四 邂逅

 その日の御影屋には客が多く集まっていた。

 翔は朝からお座敷に駆り出され、飲み物や軽食を運んだり雑談に付き合ったりと休む暇なく働いていた。真楯と水瀬には今日も立て続けに演舞の予約が入っていた。炎典と藍蘭は直射日光の中で庭仕事に従事し、伊桜は執務室で分厚い書類と向き合い、戒と黎は別館に籠ったきり今日はまだ一度も人前に姿を現していなかった。

 ようやく仕事が落ち着いてきた頃、翔は本館三階の一番広いお座敷に呼ばれた。

 そこは縁側から見える景色が最高だと常連客に評判で、同時に複数の客が利用してもまだ窮屈さを感じない開放的な部屋だ。

 開かれた襖障子から翔がひょっこり顔を出して中を覗くと、席のほとんどが埋まっていた。中央の席の客を接待していた水瀬がすぐに翔に気づいて手招きした。そのそばには奈津上が座っていて、水瀬に丁重に茶を振舞われているところだった。

 奈津上は翔を見ると、たちまち頬をふにゃりとほころばせた。

「おぉ、翔。久しぶりじゃのう!ほれ、こっちへ来てくれんか」

 奈津上は上代の妖の中でも特に地位が高く、悪く言えばかなり古めかしい固定された価値観を持っていてもおかしくはないほど長生きな妖である。だがこの老人はいつだって人の子である翔に優しくあたたかく接してくれた。奈津上が気に入っている相手だからと翔に対する態度を改めた妖も数多い。

 翔は何故この妖の長老が、人間たちの悪行をその目で直接見てきたはずの奈津上が自分にこんなに優しくしてくれるのかいまだによくわかっていなかったが、まるで祖父のような愛を注いでくれる奈津上のことが大好きだった。

「奈津上様、お久しぶりです」

 翔はいそいそ奈津上のもとに駆け寄り、隣に膝をついてぺこりと頭を下げる。

「うむうむ、元気そうで何よりじゃ。本当はもっと早くに会いたかったんじゃがのう、どうも忙しくてな。有難う、水瀬。次の演奏もしっかりな」

「光栄です」

 水瀬が深々とお辞儀をした後、去り際に翔と目を合わせて微笑んだ。今日も寒色で揃えた濃いめの化粧がよく映えている。これから別のお座敷に向かうのだろう。翔もにっこり笑みを返して水瀬を目で見送った。

「して、仕事は順調かの」

 奈津上がにこにこしながら隣の翔に問いかける。

「はい。でも、毎日何かしらの失敗をしてしまっていて・・・まだまだ皆さんのように優秀にはなれないですね」

「ほっほっ。失敗しない者に成長はないんじゃよ翔。おぬしはそのままで良い。いつでもおぬしらしく進んでいけばそれで良いのじゃ。ところで、休みは貰えているのか?休日は最も重要じゃぞ、休息がなければ命に関わる」

「ええと。今はしっかりとした休日というものはあまりないんですが、睡眠は取れています」

「うむぅ・・・それはそれで問題じゃの。儂は以前から御影屋は人手が足りていないのではないかと戒に何度も言っているんじゃが、どうもあいつは少数精鋭が好みらしい。黎もああ見えて内輪が好きな奴じゃ。じゃがなぁ、今のままではお前さんの負担が大きすぎる・・・」

「あのっ、僕は大丈夫ですよ。僕よりも真楯さんや水瀬さんの方が大変そうです。今はまだお二人しか余興ができる方がいないので」

「炎典はどうじゃ。あやつは何かできぬのか?目立ちたがり屋じゃから何かしらできそうな気がするが」

 翔は苦笑した。

「それが、以前一度お客さんの前に出たことがあったらしいんですけど、その時に何かやりすぎてしまったようで・・・水瀬さんが黎兄さんに『絶対出すな』と仰ったそうなんです」

 奈津上は一瞬目を丸くして、それから声をたてて愉快そうに笑った。

「本当に、面白いところじゃのう御影屋は!」

 奈津上の笑顔を見た翔は何だかとてもあたたかい気持ちになった。思わず顔に自然な笑みが浮かぶ。

「あらご隠居様、今日も翔ちゃんと一緒でご機嫌ですわね」

 通りがかりに声をかけてきたのは明るい着物姿の熟女、郎女草いらつめくさだった。彼女も奈津上と同じ上代の妖の一人で御影屋の常連客である。

「おお郎女草。おぬしも来ていたのか」

「今日の真楯は絶好調だと聞いて飛んで参りましたわ。一杯お茶したら、特等席で演舞を観るんですの」

 郎女草が御影屋に通う目的はほぼほぼ真楯だ。彼を目当てにしてやってくる客は多いが、中でも彼女は歴が長かった。

「そうかそうか。目一杯楽しめ」

「ええ、そちらも。じゃあね翔ちゃん。ご隠居様にお小遣いたくさんねだっていいのよ」

「ありがとうございます、郎女草様」

 翔は苦笑してぺこりと頭を下げた。

 郎女草は満足げに微笑んで自分の席へ向かっていった。

「この歳になってようやくあやつの好みがわかってきたわい」

 奈津上が悪戯小僧のようにクックと笑いながら翔に囁いた。

「昔はな、あやつはずっと戒に惚れていたんじゃよ。それなりに地位があって勇ましいと惚れる輩が多くてのぅ。郎女草も戒の虜にされた妖のうちの一人じゃった。若い真楯に乗り換えてからはすっかりそちらに夢中になっとるが」

「そうなんですね」

 奈津上は意外と下世話な話が好きなお爺さんだった。

「儂の見解ではな、戒を好いておる者は大抵真楯にも興味があって、黎を好いておる者は大抵水瀬にも興味を持っておるんじゃ。好みの系統というものがあるじゃろ?まぁ両方ともという輩も数多くおるがな。最近はおぬしが好みという輩も増えてきたように儂は思うぞ。どれ、翔には今、誰か好いておる相手はいるのかの?」

「い、いえ。僕はまだそういうのは・・・」

「そうかそうか。いいんじゃよ、焦りは禁物じゃからな。しかしな、これだけは覚えておくと良いぞ。色恋に限らず、誰かを愛することには早いも遅いもないんじゃよ。だから愛している、大切だと思ったら、他のことには構わずすぐにでも伝えるようにしなさい。そうでなければ、今じゃない、今じゃないと考えているうちに、相手はふっと目の前から消えてしまうんじゃ。まるで昨日までそこにいたのが幻のように、忽然とな」

 奈津上はふと、目に寂しげな光を浮かべて口を閉じた。

 翔は返す言葉に迷って、奈津上の横顔を見つめることしかできない。

 長い時を生きればその分、別れの数も多くなる。今奈津上の脳裏に浮かんでいるのはきっと翔が知らない妖たちのことだ。自分が知らない数多くの命が過去に生きていて、そして死んでいった。その不思議を考えると、自分がいかに果てしない世界にすんでいるかを思い知らされるような気がする。

「ところで翔や、実は前からずっと翔に頼みたいことがあってのぅ」

 奈津上は切り替えるように声の調子を上げてにっこりした。

「儂と一緒に、産霊むすひの一の山へ登りに行かんか?あの山の頂上に行ってみたい館があるんじゃが、なかなか機会がなくての。翔さえ良ければ、是非共に行ってほしいんじゃが」

「えっ、いいんですか?」

 思いがけない誘いだった。奈津上とはずっと親しくしてきたが、今までどこかへ共に出かけたことは一度もないのだ。

 奈津上は翔の反応に嬉しげに微笑んでいる。

「勿論じゃよ。行くにあたって保護者の許可は心配ないぞ。この儂がすこぉしばかり強めに説得すれば、戒も黎も首を縦に振るしかないじゃろうからな」

「それはどうでしょうね、ご隠居様」

 笑みを含んだ艶ある声がして、翔も奈津上も揃って目を上げた。

 お座敷前の縁側に黎が立っていた。日光に縁取られたその姿は神々しく、遠目からだと被衣と綺麗な顔立ちのせいか艶やかな女性のようにも見える。

 黎の登場にお座敷内は少しだけざわついた。普段彼は滅多に客のいるお座敷には顔を見せないからだ。

 黎は微笑を浮かべたまま、奈津上と翔の座る席へと足音静かに近寄ってきた。

「翔の希望通りにいくのが一番ですけれど、産霊の一の山は日帰りで行ける距離ではありませんよ」

「そうじゃな。数日外泊することになるじゃろう」

「貴方と翔の二人だけで?それは心配ですね。それだと戒は許可しないでしょう」

 黎は翔の隣にそっと腰を下ろして、にっこりした。

「俺が同行しても良いなら兄さんを説得しますけれど、どうします?」

「ほっほっ。番頭が店を何日も留守にしても良いのかな?」

「うちの者は皆優秀ですから。任せても平気ですよ」

「おぬしが不在だと戒が困るんじゃないのかの?」

「戒兄さんは困ったことがあってもいつだって完璧に対処できると、貴方はとっくにご存知のはずではありませんか」

「翔が儂と二人だけで行きたいと言ったらどうする?」

「俺が呪術で翔のふりをして貴方と二人で出かけてもいいかもしれませんね」

 奈津上はまた笑った。黎の提案に気を悪くした様子は全くない。それどころか面白がっているようだった。

「強情じゃのぅ、黎。良かろう。おぬしも来るが良い。翔や、そういうことで、良いかね?」

「はい、大丈夫です。奈津上様」

 奈津上だけでなく、黎とも外泊するのは初めてのことだ。翔の心は楽しみ半分緊張半分で浮き立った。

「じゃあ、決まりですね。戒に話してきます」

 そう言って立ちあがろうとした黎の衣の裾を、通りかかった客が思いがけず片足でむんずと踏みつける。

 途端に客は文字通り飛び上がって、大慌てで畳の上をずずずと引き下がっていった。

「も、もももも申し訳ありません黎様っ!!」

「いいよ。気にしないで」

 黎は微笑んだが、相手は恐縮した様子で何度も何度も頭を下げている。

 やがて黎がお座敷を出ていくと、その客はやっと頭を下げるのをやめて心から安堵の溜息を吐き、自席に戻っていった。

 その様子をぼんやり見ていた翔に、お座敷の隅の席から声がかかった。奈津上に行ってきなさいと目で促され、翔は急いでその席へ接客に伺った。

 そこに座っていたのは目元以外を白い包帯で覆った、衣の上に袈裟をかけた見慣れない男だった。僅かに見えた肌は浅黒く、目は黒く憂いを帯びている。

「すまないが、茶を注ぎ足してくれるかな。どうも指が動かしづらくてね」

 男は洗練された渋みのある低い声で翔に言って、爪先まで包帯が巻かれた右手で卓上の急須と湯呑みを指し示す。

 翔はこっくり頷きながら返事をして、男の湯呑に丁寧に茶を注いだ。

「君、翔くんだよね」

 男が不意に言った。

「えっ。はい、そうです」

「わあ、大きくなったなあ。きっと覚えていないよね。僕は烏丸からすまという者だよ。君とは小さい頃ここの庭で遊んだことがあるんだ」

「そうだったんですか?すみません、あの・・・あまり覚えていなくて」

「構わないさ。あの頃の僕は今と若干風貌が違っていたし、君もまだほんの子供だったしね」

 烏丸の目元がやわらいで目尻にぐっと皺が寄る。落ち着いた声音でゆったりと話す、とても優しげな目の人だなと翔は思った。

 その時、背後から「烏丸さま」と藍蘭のとても嬉しそうな声が響いてきた。

「やあ、藍蘭。元気だったかな」

 お座敷内をとことこ駆けてきた藍蘭は満面の笑顔を向けて烏丸の正面に滑り込むように座った。

「やっと会えた!烏丸さま、最近全然来てくれないからみんなで心配していたの」

「心配かけてごめんね。少し体調が優れなくて別荘で療養していたんだ。今はもう平気だよ。今度炎典も誘って、また鞠遊びでもしよう」

「やったぁ!約束だよ烏丸さまっ」

「ああ、約束だ」

 藍蘭は来た時と同じように唐突に駆けてお座敷を去った。

「烏丸さんは藍蘭と仲良しなんですね」

「僕の娘の結婚相手が猫又でね。そのつながりで彼女と話していたら、いつの間にか懐かれていた」

 烏丸は笑った。

「彼女、楽しい子だよね。御影屋にはあまりいない性質の妖だ」

「そうですね」

「この店は彼女みたいな子を増やした方がもっと良くなると思うよ。内気な客は真楯くんや水瀬くんや君にはつい遠慮してしまって、話がしたくてもなかなか話しかけられないだろうし。昔と違って今は黎も出てこないから、何だか勿体無いな」

 不意に烏丸は小さく溜息を吐き、嘆かわしげに眉を下げた。

「・・・全く、客も客だよ。あんな風に黎を扱うなんてどうかしている」

「そう・・・ですか?」

 翔には烏丸の嘆く理由がいまいちよくわからなかった。黎に対する客たちの反応は翔にとっては見慣れたよくある反応でしかなかったからだ。黎は犬神で、犬神は常世では高貴な妖とされている。彼らが黎にかしこまるのは特に不自然なことではないように思えるのだが、烏丸は違うらしい。

「そうだとも。あの戦が起きる前まで、黎はよく気さくに客たちと会話を楽しんでいた。犬神は犬神でも彼は全くお高くとまった存在じゃあなかったんだ。でも今は違う。皆、黎に異常なまでに気を遣っている。戒に接する時以上に緊張していて、黎もそれに対して何も文句を言わないんだよ。あれからもう随分と経ったっていうのにね。あれではまるで、腫れ物に触るようだ」

 翔は驚きを隠しきれずに烏丸を見た。自分が何とも思っていなかった光景が、烏丸の目にそのように映っていたとは思いもしなかった。

 おそらくこの妖は御影屋との付き合いが長い。そして翔が知る以前の黎たちのことを知っている。

 翔の心は急に緊張してきた。今、烏丸はとても気にかかることを言っていた気がする。

 あの戦が起きる前まで。

 彼はそう言ったのだ。あの戦が起きる前まで、黎は気さくだったと。

 黎は常世の妖たちにとって極めて繊細な問題であるあの戦の話題が出てもちっとも動じることがない。けれど、それはもしかしたら、何かの裏返しなのかもしれないと翔は不意に考えた。

「あの・・・烏丸さん。あの戦の時、黎兄さんには一体何があっ・・・」

「烏丸殿!!探しましたぞ、ここにいらしたのですか!!」

 翔の声は現れた烏丸の眷属らしき妖に呆気なくかき消されてしまった。

「ああ、咎海とがかいか。もうそんな時間かな」

「もうも何も、大幅に過ぎております!風雷ふうらいの太郎殿と次郎殿はもうお揃いですぞ!上代の妖ともあろうお方が会議に遅刻とは我ら天狗族の顔が立ちませぬ。こんなところでゆったりまったりくつろいでいる場合ではございません!」

「わかったから、そんなに興奮しないでくれ。すぐに向かうよ」

 烏丸は眷属を落ち着いた口調で宥めて、ゆっくりと立ち上がった。それから翔に穏やかな笑みを向けた。

「また会おう、翔くん」

 翔はこくこく頷き、何とか「はいっ・・・」とか細い声を絞り出した。

 まさか、上代の妖だったとは。ほぼ初対面同然だというのに軽々しく言葉を交わし過ぎてしまった。

 翔はちょっぴり反省しながら、遠目から様子を見ていた好々爺のもとへのそのそと戻っていった。


 **


 深緑こきみどりの森の中を、南雲は四対の脚でせっせか歩いていた。

 今日も今日とて主である奈津外なつがいの使いで、常世の国で外の世界の夜市に出す珍品の収集業務だ。わざわざ故郷である外の世界から出て常世まで足を運ぶのは、力のないただの平凡な妖怪に過ぎない南雲には体力的に結構しんどい。しかしながらその報酬を考えると行かないわけにはいかなかった。そもそも奈津外の命令とあっては従う以外に選択肢はないのだが。

 南雲は自分のみでは常世の国へ行くことはできないので、こちらへ来る際にはいつも奈津外の妖力が込められた依代の人形を持たされている。これが奈津外本人の役割を果たし、南雲が世界と世界の境界を超えることを可能にしているのだとか何とか聞いているが、南雲にはそんな難しいことはわからなかった。彼はただ、家族全員が日々飯をたらふく食べられるだけの給料を貰えればそれで十分だった。

 南雲にとって奈津外は正直、とても良い主だった。以前南雲を雇っていた妖はとにかくケチで、市での売上を全て横取りしてしまうような嫌味な奴だったが、奈津外は南雲に彼の妻と子供たち合わせて五十匹分を養えるだけの多額の給料を毎回与えてくれるのだ。その代わりと言っては何だが奈津外が南雲に求めてくるのは大抵いつもそんな無茶なと言いたくなる突飛な仕事だった。常世に通って商品を仕入れてくるというのもその一つだ。だがやはり背に腹はかえられぬということで、貧困に喘ぐ外の世界で家族揃って生き残るためには奈津外に愛想を尽かされるわけにはいかず、南雲はこれまで奈津外の全ての指示に忠実に従う真面目な眷属であり続けていた。

 南雲は歩き慣れない森の道を進んでいく。辺りは静かだった。獣や鳥の鳴き声もせず、足音は南雲のものだけだ。周囲を囲む木々の緑色に生い茂った葉が南雲の頭上を覆っている。明るい日差しは感じられない。今日の空はどんよりと灰色に曇っていた。

 ふと、南雲は鼻についた匂いにくっと顔を歪めて歩調を緩める。何だか変な匂いがするぞ。嗅ぎ慣れていない、何かが錆びたような強烈な匂いだ。誰かが廃棄物でも捨てたのだろうか。人間のいない常世にもそんな輩がいるとは驚きだ。

 南雲は顔をしかめつつそれほど気にはしていなかったので、構わず先を進んでいった。だが、その不快な香りはどんどん強くなっていた。

 一体何なんだ、これは。

 南雲はついに蜘蛛の足の動きを止め、辺りを見回した。誰もいない。あるのは一面緑の森だけだ。

 南雲は溜息を吐いて、再び進もうと前を向いた。そして何気なく目を落とした地面を思わず数十秒もの間凝視した。

 地面に黒っぽい赤と、鮮明な赤の液体で染みができている。よく見るとそれはずっと先にも広がっていて、水溜まりのようになっている箇所もあれば雫がぽつぽつと落ちたような箇所もあり、そこら中の地面に不規則な赤が飛散していた。

 南雲もさすがに大馬鹿者ではない。何かとてつもなく嫌な予感を心に感じとって、頭の中の警鐘に従い引き返そうと脚を交互に動かして身体の向きを変えた。

 そこへ、何かがごろごろと転がり込んできて、南雲の脚の一本にごつんと当たって止まった。

 南雲は既に震え始めていた。ゆっくりと足元に目を落とし、それが何かを確かめた途端、震えは最高潮に達した。

 それは苦悶の表情を浮かべた、人間の頭部だったのだ。

 刹那、南雲は絶叫した。静かな森に蜘蛛男の天地がひっくり返ったような叫び声が轟き、木々がざわざわと揺れて音を立てた。

「ひっ!・・・ひぃっ!!」

 南雲はガクガク震えながら必死に八本の脚を動かした。しかしこんな時に限って脚と脚が絡み合ってもつれ、自分の脚につまずいて地面にぐしゃんと転倒してしまった。

 ざくっ・・・ざくっ・・・と、地面に落ちた葉を踏んで何かがこちらに近づいてくる。

 南雲は全身が激しく震えたまま動けなかった。顎も喉も固まって助けを呼ぶ声も出せない。途端に南雲の脳裏に、一生の思い出がどっと波のように押し寄せてきた。やんちゃだった子供時代の記憶。後に妻となる蜘蛛女との出会い。明日を生きるのも苦しかった貧困期。四十九匹の子供たちの誕生と成長。家庭に余裕が生まれ始め、初めて家族で訪れた原始の森の神秘的な美しさ・・・。

 南雲は恐怖と絶望のあまり、目を閉じておいおい泣き始めた。走馬灯を見てしまった。自分は今日、ここで死ぬのだ。


 数分程度経っただろうか。

 どこからか、さあっ・・・と冷たい風が吹く。

 南雲の頬を流れていた涙はとっくに渇き切っていた。

 ようやく違和感が死の恐怖を超えた頃、南雲は恐る恐る片目だけを僅かばかり開いてみた。

 ぼんやりとした人影が微動だにせずにこちらをじっと見下ろしている。片目だけではよく見えず、結局南雲は両目を開いて目の前に立ち尽くした相手の姿をはっきりと見る羽目になった。

 それは青年だった。一目見た印象では、彼はとても美しい若者だった。だがその美しさには一切温もりがなく、一度触れればたちまち凍死してしまうような冷たさが青年を厚く覆ってしまっている。帯を締めた衣の上からでも痩せているのは明白で、肌は青白く血の気がない。前髪が僅かにかかった藤紫色の瞳にも同じように生気はなく、本当に南雲のことを見ているのかわからなくなるほど虚ろな目をしていた。

 彼の黒髪にも肌にも衣にも、べったりと赤い血がこびりついている。

 南雲は引きつった表情で相手を見上げていたが、数分経っても青年は睫毛一つ動かさない。

 自分がまだ生きている幸運に浸る余裕はなかった。南雲はその場から動けなかった。青年も恐ろしいほど動かなかった。

 やがて、その色のない薄い唇がほんの僅かに開き、青年から発せられた言葉は南雲の想定を大きく外れたものだった。

「人間はどこ」

 彼は濁りのない声で静かにそう言った。

「はへっ・・・?」

 思わず喉から素っ頓狂な声が出た。青年は全く表情を変えずに南雲を見下ろしている。

「・・・あなた、人間の居場所を知っている?」

「に、に人間ですかい?こ、ここの常世の国で?」

 南雲は外の世界の妖だが、常世の事情については以前一般知識程度に奈津外から聞いたことがあった。まさかこの青年は、それを知らないのだろうか?南雲でも知っているようなことを?

 兎にも角にもこの状況で何も言わないわけにはいかない。

「人間は、人間はもう、この世界にはいないんですよ旦那。昔大きな戦があって、その時にみんな滅びたんですわ。今常世にいるのは全員、呪いで人の姿になっちまった妖で・・・」

 全員、というわけでもない。そういえば一人、人の子がいた。

 南雲が声に出さなかった思考の部分を、青年は簡単に読み取ったようだった。

「どこに?・・・どこにその人間がいる」

「いや、その、そこまで詳しくはちょいと・・・」

 たちまち青年の紫色の目がぎらりと鋭い刃のように光った。

 南雲は慌ててどもりながらまくしたてた。

「み、みみみ御影屋ですっ!御影屋の、犬神様のところに一人っ、人の子がいると聞いております。それ以上は何も知りません。勘弁してくだせえっ!」

 南雲はヒイヒイ言いながら両腕で頭を抱え込んだ。これで自分は用済みになった。いつあの頭と同じ状態になってもおかしくない。今度こそお終いだと意識した瞬間にまたもや猛烈な恐怖に襲われた。

「御影屋・・・犬神・・・・・・」

 青年の呟きがそばで聞こえたが、南雲にはもう顔を上げる勇気がなかった。

「御影屋・・・犬神・・・・・・」

 イケ。ソノミセニイケ。ソノミセダ。

 突然、今までに聞いたことのないくぐもった声が地響きのように辺りに鳴り響く。男のものでもなく女のものでもない、人とも妖のものとも思えぬ不気味な声だ。

 その声は再び聞こえた。

 イッテ、イヌガミレイニアエ。

「・・・それは誰」

 ワタシタチニチカイオトコダ。

 急に、周囲が酷く静かになる。

 南雲はゆっくりと顔を上げて、思わず首を大きく動かして辺りを見回した。

 青年は忽然と姿を消していた。

 南雲は一人ポツンと森の中に取り残されていた。

「大変だ・・・・・・大変なことになったぞ!」

 しばらくしてようやく立ち上がることができた南雲は、一目散に来た道を駆け戻った。

 彼が頼れる相手は奈津外だけだった。

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