が現実になる時が近づいている」
「悪いけどそんなことはさせないよ。君にも、その子にもね」
廊下の明かりを背にして、犬神黎は青年を見下ろし不敵に微笑んだ。その身が僅かに脇にずらされると、黎の背後、その足下に置かれた四角形の物体が青年の目に映る。たちまち藤紫の瞳はぐっと見開かれ、細い喉元は大きく動いた。
それは一見すると何の変哲もない、灯籠流しによく用いられているような形をした灯籠だった。だがそれは、彼らにとっては非常に特別な代物だ。
「お望みの品を持ってきたよ。ただし、これを使うにはいくつか条件がある。君たちが事の経緯を話してくれること。こちらの問いには正直に答えてくれること。それから、この眠り薬と痛み止めを今すぐ飲んでくれること。どう?そんなに悪い条件じゃないと思うんだけれど」
「構わない。それでお前が私の望みを引き受けてくれるのならば。だが、眠り薬と痛み止めは何のためにいる?残念だが今や私たちには俗世の薬は効かない」
「
ぐっと身を強張らせて、青年は黎を見つめた。
黎はやわらかく微笑んだ。
「その子、怪我しているんでしょう?術を使って見えないようにしてあるみたいだけれど、伊桜の見立て通り随分と重傷だね。反撃したのは浅葉かな」
「・・・人の形などしていなければ。力の秀でた上代の妖になど、近づけさせたりはしなかったのに」
青年は苦々しげに呟き、それからそっと左腕を自身の腹に回す。
黎は目線を伊桜に移した。
「伊桜、これ中に運んでくれる?」
黎の合図で、既に座布団から腰を浮かせていた伊桜がすっくと膝を伸ばし、黎の足下に置かれた灯籠を運びにかかった。灯籠自体はそんなに重量があるわけではない。重いのはその存在だ。
数秒前まで自分が座っていた座布団の右隣に、伊桜は灯籠をそっと置いた。黎は彼女に向かって微笑んだ。
「ありがとう。みんなのことお願いできる?それと、できれば兄さんを呼び戻しておいてくれると嬉しいな。伝書鳩を飛ばしてもまるで反応がないから」
「わかった。・・・気をつけるんだよ、黎」
「うん。よろしくね」
伊桜が出ていくと、黎は後ろ手にそっと戸を閉めた。
「さて。商談を始めようか?
「伊桜。黎は何だって?」
「まさか黎様一人であの化け物に対峙する気か?俺にそばに控えさせてくれ!」
「炎典邪魔しちゃだめ!伊桜、あたしたち八つ裂きにされちゃうの?朝が来ても生きていられる?」
「ちょっとみんなうるさいから部屋から離れて。特に炎典、そんなに大声出さないでよ」
「伊桜さん、どうなったんですか。黎兄さんは・・・」
部屋から伊桜が出てくるや、御影屋の面々は皆一目散に彼女に詰め寄り、思い思いにまくしたてた。黎と翔が少し前に帰宅してから今ここまでの間で、皆十分に状況を説明される機会に恵まれていなかったのだ。一体何が起きているのやらで誰もが困惑している。
不安そうな彼ら一人一人に伊桜はゆっくりと目を配った。それから黙ったまま、そわそわした様子の一同を黎たちがいる応接の間から離れた廊下の先に落ち着いて引き連れていった。冷静な彼女はそこでようやく静かに口を開いた。
「心配いらないよ、黎の対策は万全だ。私たちは殺されたりしない。太陽が空高く昇る頃には全てが解決しているだろうさ」
「本当か?でも、あのいかれた奴はどうするんだ。本当に黎様の知り合いなのか?」
「ああ。彼女はかつて八岐大蛇と呼ばれていた古の妖だよ」
「彼女・・・?てっきり男だと思ってたけど、女性?」
水瀬が目を丸くする。
「そう思うのも無理はない。確かにあのお客は人間の男の容姿をしているし、声も男性的だからね。でも黎と知り合いなのは彼の方じゃなくて、彼女なのさ」
「どういうことなの?あたしよくわからない」
「俺もだ。何を言ってるのかさっぱりわからん」
「今はわからなくていいんだよ。落ち着いたらきっと黎が説明してくれるだろうからね。それより皆、お客のことはひとまず黎に任せて手伝ってほしいことがあるんだ。今から別館の倉庫へ行って一緒に探し物をしておくれ。さあさ、行くよ。ついておいで」
伊桜は誰にも断る隙を与えなかった。次の瞬間には彼女は淡々と、手近にあった提灯を引っ下げて歩き始めていた。若者たちはその後をまるで親鳥を追いかける雛のように素直についていった。
朝が近いとはいえ、まだまだ常世の夜闇は強い。見知った場所と言えど明かりが灯されていない暗闇の中では、夜行性の猫又ゆえ夜目が効く藍蘭以外は皆、伊桜の持つ提灯の橙色の火を頼りにして先を進まなければならなかった。
伊桜は迷うことなく御影屋別館の地下へとやってきた。そしてそこのさらに暗くて長い廊下を静かに進んでいった。この先にある、皆が倉庫と呼んでいる別館地下に広がる一室は、主に黎が所蔵している珍妙で多種多様な品々がひとまずの保管場所として押し込まれている場所であった。倉庫の鍵を所持しているのは戒と黎だけだが、御影屋を留守にすることが多い戒は鍵をいつも伊桜に預けたままにしている。
「ねえ、そういえばあの人が言ってた影灯籠って何のこと?」
炎典の片腕に自分の腕を絡ませた藍蘭が歩きながら伊桜の背中に訊ねた。
「照明具の一種だよ。回り灯籠とも言うね。明かりを灯すと中の仕掛けが回転して、影絵のように模様が映し出されるのさ。今度実物を見てみたらいい。どんな物だか、もっと具体的に思い描けるだろうからね」
「へえ。面白そう」
「なんでそんなもの欲しがってるんだ?うちは娯楽施設なんだぞ。灯籠なんてあるわけがない。そもそも黎様の灯籠って何だ。何かの比喩か?」
理解できん、といったふうに炎典が口をへの字に曲げた。
伊桜は背後を一瞥した。それから闇の中、正面に突然ぬっと姿を現した横開きの鉄扉の前でぴたりと立ち止まると、ほんの少し膝を曲げるようにして、懐から取り出した金属製の鍵を鍵穴にすっと差し込んだ。
「比喩じゃない。そのままの意味だ。・・・ずっと前の話だよ。あくまでも裏家業で表立って商売はしていなかったんだけれどね。
がちゃり、と音がして、伊桜は両腕を使って扉をぐっと左右に押し開いていった。扉は轟轟と重そうな音をたてて開き、突き当たりでガタンッと一際大きな音を鳴らして止まった。煙たい埃がもわもわと宙を舞う。
伊桜は提灯を頭上に掲げた。照らされた室内は大小様々な物で溢れかえっていた。ほとんどは見たこともない形状の物だ。よく目を凝らすと床に積み重ねられた分厚い書物、誰の物なのか不明な衣類、明らかながらくたもあった。
こうして倉庫の中をちゃんと見るのは、翔も真楯も水瀬も炎典も藍蘭も初めてだ。
「灯籠屋だった?犬神には長く仕えてきたつもりだったが、そんなの一度も聞いたことがないな」
「あたしも。ねえ翔、戒さまや黎さまから聞いたことある?」
「ううん。僕も今初めて知ったよ」
「裏家業だと言っただろう?このことは一部の者しか知らなかったんだよ」
一同は倉庫の中にそろそろと足を踏み入れたが、広範囲を探すのに明かりが足りていないのは明白だった。そもそも倉庫内には明かりを灯せそうな照明具の類が見当たらない。伊桜曰く、万が一火災が起きてしまわないようにと、ずっと以前に黎が行燈やその類を全て取り外したり持ち出してしまったのだという。すかさず藍蘭が明かりを取りに廊下を駆けていった。
「探してもらいたいのは古地図だよ。お前さんたちはあまり見慣れていないだろうから、とにかく地図のような物を見つけたらこちらに持ってきておくれ」
藍蘭が提灯をいくつか手にして戻ってきてから、一同は倉庫内に散らばって、宝の山の中に紛れているであろう地図をがさごそと探し始めた。
「でも、こう言っちゃ悪いが、灯籠なんてここまで大袈裟な騒ぎ起こさないと手に入らないほど希少な物だったか?何か強い思い入れがあるのかもしれないが、流石にここまですることないだろ」
不意に真楯が誰に言うともなしに口から疑問を漏らす。
床に片膝をつき刺々しい風変わりな機械をいじっている真楯の他に、炎典と藍蘭も既に地図そっちのけで、己の好奇心が導くままに気になる宝物をいじっていた。真面目に地図を探しているのは翔と水瀬と伊桜だけだ。
真楯の発言を聞きつけて、倉庫の奥の方から炎典が声を張り上げた。
「俺も同感だ!」
「ただの灯籠じゃないんだよ、犬神の影灯籠は」
伊桜が静かに小さく息を吐いて、手元の書物の頁をめくる。
「・・・あれは特殊な代物でね。長い時を生きねばならない常世の者たちには大層重宝されていた品だった。あれは火を点けても決して光ることはない。・・・あの灯籠に灯すことができるのは、己の魂に近いものだけ」
「魂に近いもの?」
翔は呟いた。
伊桜はそっと目を上げて、静かに言った。
「記憶だよ」
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