三 上代の妖

 深い山霧に覆われた産霊むすひの四の山の頂には、白虎の館と名がついた壮麗な邸がある。

 張り巡らされた天空回廊から風光明媚の景色が一望できるその館は古くから主に上代の妖たちの会合の場として利用されていたが、あの戦が終わってからというものこの場所が利用される頻度は減少し、今では引退したヌラリヒョンの長老・奈津上なつのかみが名ばかりの隠居生活を送るための場所の一つと化していた。

 そのため、大広間にこれだけの者が集まるのはかなり久方ぶりのことであった。しかもその全員が名のある古くからの妖、しかも上代の妖の称号を持つ者なのである。

 上代の妖の称号を得るためには、ある程度長く生きているだけでは不十分だ。認められるためには何かしらの実績を残さなければならない。常世のために力を尽くし、妖たちの中心となって責務を果たせる者こそ敬われるべき存在なのである。それなりに年齢を重ねていても、功績が何もなかったり、他者に誇れぬ行いをした者は上代にはなれなかった。

 彼らを召集した白虎の館の主人たる奈津上は背が湾曲し、額も目元も口元も首も手もどこもかしこも皺くちゃの老人の姿をした大妖怪であったが、頭と言葉はいまだ衰え知らずでしっかりしており、動きはまるで猫のように素早かった。

 そんな奈津上が常日頃穏やかであたたかい笑みを浮かべている優しい顔は、自身が呼び寄せた面々と円を描くようにして大広間に座している今は心なしか険しい。だがもっと険しいのは、奈津上のすぐ隣に正座している、黒に近い焦茶色の髪の隙間で、耳朶につけた小粒程度の銀色の装身具が光った、顔立ちの良い壮年の男の表情だった。

 彼こそは、犬神戒だ。常世にその名を知らぬ者はいない偉大な妖・犬神族の長にして、上代の妖の主軸を担う武勇と叡智に秀でた犬神である。長命かつ崇高な上代の妖たちの中でも特に際立った存在が彼だった。

 輝く銀の毛並みをした巨大な狼の妖である犬神は常世の古来種の一つであり、古くから世界の平定と秩序を司る法と武の守り神とされていた。とりわけ戒はこれまでに常世が経験してきた数々の危機的状況において数えきれないほど重要な役割を果たしてきた男で、上代の妖のみならず常世の者たちにとって、とても蔑ろにはできない存在であった。

 奈津上と戒は過去に家族ぐるみの付き合いもあった深い仲だった。二人に限らずここにいるほぼ全員が太古から現在に至るまでの常世を知るいにしえの世代であり、お互いにその素性を熟知している旧知の間柄だ。しかしながら全員共、正確に言えば常世に生きる妖の全てが、今では一人残らず人間の姿をしていた。

 本来の姿とは似ても似つかぬ人の身におさまり、大広間の固い床に揃って腰を下ろした彼らの表情も、やはり戒と奈津上同様に険しい。

 高名な妖たちの会合は少し前から始まっていた。今日の議題は一つだった。

「それは誠なのか、奈津上。浅葉が・・・浅葉が殺されたというのは」

 震える声で砂の岩陰いわかげが問うた。砂の岩陰は浅葉とは古き良き友であり、最近では互いの曾孫同士の婚姻によって遠い親戚となっていた。

 彼の細長い目を悲しげに見つめ、奈津上はゆっくりと首を縦に動かした。

「・・・本当じゃ。儂らの友の遺体は今朝、金切かなぎり峠で発見された。これまでに見つかった数々の遺体と同様に、喉を切り裂かれ四肢を切断された、血塗れの状態でな」

 上代の妖の多くは流血を伴う惨劇を見聞きしたり実際に経験することにだいぶ慣れてしまっている。それでもよく知った相手の悲劇はいつでも身にこたえるものだった。

 奈津上の苦しげな発言に砂の岩陰の他にも数人が思わず嗚咽を漏らし、表情を歪めて絶句している。

「・・・ご隠居の呼び出しときて、それなりのことは覚悟していましたが、まさか浅葉さんが殺されたとは思いませんでしたよ」

 袈裟をかけた衣の下で全身に包帯を巻きつけた烏丸からすまの隠れた口元がもごもごと動き、唯一肌が露出している目元部分がぐっと苦痛に歪んだ。その隣では十二単を纏う風雷ふうらいの大嬢おおいらつめと烏帽子を被った牛麻呂がぶるぶる身を震わせながら互いに慰め合っている。

「つい先日、ひ孫さんの話をしたばかりなのに・・・」

「確か浅葉は一昨日から孫家族と夕暮れの里へ出かけていたはずでは?彼らは無事なのでしょうか、奈津上様」

「・・・いいや。無念じゃが、彼らも皆浅葉と同じ運命を辿った」

 大広間に呻きや嘆きの声が広がった。ついには誰かがどこかで啜り泣きを始めた。

 戒は顔つきは変わらず険しいままに、あまり驚くこともなく話を聞いていた。浅葉が被害に遭うことは想像していなかったが、想定できないことではなかった。

 何者かによる連続惨殺事件は最近になってかなり短い間隔で頻繁に起きるようになっていた。

 恐らく最初に殺されたと思われる妖狐から、浅葉が殺される直前に見つかった青鬼に至るまでの一連の惨殺の犠牲者全ての遺体を、戒は直接その目で確認し現場を調査した。その結果わかったことは、被害にあった者たちやその場所に共通点などないのではないかということだった。

 手口は毎回ほぼ同じだ。喉をすっぱり無慈悲に掻っ切り手足を付け根から切断するか、容赦無く手足を切断した後に喉を掻っ切るか、単純に首を切断して終わるか、そのどれかといったところである。しかし、標的となった者の種族や年齢、襲われた場所は毎回驚くほどにばらばらで、常世の妖であるという点以外に彼らには全く共通点が存在しない。そのため犯行は無差別だと考えられていた。つまりは誰でも被害者となってしまうことがありえたのだ。今回初めて上代の妖に含まれる名手が殺されてしまったが、ずっと以前からその可能性はあり続けていた。此度の浅葉の場合も他の被害者と同様に、残忍な輩に運悪く遭遇してしまったに違いない。

 生前の浅葉は犬神族を深く尊敬しており、彼らが常世の国と妖たちを守ってくれるのだと固く信じていた。だが戒が三兄弟になってから彼の心は遠のいた。浅葉は御影屋に顔を見せなくなり、戒とも黎とも言葉を交わさなくなった。そして今朝、物言わぬ存在になって見つかった。

 死によって、犬神と浅葉とはとうとう和解することなく終わった。

 ふと戒の脳裏に浮かんだ浅葉の瞳は、最初戒やその家族に対する深い尊敬と敬愛の眼差しに満ち、それが徐々に激しい憎悪と敵意に染まった目へと変わっていった。

 戒はゆっくりと瞼を閉じ、すぐにまた開いた。浅葉の残像は次第に薄れ、やがて完全に消えた。

「あぁ、なんて酷いこと。一体どこの輩が浅葉殿をそんな目に・・・」

 尼姿の郎女草いらつめくさが口元を手で覆いながら言った。それに被さるようにして季任ときとうが不意に腰を浮かせて声を張り上げる。

「そんなの人間に決まっているだろう。あらゆる命を惨殺という形で奪うのは、八百万の生き物の中でも人間だけだ」

「何を馬鹿なことを。常世にはもう人間はいないのだぞ。そのことはお前だってよく知っているはずじゃないか、季任」

「兄者の言うとおりだ。常世に人間族はもういない。おまけに外の世界との往来は妖力で厳しく制限されている。人間どもがこちらにやって来れるはずはない」

 大柄な卵頭の双子、オモテとウラの兄弟に続けざまに否定された季任は少し機嫌を損ねたようだった。

 季任が反論する前に海月海月かいげつくらげがひょいと片手を挙げる。

「だとしたら、浅葉様を殺したのは常世の妖の誰かということですか。この中に一人もしくは複数人、残忍な殺人犯がいると?」

「そんな、仲間を無惨に殺す妖なんているはずがないわ」

「そうですとも。きっと浅葉殿は、人間に操られた誰かに殺されてしまったのよ」

 ふと気まずい空気が大広間に流れたのを察して、郎女草は俯いて口をつぐんだ。

「いいや、犯人は妖に間違いないぜ。ねえさん」

 気まずい流れを断ち切ったのは聞馬もんまの一言だったが、それも束の間、次に彼は酷く残酷な響きを含んで歪に笑った。

「だって俺たちはみんな人間になっちまったんだから、人間みたいに残忍な輩がいても何も不思議じゃあないだろう、なあ?」

 大広間のほぼ全員の顔に緊張や不快感、怒りと悲しみ、ありとあらゆる負の感情が一斉に浮かび上がった。

「黙れ聞馬」

 季任が声に激しい怒気を含んで低く唸った。

 全員の視線が聞馬に向けられた。

 けれども彼は怖気づくことなくせせら笑っている。

「何だよ、ここまで来たらもう認めるしかないだろう?俺たちの生活にはもうすっかり人間どもの色が浸透しちまってるんだよ。今じゃ俺たちは普通に自分たちを一人二人と数えるし、友人恋人人生なんて言葉を使ったりもしてるだろ。酒に遊戯に花見に芝居、色んな娯楽を楽しむことだってするし、意味のない物事に意味があるなんて考えたりもするんだ。まるで人間のようにな。つまりあの呪いは、外見だけに作用したわけじゃなかったってことさ。俺たちはもう身も心も全部人間になっちまってるんだよ。だったら当然、人間のように残忍な方法で誰かの命を奪う奴がいてもおかしくはないわけだ。そうだろ?なあ、どうして誰も認めようとしないんだ?まだ呪いが解けると希望を持ってる奴がいるっていうなら大いに結構だぜ。だけど皆もう、さすがに気づいてきている頃なんじゃないのか?俺たちは元に戻れやしないのさ。一生この人の姿のままなんだ。そしてそのうち本分を忘れてすっかり人間になり変わる。そこまでが奴らの政策だったのさ」

 誰もが重く口を閉ざしていた。

 奈津上でさえ押し黙っている。

 ここにいる誰もが本来の姿でない理由。

 妖であるのに、全員が人の姿をしている理由。

 それは、他でもないあの戦の時に、常世にかけられたある恐ろしい呪いのせいなのだった。


 昔、常世の国では清澄で豊かな原始の大自然が八百万やおよろずの妖たちに不死に近い長命と極端に遅い老化、そして妖力の恩恵を与え、彼らと、彼らより圧倒的に短く儚い命を持つものの想像と創造に長けていたうちの人間と呼ばれる人族が、互いに縄張りを侵すことなく平和に共生していた。

 ところがある時、別の世界から外の人間と呼ばれる人間たちが常世の国に侵攻してきた。

 瞬く間に外の人間、内の人間、そして妖の間で激しい戦闘が始まった。

『あの戦』の始まりである。

 やがて外の人間は内の人間を一人残らず滅ぼして彼らの土地に自らの国を建て、死闘の果てに妖たちをも降伏させて常世を征服した。

 そして彼らは自分たちとは異形の妖たちを統治する術として、人化の呪いなるものを常世全体にかけた。

 それは外の人間による常世の人化政策のうちの一つだった。呪いにより、生きている全ての妖はたちまち人間の姿へと変えられてしまった。それだけでなく呪いは常世の森や川や海、土や空気にまでじっとりと染み込んで、その後に生まれてくる妖たちをも一人残らず人の身に変えた。

 外の人間たちはそうして人の形をとらせることで妖を支配し、妖の世界に人の文化を取り入れさせ、常世の資源を摂り尽くし自然を破壊し尽くし、決して短くはない暗黒の時代を常世の国にもたらしたが、最後は結局外の人間同士の内乱で自滅した。生き残った人間は妖の反撃で死んだ者と元の世界に逃げ帰った者とに分かれ、常世は妖の手に戻って戦は終わった。

 けれど戦が終わっても、壊された自然は元に戻ることはなく、血を流す傷口は塞がらず、世界と各々にかけられた人化の呪いを解くことはできなかった。

 かくして常世の国には人間も、妖の姿をした妖ももういない。人の姿をした妖のみが存在するに至る。


「外見は人であれ、我らに流れるのは誠の妖の血だ。我らがそれを忘れぬ限り、人に成り下がることなどありえない」

 砂の岩陰が聞馬に鋭い睨みをきかせながら、喉の奥から声を搾り出した。

「だが、この常世に聞馬が言うような人間もどきがいるのは事実だ。我らはその殺人犯を見つけ出し、何としても裁きを受けさせねばならない。亡き妖たちのためにも」

 それから少しして、ようやく重い会合はお開きになった。

 帰り際、戒は奈津上に声をかけられて老人の書斎に招かれた。そこは白虎の館のなかで最も雑多な物が溢れた場所だった。

 奈津上に溜め癖はない。ここは奈津上がその長すぎる人生の中で手に入れてきた思い出の品のほぼ全てを、この館のこの部屋だけに詰め込んだ結果必然的に物で溢れてしまっただけに過ぎない。一族が暮らしていた屋敷を片付け、そこにあった手放しづらい家具や品々を一つ残らずこの書斎へ移してきたのだ。だが奈津上の心の中にはこれ以上に、容易に捨てることのできない思い出がたくさん詰まっていた。奈津上にとって、犬神戒はその中の一つであった。

「して、最近どうじゃ御影屋は。皆息災かの?」

「ええ。相変わらず賑やかですよ」

 二人は書斎で、奈津上は座布団の上に、戒は畳に直接両膝をつき踵を立てた状態のまま正座して向かい合って座った。

「それは良い。皆明るく楽しいのが一番じゃからのう。では、翔も元気なのだな?あの子には何も変わりはないか」

「・・・ええ。よく働いてくれています」

 戒の表情にほんの僅かな影がさした。だが、奈津上は気がつかなかった。

「結構じゃ結構じゃ。またすぐにでも御影屋に遊びに行こうと思っているのでな、その時は宜しく頼む。ところで戒、例の事件のことじゃが・・・」

 奈津上は一段と声をひそめ、若い犬神の方へ僅かに身を乗り出す。

「おぬしはあれを、上代の妖の仕業と見ておるか?」

「今は何とも。ですが、もし今日集った者の中に一連の惨殺の主犯がいるとしても、手を下しているのは別の誰かです」

「うむ。それは儂も同じ考えじゃ。わざわざ自らあのような行動に出る輩はあの賢い中にはおらん」

「奈津上。貴方には何か他に用件があったのでは」

 戒は顔を引き締めたまま低い声で静かに問う。

「何故そう思うのじゃ、戒よ」

「ご存知のように犯行は無差別です。貴方も俺も以前から、機会が悪ければ上代の妖もそのうち被害に遭うであろうことはわかりきっていた。ましてやあいつは貴方にとってそれほど深い関係の妖ではなかったはずです。ゆえに浅葉が殺されたことは、貴方が取り乱して会合を開く理由としてはかなり弱い」

 奈津上は苦笑した。

「弱いか。儂はどうにもおぬしには何も誤魔化せぬようじゃ。いかにも、此度の召集は浅葉の死を告げるためだけのものではなかった。じゃが、儂は臆病者でのぅ。結局皆の前でこれを取り出すことができんかった」

 そう言って奈津上は衣の裾からそっと布の包みを取り出して、片手に乗せて布をゆっくりと開いていき、中に包まれているものを戒に見せた。

 それは巨大な蛇の鱗の一部だった。

「浅葉の遺体のそばに落ちていたものじゃ。おぬしにはこれが誰のものだかわかるだろう」

「・・・八岐大蛇」

 戒は驚きをもってその名を呟いた。

 八岐大蛇はかつて常世に生きていた、八つの頭と尾を持つ一体の大蛇の妖だった。は一般的な大蛇の妖怪の系統からある日突然変異で誕生したもので、その個体以外にそのような生物は自然には存在していない。大蛇の八つある頭にはそれぞれに意識があり、一つの身体をもととしてそこに八つの魂が共存し一体の妖を形成している、それが八岐大蛇であった。

 だが八岐大蛇はあの戦の頃、大蛇に不老不死の力があると信じていた外の人間によって捕らえられ八匹とも順番に殺されたはずだった。亡骸の多くは既に人間の手によって処理され確認することはできなくなっていたが、戦後大蛇が監禁されていた洞窟付近で見つかった彼らの死体の一部は戒と黎の犬神兄弟によって葬られ、抜け殻の皮は黎が御影屋の倉庫で保管していた。

「この鱗から奴の年齢を測定できるかと深紅こきくれないの森におる姫顔ひめがおにこっそり頼んだところ、推定四百歳と結果が返ってきた。じゃが、驚くべきことは他にもある。姫顔によるとこの鱗は死体から剥がれ落ちたものではなく、生体のものだというのじゃ」

「・・・八岐大蛇はあの戦の頃で既に四百歳に近かったはずです」

「いかにも」

「それに、これまでに大蛇族の他の突然変異体の話を耳にしたことはない」

「その通りじゃな」

「以前の調査で我々は彼らは死んだと結論を出している。つまり、その結果はあり得ない。姫顔は検査結果を誤ったのでは」

「ではおぬしから直接彼女にそれを言ってくれるかの。儂はちょっと勇気が出なくて何も言えんかったのじゃ。妖狐は怒らせると怖いんじゃよう」

「結果に関わらず、これまでどの遺体からも八岐大蛇の気配がしたことはありません」

「うむ。それは確かじゃろう。もししていれば、おぬしが気がつかぬはずがないからのう。じゃが、もしかすると儂らの想像がつかない何かが起きているのかもしれぬぞ戒よ。鱗の件にどう説明をつけるべきかはまだわからぬが、八岐大蛇はどこかで生きていて、何かに利用されておるのかもしれん。ここは神秘の力に満ちた常世の国じゃ。可能性が全くないとも言えぬじゃろう。のう?」

 八岐大蛇がどんな目に遭ったのかを知っていた戒には、彼らが今も生きているとは到底考えられなかった。だがどうやら奈津上は八岐大蛇が今回の事件に関係していると思っているらしい。加えて実行役の大蛇を指図しているのは上代の妖のうちの誰かだとも想像しているようだ。

 戒は疲労を感じ始めていた身体に鞭打つことを決めた。これから深紅の森に行くのであれば、今夜は帰路にはつけないだろう。伊桜を先に帰した先刻の判断は正解だった。

「・・・この後、姫顔と話します」

「おお、そうしてくれるかの。くれぐれも妖狐の力に惑わされるでないぞ。彼女はおぬしを好いておるようじゃから」

「その鱗はどうするつもりですか。しばらく貴方の手元に?」

「そうじゃな。そのつもりじゃ」

「俺が保管を」

 真顔で片手を差し出した戒に、奈津上は不意に目を細めて笑った。

「おぬしの考えはわかっとるよ。大丈夫じゃ、戒。これを持っておるからといって儂は襲われたりはせん。それに万が一襲撃があったとしても、自分一人で太刀打ちできぬほどのおいぼれには幸いまだなっとらんのじゃ」

「貴方の妖力を軽く見てはいません、奈津上。ただ、この手の品の扱いは黎が最適だと思っただけです」

「まあ、確かにそうじゃが。御影屋に置くと翔が巻き込まれないかが心配での。できるだけ危険な目には遭わせとうない」

「奈津上。翔は俺と黎が守っています。・・・貴方が気にかける必要はありません」

 本当に、その必要はないのだ。

 戒は己の心の鈍い痛みが表情に出ないよう、顔の筋肉に少しだけ力を入れた。

「うむ。そうじゃのう。・・・誤解せんでくれ、儂はおぬしらを心から信じておるし、翔のことは全ておぬしらに任せておる。これは意識していなくてもごく自然に生まれてしまう心配というやつなんじゃよ」

「ええ・・・承知しています」

 結局奈津上は戒に、当面の間鱗は自身の手元に置いたままにすることを承諾させた。

 書斎を出た戒の肌に、冷たい空気がまとわりつく。

 戒は静かに息を吐いた。奈津上は以前にも増して翔のことを気にしている。理由はわかっていた。だがそれを誰かに口にすることは奈津上の意思に反することであり、戒自身の意思にもまた反することであった。

 闇はまだ深く、神々しい山の姿を覆い隠してしまっている。

 戒は天空回廊を静かに歩きながら、弟たちのことを考えていた。

 黎はまた以前のように他の妖たちと談笑する機会が増えつつあり、翔は最早ずっと何かに怯えて黎の衣の裾にしがみついていた幼子ではなくなった。少しずつでも彼らは成長している。再び道を築き始めている。彼らを見守り、常世の未来に送り出すことは戒に残った使命の一つだった。

 あの時、戒には葛藤がないわけではなかった。今でもそれはずっしりと心の中にある。正しいのかそうでないのか明確な境界がない問題には、英雄と呼ばれるほどの戒であっても深刻に悩まずにはいられなかった。しかもそういったものは大抵単純な問題では済まされず、他の多くの要素とも絡みに絡み合って複雑化している。

 戒にはすぐには答えが出せなかった。その時既に翔を取り巻く事態は動いてしまっていた。

 だが、戒は決断した。それがこの世の理に反することであるとわかっていても。己の立場を危うくするだけでなく、手にしていた多くのものを失う可能性があるとわかっていても。

 今思えばそれは、情というもののせいなのかもしれなかった。

 結局、彼は弟を守ったのだ。



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