二 御影屋 

 常世の国の妖たちの憩いの場、御影みかげ屋には実に様々な楽しみ方がある。ここではお座敷で甘味を食べながら歌と楽器の音色に浸ったり、各階の縁側で心地よい風に当たりながら庭園の美しい樹木草花を鑑賞することもできれば、部屋の一部を宿にすることも、広間を会合の場として使うこともできた。

 御影屋は創業年不詳。木造五階建。瓦葺の荘厳な建物で、本館には外に張り出すように回廊が巡らされ、隣接した別館とを複数の渡り廊下が繋いでいる。ここの主人を務めているのは黎と翔の兄であるかいだが、上代じょうだいあやかしと呼ばれる、まつりごとやその他あらゆる場面で中心となって常世を支えている年長者たちの中に含まれた彼は大変多忙であり、そんな戒に代わり店は実質番頭である黎によって取りまとめられている。常世の者の多くは種を問わず、ずっと昔からこの店に慣れ親しんでいた。 

 黎は接客や配膳をしたりはしないので、やってくるお客のお相手をするのは翔とここで働く数少ない妖たちの仕事である。最初は客前に出ることに大きな不安と恐怖を抱いていた翔も今ではすっかり慣れてしまい、常連の妖たちのほとんどと顔見知りだった。

「黎様と翔のお戻りだー。俺も戻ったぞー」

 表玄関の扉を開け放して、炎典が御影屋内部に向かって声を張った。

 すぐにパタパタと階段を駆け降りてくる音がして、上階から藍蘭あいらんが現れた。巻貝のようにふわふわうねった長い豊かな漆黒の髪を肩に流し、雪のように白い肌をしている可愛らしい美少女が藍蘭である。目の縁に涙がいっぱいに溜まっているのがここからでもわかる。その瞳は特徴的な、やや縦長のガラス玉のように美しい猫の目だった。

「炎典っ!!ごめんなさぁいい!」

 甲高い声で叫ぶやいなや藍蘭は一気に残りの段を駆け降り、炎典の胸にがばっと勢い良く飛び込んだ。体格のがっしりした大柄な炎典でも思わずうおっと声を漏らして仰け反るほどの威力だった。

「ごめんなさい、あたしっ、あたしっ、どうしてこんなことしちゃったのかわからないのぉぉぉ。うぇぇぇぇぇん」

「おいおい、泣かないでくれよ藍蘭。許してやるからさ」

 炎典は少し困ったようでいてとても嬉しそうなにやにや笑いを浮かべ、泣きじゃくる藍蘭の髪を大雑把に撫でてやっている。

 炎典の素性は火車かしゃ、藍蘭は猫又という妖怪だが、種族の違いなどほとんど気にしたこともなく、二人は共にこの御影屋で働いている明るく楽しい恋仲の妖同士だった。

 藍蘭の両親は犬神家の長年の眷属であった猫又で、藍蘭自身は成年を迎えてから一度戒の眷属になっていたが、現在では炎典と同じ黎の眷属という扱いで通用している。炎典も藍蘭も最初から主を黎としていたわけではなく、あくまで犬神家全体に侍従する妖であったのが、少し前に黎を使役の責任元とするように変更されていた。

「三人とも戻ったのかい」

 続いて階段の踊り場に伊桜いおうが現れた。伊桜の外見は白桃色の髪を肩につくくらいの長さで切り揃え、髪と同じ色の着物を着崩れなく纏った三十路くらいの人間の女だが、当然彼女も人間ではないのだった。だが、それ以上に彼女の素性を知っている者はこの御影屋にはほぼいない。伊桜は御影屋では経理を担っており、知恵と知識が豊富で店内外のあらゆる事柄にも詳しかった。

 昔、戒と黎の手が回らない時などには、幼い翔の子守はよく伊桜がしてくれていたのだという。それゆえか翔は時々、この物静かで謎めいた女性にどこか母親のような温かさを感じることがあった。

「お客は皆帰したよ。藍蘭は眠らずにお前さんたちの帰りを待っていたんだ。真楯またて水瀬みなせはもう眠っている。戒の帰りは明日の夜になる予定だ。お前さんたちもすぐ眠るだろうと思って夜食は用意していないよ。お腹が空いていたら自分たちで作っとくれ」

 伊桜の声は少し掠れているが、耳心地が良い低音で落ち着きがある。

「ありがとう伊桜。いつもすまないね」

 黎が微笑んだ。

「伊桜さん。ありがとうございます」

 翔もぺこりと頭を下げた。翔を見下ろした伊桜は微かに口角を上げた。

「寝酒はないのか!?もちろん酒は残っているよな、伊桜」

「炊事場か保管庫を覗くことだね。お前さんが毎晩のようにお客に出す酒まで飲み漁ってしまうと水瀬が怒っていたが、それでも飲む気なら探してみるといい」

「げっ。あいつ気づいてたのか・・・」

 伊桜はふと表情を固くして、黎の方を見た。

「・・・黎。この後少し、二人で話せるかい」

「もちろんだよ。それじゃあみんなまずお風呂でゆっくりしておいで。それから戸締りを確認して、明日のためにぐっすり眠るんだよ」

「はーい黎さま。お休みなさい」

「お休み」

「黎様もすぐ休んでください!」

「わかったよ炎典。ありがとう」

「お休みなさい、黎兄さん」

「お休み。翔」

 素直な三人がすんなり指示に従い解散したところで、黎は伊桜を見下ろした。

「・・・さてと。それで、何があったの?」

「見た方が早い。別館だ」

 重い声で呟くと、伊桜は黎を別館へ連れていった。

 別館は客を入れる場所ではなく主に従業員の作業場や物品管理のための部屋、図書室があるだけの建物で、普段から出入りが多くあるわけではなかったが、内部はしっかり清掃が行き届いていた。翔がしょっちゅう窓や床を磨いたり掃き掃除をしてくれているためだ。

 二人は四階の突き当たりの部屋までやって来た。廊下は伊桜が明かりを灯すまではとても暗く、しんと静まり返っていて何の気配もしなかった。

 伊桜は黎をちらと振り返ってから、その部屋の横開きの戸をスッと半分ほど開いた。そして中の様子がよく見えるよう、自身は横にずれた。

 黎は一歩手前へ滑るように進み、室内に素早く目を走らせた。

 刹那、その目元が微かに強張る。

「・・・・・・ふぅん」

 何を考えているのか、室内を凝視したまま黎はそれ以上何も発しない。陶器の人形のように美しいその顔には、目元の僅かな強張りを除いて何ら変化が見られなかった。

 伊桜は黎に状況を補足した。

「私が店に戻ってきた時には既にこの状態だった。先に戻っていた真楯たちはお客の相手で忙しく、何も気がつかなかったそうだ。見てわかる通り、外側の結界が破られ窓硝子が粉々に割られている。おまけに書棚と保管庫、敷物までこのざまだ。内側の結界がなければこの部屋以外にも侵入されていたかもしれない」

「・・・外側と違って内側の結界を破ろうとした形跡はないから、用があったのはきっとこの部屋だけだったんだと思うよ」

「そうかい。お前さんがそう言うならそうなんだろうね」

「そこの保管庫にあった、お札の数は合っている?確かこの部屋のどこかの引き出しに帳簿があったはずだけれど」

 伊桜は苦い顔をした。

「私もすぐに探したよ。だが悪い結果だ、帳簿はなかった。恐らくお札も消えているだろう。翔が今朝確認した時、それぞれ残り何枚だったかを覚えていれば、確かな枚数ははっきりするだろうが」

 はっきりさせなくともこの状況から十中八九、お札は何者かによって帳簿と共に盗まれているはずだ。

 二人とも、かなり面倒なことになったとわかっていた。誰かが結界や建物を損壊しただけならまだ犬神の力を持ってすれば何とかなる。だがしかし、お札が盗まれたとなれば話は別だ。この部屋の保管庫に納められていた数種類のお札の中には、昔上代の妖たちの会合で御影屋もとい犬神戒に管理が任せられた特殊な代物も含まれている。そうでなくてもお札はそれ自体が何らかの効力を発揮するものであり、あらゆるまじないに使われる貴重な呪術道具であり、翔がその現物と、種類ごとそれぞれの枚数や使用歴を記した帳簿を管理していた重要な物品だった。それが消えた可能性があるということは、常世の国にとってあまり喜ばしくない事態が起きる可能性があるということだ。加えて翔が管理の責任を問われることになり、その立場をさらに悪化させることにも繋がってしまう。

 事態の重さを十分理解しているはずの黎だが、彼は至って冷静だった。焦ったり怒ったり動揺を見せることもなく、肩をすくめて艶やかな、やや誇張した溜息を吐いた。

「こんな時に限って、崇高な我が兄上を出先で突然呼び出すなんてそんな大胆なこと、一体どこの誰がしてくれたのかな」

「徳あるヌラリヒョンだ。奈津上なつのかみから上代の妖に召集がかかった」

 それを聞いて普段感情の読み取れない黎の目にも一瞬驚きの色が浮かぶ。

「ご隠居様が?・・・どうりで兄さんも気を遣うわけだね」

「どうする・・・?」

 黎は少しの間、考える素振りを見せた。そして次には迷いなくサッと戸を元通りに閉め直すと、くるりと踵を返した。

「ひとまずこの部屋は俺が引き受けるよ。伊桜は皆に中が片付くまではここには立ち入らないように伝えて。戒が戻ったら俺から相談する。お札が盗まれた可能性は、はっきりするまで伏せておくこと。特に翔にはね。きっと自分を責めてしまうだろうから」

「わかった」

 今度は黎を前にして、二人はやってきた廊下を淡々と戻っていった。

 黎の後に続きながら、伊桜は彼の被衣かずきに隠れた後頭部辺りをじっと見つめた。

 悠久の時を生きてきた伊桜であっても、犬神黎の心を読み取るのは至難の業だ。この妖術師は伊桜と違って誰にでも愛想が良く、その見た目の良さも相俟あいまって好かれやすく心を開かれやすい。だが黎自身は決して己の心の内を他者にさらけ出そうとはしなかった。己のことを語らぬという点で黎と伊桜はよく似ていた。犬神戒を信じ、その信頼を得ていると自負している点でも同じだ。そして本来そうなるべきではない存在である犬神翔に愛情を注いでしまっているという点でも、二人は似たり寄ったりだった。

 長いこと戒の眷属として過ごしてきた伊桜は、かつての黎のことを多少なりとも知っていた。だからこそ伊桜には黎がここまで誰かを気にかけているのがとても奇妙なことのように思えてならなかった。伊桜が知る限り黎は誰かに興味を示すこともなければ知ろうとすることもない。けれども今度ばかりは違って、彼は血の繋がりが全くない弟に意外なほど関心を示し続けている。しかもその子はあの殺戮と残虐の化身たる化け物、外の世界の人間の子供だ。

 黎があの子と兄弟の契りを結ぶと言い出した時は常世の国全体が大いに荒れた。それは検討するまでもなくとんでもない話だった。だが結局黎の希望は通って、翔は犬神家の三男坊になった。そこには黎の権威だけでなく戒も翔を受け入れる姿勢を示したこと、加えて上代の妖の中でも特に力を持っていたヌラリヒョンの頭・奈津上までもが犬神兄弟の意向を支持したことが大きく影響していた。

 今となっては翔はとても勤勉でいい子に育ったし、御影屋の面々はもちろんのこと常連客の多くがもうさほど翔を毛嫌いしていない。だがそれでもまだ翔を、その素性を理由に差別する者は一定数存在した。彼らは時にわざわざ御影屋まで出向いてきて醜く悪態をつくくせに、戒や黎を相手には何も文句が言えない愚か者たちだ、と伊桜は思っていた。

 くだんの大騒動を伊桜は終始静観していたが、その時から既に将来自分は翔を守ってあげる側に回るのだろうということは予感していた。幼い翔を巡って常世が大揉めの嵐に包まれる中、戒が腹を括ったことに彼女は早い段階から気がついていた。

 伊桜の行動の決め手になるのはいつだって戒の意思だった。だがそれは、彼女が彼の眷属であるゆえに主の意思に従わざるを得ないのだとかそういうわけでは決してない。

 伊桜にとって戒は全てだった。戒がいなければ彼女は今ここに存在していない。絶望だけを心に残し、永遠が約束されたようなこの世界からも消えてなくなり、誰からも忘れ去られていたはずの伊桜を戒はこの世に留まらせてくれた。そして己の眷属とし居場所を与えてくれた。伊桜は己の秘密を戒だけに話し、戒はその秘密を腹心の黎にさえも漏らさなかった。

 伊桜が今もここにいるのは、戒がここにいるからだった。


 ****


「昨夜はご苦労だったなぁ二人とも!それで、昨日は何か厄介な出来事はなかったのか?」

 翌朝、朝っぱらからどでかい声を難なく出せる豪快な妖・炎典は同僚の真楯と水瀬の部屋を元気に訪問したが、残念ながら二人にはあまり歓迎されなかった。

 二人とも昨夜も遅くまで働いてしっかり疲れていたのに予定よりもずっと早くに叩き起こされて落胆を隠しきれていない。特に水瀬の方は、不機嫌がそのまま寝起きの白い顔に書いてあった。

 真楯はやや寝ぼけた様子で布団から上体を起こし、そのまましばらくぼんやり首をかいていたが、だんだん意識がはっきりしてきたのか炎典を見上げて苦笑した。

「随分ご機嫌だなあ火車様よ。愛する彼女に切れられて、危うくどこぞのやっこになるところだったっていうのに、泣いて抱きつかれたらころんと許したか」

 精悍な顔立ちににんまり笑みを浮かべた真楯にからかわれ、炎典は顔を赤らめ小脇に抱えた竹籠の中から一本酒瓶を引っ掴み、気恥ずかしさを隠すように振り回した。朝から飲む気で真楯と水瀬の部屋に持ち込んできたのだ。たちまち水瀬の冷ややかな視線が手元に向けられたことに炎典は気づかない。

「何だよ、悪いか?ていうか何で知ってるんだ?俺たちが帰った頃、お前たちもう寝てただろ」

「お前たちが喧嘩して大変なことになったって話は、街から戻った時に風の噂で聞いたんだ。あとは想像だよ想像。お前は昔から藍蘭の涙にとんでもなく弱いからな」

「お前だってなあ、恋仲の妖に泣かれでもしたら一瞬で許すに決まってるだろ。誰かいないのか誰か。そういや真楯お前、もう結構長いこと浮いた話がないな」

 真楯は耳だけ炎典に向けて素早く布団を畳み、寝巻きから勤務中にいつも着ている衣へと、鍛え上げられた肉体を惜しげもなく披露しながら着替え始めた。

「生憎仕事に夢中なんでね。強いて言うなら戒を慕っているよ」

「何だよお前、戒様信者だったのか。戒様も凄いけどな、黎様だってそれはそれは素晴らしいぞ。なんたってあのお方は美人だ。俺たちには使えないまじないが簡単に使えるし、よその世界にだって簡単に行ける。妖はもちろん人の子にだって優しいし、うざい商人相手でも笑顔を絶やさず対応して問題は無事解決だ。この世に黎様ほど優れたお方はそういない!」

「あーそうだ昨夜もいたよこれくらい厄介な黎様信者が。今のお前みたいに黎様は凄いだの美しいだの会いたいだのと騒いで、今は所用で不在だって言ったら拗ねて代金くすねて帰ろうとした。と思ったら余興はないのか演舞が見たいと駄々をこねて赤子みたいに泣き出した」

 そそくさ起き上がってきた水瀬が二人の日常会話に皮肉っぽく口を挟んで、炎典が開けっぱなしにしていた部屋の戸をパタンと閉じた。それから衝立の向こう側で素早く寝巻きを着替え、仕事着の水色の直垂を纏って再び二人の前に現れた。

 水瀬は黎には勝てぬが完敗とも言えない綺麗な顔立ちをした青年だ。筋肉質で低い声の真楯と違い、彼は細身で声に少し高さがある。二、三歳ほどしか離れていなそうに見える二人だが、実際には数百歳ほども差があった。とはいえ常世の数百歳というのはほとんど二、三歳と同じだ。ここにいる三人共、常世の感覚で言えばほぼほぼ同級生だった。

 真楯と水瀬、この二人の従業員が御影屋で担っているのは客を楽しませるために披露するお座敷での余興である。

 真楯の剣舞に合わせて水瀬が唄と三味線、時には琵琶を奏でる演舞の催しは客に大変好評で、これを見るためだけにやってくる者や一日に何度も同じものを見たがる客も少なくない。今や御影屋の名物となっている二人の余興だが、最近になって二人だけだと体力的にしんどい時があるということにようやく気がついた水瀬の訴えで、誰か芸事ができる新入りを探すという話も出ていた。だが今のところ実現には至っておらず、毎日二人だけで過密な公演日程がこなされている。

「そんな奴来たのか。遠慮せず追い出してやれよ。他のお客の大迷惑だろ」

「当然そうしたよ。真楯が」

「おおさすがだな友よ」

「その時はまだ他の連中が戻ってくる前で、黎たちはもう外の世界に出かけた後だったし、店には先に戻った俺と水瀬しかいなかったんだ。まさか水瀬にやらせるわけにはいかないだろ。激昂した客に襲われて怪我でもしたら大変なことになる」

 真楯は時々水瀬に対して過保護だ。水瀬はというと、真楯の心配を少々鬱陶しく思うこともあるようで、厄介な客の対応を任せてもらえないのが少し気に障っているらしい。

 炎典と真楯と水瀬は誰も何も言い出さなくても、誰からともなく円を作って揃って畳の上に腰を下ろし、炎典は持ってきた竹籠を脇に置いて手にした酒瓶を開けた。こうして店が開く前に雑談するのがずっと以前からの仲良し三人組の恒例だった。

「そういえば、昨日はどうしてそんなにみんなして出払っちまってたんだ?黎様がわざわざ俺を助けに翔と外の世界まで来るなんて、嬉しかったがかなり珍しいことじゃないか」

「炊事場の妖たちは食糧と日用品の仕入れに出掛けて朝から留守だったらしい。俺と水瀬はちょっくら用があって、翔に客を任せて昼くらいから少し先の商店街に寄っていた。その帰りにいきなり滝のような雷雨に襲われたんだ。そのせいで俺たちも炊事係も全員、しばらく身動きが取れなくなって帰りが遅くなった」

「次からは買い出しも休憩も時間をずらさないと。何かあった時にまた誰もいないなんてことになる」

 水瀬が炎典の手元の酒を睨みながら言った。

「で、戒と伊桜は会合から帰ろうとしたところに緊急の呼び出しが来たらしい」

「呼び出し?誰からだ」

「戒に執着した困ったヌラリヒョンだ」

「おいっ、その野郎とは外の世界の万妖大路で会ったぞ!俺を買った夜市業者があの野郎の息がかかった妖だったんだ」

「それって奈津外さんのこと?真楯が言ってるのは祖父の方だよ。奈津上。ご隠居様だよ」

「え、何だご隠居か?何でヌラリヒョンのご隠居が戒様を呼び出したりするんだ。引退したはずなのに」

「さあな。とにかく戒はその連絡を受けてまた別の会合に出席する羽目になり、伊桜だけが先に帰ることになったらしい。で、伊桜もその時俺たちと同じ雷雨に遭ってしばらく立ち往生した。その頃藍蘭とお前は近所を仲良く散歩中に話が拗れて大喧嘩。切れた藍蘭が通りがかりの業者にお前を売って、お前は外の世界へ運搬された。いくらか冷静になったところで藍蘭は自分がとんでもないことをしたと気がつき慌てて御影屋に戻り、予定が狂ってまだ誰一人帰宅せずの御影屋で留守番していた黎に泣きついた。黎は急遽店を一旦閉めて、翔と外の世界へお前を助けに向かった。というわけだな」

「本当、炎典の運の悪さには驚いちゃうよ。たまたま通りかかった市の業者が奈津外さんの雇った外の世界の妖だったなんて。せめて常世の妖だったら、こんなにばたばたしなくて済んだはずなのにね」

「全くだ。自分でも驚いている。あいつ、世界を行き来できる特権を悪用しているぞ。外の世界で商売をするなんて、何をどう考えたらそうなるのか俺にはちっともわからねえ」

「奈津外さんを理解するのは難しいよ」

「色々あったからな、奈津の爺さんのところも」

「何があったかは知らんが、火車の大妖怪であるこの俺を売り飛ばそうとしたのは誰だろうと許せないな!」

「原因は藍蘭だけどな」

「ぐっ。藍蘭はいいんだよ、悪いのはあいつだ。人間かぶれした奈津外の野郎だ」

「そういえば炎典って奈津外さんと前から面識あったっけ?」

「いや、ない。ヌラリヒョンはご隠居しか知らん」

 酒瓶を掲げ、炎典はぐびっと酒を煽った。

「ところで、翔は気の毒にな。店に翔を残していくのは気が引けた黎様に連れてこられちまったんだろうな。あちらの世界へなんて、あまり行きたくないだろうに」

「いや、翔が一緒に行きたがったらしいぞ」

「翔が?それも珍しいな。何だか昨日は珍しいことばかりが起きたんだな。酷い雷雨になったり、ご隠居が戒様を呼び出したり、藍蘭が急に怒り出したり、黎様と翔が外の世界へ行ったり」

「別館の窓硝子が割られたりね」

「ああ、それもだ。さっき伊桜に聞いてびっくりしたぞ。お前たち、何も見なかったのか。あんだけ酷いことになってたら、流石にでっかい音がしただろ」

「戻って店を再開した途端、結構な数の客が来たんだ。応対できるのが俺たちしかいないからそれどころじゃなかった」

「そういえば戻ってから別館に目を向けたりする余裕もなかったね」

「じゃあ、いつやられたのかもわからないのか」

「ああ」

 三人の輪にしばしの間、沈黙が訪れた。

 御影屋の建物を守る結界の存在は三人とも知っていた。窓硝子が外側から割られたということは、結界が破れたという現実を示している。

 御影屋に最初に結界を張ったのは何世代か前の犬神の長だ。以来結界は初期のものを土台として代々犬神の長により上書きされ更新されており、今は戒の妖力を使って本館と別館それぞれに結界が張られている。

 常世には八百万の妖がいるが、その中でも犬神はこれまで常世の存続に重要な役割を果たしてきた特別な存在だった。彼らに打ち勝てる者は、昔も今もそうそういない。だから結界が破られたのは、世に名を馳せる偉大な犬神の結界を破ることができるほど恐るべき力を持った最強の襲撃者がこの度常世に現れた、というよりかは結界の強度自体が弱まった可能性の方が高いと考えられる。つまりは戒の妖力だ。

 三人にとってはどちらも嬉しくない可能性だった。

「真楯が追い出した、あの駄々こねた客の仕業じゃないのか?」

 少しして炎典があまりにもあっさりした口調で沈黙を破ると、真楯はぽかんと炎典を見つめ、水瀬はゆっくり瞳を動かし懐疑的な視線を彼に送った。

「本気?」

「何だよ、おかしいか?熱狂的な黎様愛好者を追い出してみろ、どんなことしでかすかわかったもんじゃないぞ。か弱い妖にだって結界を破るくらいの馬鹿力、いきなり出せるようになるってもんだ」

「へえ。炎典もそれくらいできるってことだ」

「そうだとも」

 水瀬は呆れ半分の笑みを浮かべてそっと目を閉じ、首を左右にやれやれと振った。

 真楯が思わず吹き出して笑った。

「楽観的だな、お前」

「昔からだろ、真楯」

「ああ。お前のそういうところには昔からみんな救われてきたさ。それこそ例の戦の時もな」

 自然に口に出してから、真楯は少ししんみりした顔になって続ける。

「今の俺たちにできることは少ないが・・・みんなが少しでも明るく過ごせる手助けは、これからも続けていきたいよな」

「ああ。それが御影屋おれたちの使命だからな!」

 炎典と真楯はしっかりと目を合わせた。そしてお互いを励ますようにぐっと口角を上げた。

「支え合っていかないとな、真楯!種族に関係なく、皆同じ常世が産んだきょうだいだ」

「ああ。家族としてこれからもこの常世の国を共に守ろう」

 二人の間に熱い思いが交わされ、逞しい二本の腕が同時に炎典が持ってきた竹籠へ伸びた。

 その腕をすかさず水瀬が細い両手でしっかりと引き留める。

 きょとん、とあどけなく目を丸くした二人に見つめられ、水瀬は眉をぴくぴく引き攣らせながらにっこりした。

「二人とも、そこでそのお客さん用のお酒飲もうとさえしなければ尊敬してたよ」

「そうか。ありがとう」

「俺も水瀬のこと凄いと思ってるぜ!」

「・・・・・・・・池の鯉の餌にしていいかな?」

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