影灯籠

総角ハセギ

一 百鬼夜行

 闇空にぽっかり浮かんだ満月の下を、和装の女と幼子が通り過ぎていく。

 女は着古したにび色の着物の裾が汚れるのも構わず、廃れた草履に包んだ足で地面の土を半ば蹴るようにして先を急いでいた。渇いた唇を固く引き結んで市女笠を目深に被り、片手でまだ自分の腰の高さにも満たない子供の手を強く引いている。

 幼子は女に連れられるがままだった。まだ物事の多くを理解することができない年頃だ。女と同色の衣を着ているが、それがわらわ用の水干すいかんと呼ばれるものであることはもちろん、この女が自分にとって誰なのかということさえも、この子にはちゃんとわかっているとは言えない。

 二人は影一つない闇夜の市街を何かに追われるように足早に進み続けている。辺りは驚くほど静かだ。寝息一つ聞こえてこない。周囲に建ち並ぶ家屋は皆息を殺している。

 二人の前方では、ぼうっと輪郭のぼやけた橙色の灯りが点々と、縦方向に等間隔で揺らめている。それは道の脇に沿って並ぶ石灯籠が放つ幻想的な夜の道標だった。二人は灯籠の間を通り抜け、さらに先へ先へと進んでいく。

 そこにあるのは閑静な夜の世界から一転、こんな丑三つ時に何やらガヤガヤざわめきが聞こえてくる通りだ。この辺りからもう家屋は少なくなってくる。もう少し先へ行くと、とうとう人は誰もいなくなってしまう。

 その大通りは赤みを帯びた橙色の光であちこちが照らされ、闇の中にその空間だけがぼうっと浮かび上がっているようだった。灯火の下では無数の黒い影が蠢き、通りのずっと先の方まで長い行列を作っている。列の形は乱れに乱れて蛇行しており、それぞれの歩く速度は皆ばらばらで同調のかけらもない。灯火が照らす彼らの姿は多種多様に異なっていた。

 ある女は着物から伸びた首がにょろにょろと麒麟のように長い。ある老人は頭部が大きな灰色の石そのものになっている。ある屏風は幅細い大きな身体をのっそり動かして前へ進み、そのそばでは白い天女の羽織のような長布一枚が夜空を魚のように優雅に泳いでいる。人の顔をした牛は石で固められた道をはずれて、地面に顔を近づけ草を探している。

 <外の世界>ではいつの頃からか、うるうの夜がやってくるとあやかしたちが都の一番東にある大通り、万妖まんよう大路でこうして百鬼ひゃっき夜行やぎょうを起こすようになった。丑三つ時にどこからともなく集ったかと思えばこの通りに長い行列を作り、月が出ている間、長い長い万妖大路を占領するのだ。

 この百鬼夜行の終わりを知る者はいない。朝が来ると彼らの姿は跡形もなく消え去り、踏みならされた地面だけがそこに残る。

 妖の大群を目の前にして女はほんの一瞬だけ怯んだ。だがぐっと口を引き結び、踏み出す足に力を込めて行列に加わる。そしてすぐさま妖たちの間を縫うようにすり抜け次々と順番を抜かしていった。女は終始頭を四方に動かしてしきりに何かを探している。なかなか見つからないので苛立たしげにひび割れた唇を噛む。無邪気な幼子は興味津々に顔を上げて女や周りの妖たちの様子を見ている。

 そのうちに女はようやく目的を見つけ、思わずハッと音を出して口を開けるや駆け足にその妖のそばへと急いだ。

 女の目指す先では巨大な一つ目の大男が、襟が大きく弛んだ黒い浴衣姿に裸足で一人どっしどっしと歩いている。頭には髪一つなく頭皮が剥き出し、よく見ると手や足の指が六本ある。

 女は周囲の妖をやや乱雑にかき分け、大男の前に勢い良く飛び出した。

 小人に行手を阻まれた大男はずんと足を止め、一つ目をぎょろりと動かして女を見下ろした。

 行列は止まることなく大男と女と幼子の奇妙な三人をその場に残し道を流れていく。

 女は無言のまま大男を見上げる。そしてその痩せ細った身体が完全に恐怖にすくんでしまう前に、己の手に繋いだ幼子を大男の眼前へぐっと押しやった。

 大男の目が女から幼子に移される。幼い瞳がぽかんと大男を見上げる。

 妖は長いこと幼子を品定めするように眺めていた。それから少ししておもむろに懐に片手を差し入れたかと思うと、何やら中に何かがパンパンに詰められた小さな麻袋を取り出し、ずんっと女に向け片腕を差し出した。

 その刹那、女は大男の手から袋をもぎ取る。そしてあれほどきつく握っていた幼子の手をぱっと離してすぐに勢い良く踵を返したかと思うと、瞬く間もなく幼子をその場に残し行列を逆走し始めた。

 女は向かってくる妖たちに何度もつっかえる。しかしそれでも速度を緩めたくないとばかりの勢いで走り去っていく。

 大男は女に関心を持つことなく、無言で幼子の腕をむんずと引き上げるように掴んで、再び万妖大路をのっしのっしと歩き出す。

 みるみるみるみる小さくなっていく女。離れていく人の影。

 幼子はまだ泣き出さなかった。女が遠ざかっていくのをただ目を丸くして見つめている。大男に腕を引っ張られ歩かされつつ、振り向いてじっと、見つめ続けている。

 やがて、赤みがかった闇の中に縁取られた女の後ろ姿は、深い底なし沼のような黒い景色の中に溶け消えて、まだあどけない生気を宿した幼子も、八百万の妖たちと共に万妖大路の果てへと消えてなくなってしまった。




 閏の日だ。

 今宵もまた、百鬼夜行が起きる。




「・・・しょう。大丈夫?」

 犬神いぬがみれいのどこか妖しい艶ある声が、犬神翔の意識を過去から現在へと急速に引き戻す。

「・・・っ・・・!・・・あ、すみません黎兄さん。ぼうっとしちゃってて」

 目を瞬かせた翔は、慌てて取り繕った笑顔をすぐ隣にいる兄、黎に向けて見せた。だが、常世とこよの国の中でも稀代の妖術師であると称されるこの犬神黎を相手に、ただの人間である翔の誤魔化しが通用するはずもない。

 黎はいつもその白みがかった銀色の髪に、紅と青で菱形紋様が縫われた長い被衣かずきを引っ掛けている。翔の位置からでは月光を背後に受けた黎の表情は被衣の影になってあまりよく見えない。だが、その血の気のない薄い唇に鬼神をも惑わす妖しげな微笑が浮かび、奇妙に光る赤い瞳が全てを見通すかのように翔の黒い瞳の奥にある何かを見つめていることはわかった。

 黎は僅かに首を傾かせ翔を見下ろす。

「遠慮しないで戻っていいんだよ?翔に無理をさせたなんて知られたら、俺がかいにどやされちゃう」

「戒兄さんはそんなことしないですよ。それに、本当に大丈夫ですから。今夜は黎兄さんを手伝います」

 時々翔は意地でも自分の意思を貫こうとすることがある。黎と長兄の戒はそういう時には必ず翔の意見を尊重するようにしてきた。それは翔がまだ無垢で人見知りな幼い子供であった頃から、至って平凡だが外も内もそれなりに面が揃った青年に成長した今でも変わらない。

 黎は銀髪に赤い虹彩だが、翔は黒髪に黒目だった。その見た目の違いからも何となく想像できるように、黎と翔は血のつながった兄弟というわけではない。だが二人はもうずっと前から兄弟として暮らしている。こことは異なる、今となっては妖ばかりがすんでいる、原始から続く常世の国という世界で。

「そう。そこまで言うならいいけれど」

 黎がそれ以上何も言ってこないことは、翔にとってありがたかった。できればなるべく触れられたくないし、自分でもあまり触れたくないのだ。

 ずっとずっと昔のことだ。最早実際に経験した記憶と頭の中で思い描いた妄想、そのどちらであるかの判別も明確につけられないほど確信がない曖昧な記憶である。だというのに、いまだに翔はあの閏の日を恐れていた。あの百鬼夜行があった日の記憶を思い出すことを恐れていた。

 それでも翔が今夜ここへ来たのは、そんな意気地なしの自分を変えたいと思ったからだった。真実を探り出し明らかにすることで、早くこの心を蝕み続ける得体の知れない恐怖を拭い去ってしまいたかった。

 今日の御影みかげ屋には翔と黎の二人しかおらず、朝から手が足りていなかった。そんな中で、黎の配下の者が起こしたある困った問題の知らせが御影屋に飛び込んできた。

 御影屋を経営しているのは長兄の戒で、翔は少し前から店の仕事を手伝い始め、最近では本格的に関わるようになっていた。当初翔は店番を任され黎を見送るはずだったが、行き先を聞き勇気を出して黎に同行することを決心し、荷物持ちでも何でもいいから一緒に行かせてほしいと頼み込み、彼に付き従って常世の国を出て、はるばる外の世界のこの万妖大路までやってきたのだった。

「ここも随分変わったね」

 万妖大路に至る道には妖しげな灯籠がずらりと並んでいる。照らし出された道の端を二人は並んで歩いていた。辺りには他に誰の影もない。ゆっくり歩いている黎と翔の履物の音が騒音に思えてくるほど静かだ。

 翔が知る限り黎は日頃、滅多に常世の国を出ることがない。彼から外の世界にまつわる話を聞いたのはこれが初めてかもしれなかった。

「昔はどうだったんですか」

「大路に入りきらない妖たちがこの辺りにもたくさんいて、とても活気があったよ。何せ万妖大路と言うくらいだからね」

 たくさんの妖という意で、万妖。この先の大通りにはそんな字があてられている。

鎌鼬かまいたち、土蜘蛛、牛鬼、河童・・・当時は雪女もいたかな。初めて来た時はびっくりしちゃった。常世以外にも、まだこんなに妖族が残っていたんだなぁって」

「ここには常世の国にはいない妖もいるんですね。雪女とか河童って、僕はまだ見たことがないです」

「あぁ、今はいないよ?雪人族と河童族はあのいくさの時、常世の国との密通を疑われて殺されたんだ。常世うちには元々いないから、もうどこの世界にも存在していないということになるね」

 戦の話題が出ると、翔はいつも返答に困ってしまう。その戦があった頃、自分はまだ常世の国にいなかったので詳しく知らないということもあるが、この繊細な話題をどこまで口にしていいのかわかりかねているせいでもある。

 常世の者が『あの戦』や『その戦』と言う時、それらは全て同じ戦乱期のことを指し示している。その戦は常世の国と、今翔と黎がいる万妖大路がある世界、人間が支配している外の世界との間で起こった。戦はあまりにも長い間続けられて遂に終焉を迎えたが、目に見える傷と目に見えない傷、その両方ともがいまだに癒える兆しなく常世のあちらこちらに残り続けている状態である。

 実際のところどう思っているのかは定かではないが、黎は戦の話題にあまり関心を示さない方だった。戦の話が出ると周囲の妖たちは固い表情を浮かべたり口調が重くなったりするが、黎はほとんどの場合表情も口調も全く変わらずけろりとしている。いつも妖しく艶やかに微笑んでいて、ちっとも本心が見えてこなかった。

 黎はすぐに話題を切り替えた。

「さてと。実を言うとね翔、もう炎典えんてんを連れていそうな妖の目星は大体ついているんだ。あの時間あの場所に通りかかった妖で、外の世界の市場関連の者で絞ればそんなに多くはなかったからね。あとは朝が来る前に彼を助け出して、無事に御影屋に帰るだけ。翔には常世に帰るまじないを手伝ってもらおうかな。今夜は名のある妖が多くて、彼らの気配で術が乱れてしまいそうだからね。簡易結界用のお札は持ってきた?」

「はい、確かに」

「いい子。さあて、ここから先は万妖大路だ。はぐれないように、俺のすぐ後ろについているんだよ」

 そうだ。

 既に、今宵の百鬼夜行は始まっている。

 やってきたのだ。あの場所を練り歩く妖の行列を見る日が。今まで避けてきたことに向かい合う瞬間が。

 翔はぐっと拳を握りしめた。

 もしかしたら自分はとうとう今夜、知ることになるのかもしれない。

 今はもう失ってしまった、遠い昔、逃げ去る母の背を見つめたあの百鬼夜行の、続きとその後の記憶を。



 丑三つ時の暗闇と揺らめく火の灯りが強い。

 今夜も万妖大路は妖の大行進真っ只中にあってひどくざわついている。

 犬神黎の足取りには一瞬の迷いもなかった。彼には行列のどの部分に目的の妖がいるのかわかっているようだ。

 二人の進む先々で、妖たちは黎に気づくや慌てた様子で端に退き彼に道をあけた。黎に只者でない気配でも感じ取っているのだろうか。おかげで黎と翔はすいすい順番を抜かしていくことができた。

 不意に黎が後ろを振り向き、細い指で前方を示しながら翔に瞬きした。

「いたよ。あれが見える?」

 爪紅の先に、上半身が人間、下半身が巨大な蜘蛛になった中年男が大きな台車を引いているのが見える。

「彼は仕入れ屋の南雲だ。・・・台車を見てごらん」

 台車の上には何やら意思を持って蠢いているものが乗せられている。それは獅子のたてがみのような黄褐色の髪を持ち、骨格がしっかりした角ばり気味の顔が興奮のせいか紅潮し、はだけた着物の襟元から厚い胸板が露出した若い健康そうな男だ。彼が黎と翔が救いに来た妖、炎典だった。炎典は首に先端が台車と繋がった鉄の枷をはめられた状態ながらも全身に力がみなぎっている。ちっともじっとしていない。蜘蛛男に何やらまくしたてながら台車の上で暴れ回っている。そのうち炎典は興奮気味に振り向きざま、視界に二人の姿をとらえるやいなや、目を見開いてまるで雄叫びのように叫んだ。

「あっ!黎様ぁぁーっ!!翔ぉぉーっ!!ここです、ここー!!」

「うるせぇ!!いい加減にしないか!!・・・あっ、おっ、これはこれはっ、お久しぶりですなぁ旦那」

 憤怒の顔で殴りかかんとしていた蜘蛛男も振り向きざまに黎に気づいて慌てて顔色と口調を変える。蜘蛛男は大急ぎで行列を一旦抜け、台車を路肩に停めた。

 近くへやってきた黎と翔におずおず頭を下げながら、にたりと笑う蜘蛛男。

 黎は彼にもお馴染みの微笑を返してあげた。

「こんばんは、南雲さん。お元気そうで何よりです」

「ええええ元気でしたとも。いやあ旦那もお変わりなく。今夜も大変お綺麗ですな」

「ふふ、ありがとう。ところで南雲さん、突然ですみませんが、俺たちにそこの彼を譲っていただけません?」

「ははあ旦那、まさかこいつに興味がおありで?旦那がそういうならわたしゃ別に構いませんがね。本当にいいんですか?こいつはちと、阿保ですぜ」

「な、何だとっ!?誰が阿保だ貴様!俺はっ、俺は古より犬神の一族にお仕えする火車かしゃの大妖怪、炎典様だぞ!くそっ、今は呪いのせいでこんな姿でしかいられないが、元は泣く子も黙る業火を纏ったつよ〜い妖で」

「そういうところが俺たちがこの子を気に入っている理由の一つでもあるんですよ。それに実は彼はうちの眷属けんぞくなんです。手違いで貴方に引き渡されてしまったようなんですが、売りに出す予定は今のところありませんから、是非引き取らせてください。ささ、帰るよ炎典」

「ううっ。なんてお優しいんだ黎様は。はい黎様、今行きま・・・」

「おやおやどうしたんだい南雲。何か問題かな?」

 耳の近くで急に声がして、翔は思わずぎょっと黎の背後に飛び退いた。一体いつからそこにいたのか、いつの間にか隣で白地に金箔の帯を締めた浴衣姿の男が一人、扇を胸元でひらひらさせている。印象では三十路前後と若く見え、彫りが浅めの顔立ちで全体的に色素が薄く、声も明るく若々しい。そして当たり前のように人の姿をしているがもちろん人ではなかった。それは慣れればわかるようになる妖独特の気配や、ここが人間の立ち寄らぬ百鬼夜行の場であることからでも容易に推測できる。

 男は黎を見て僅かにその目を見張った。

「おや、犬神黎じゃないか。珍しいねこんなところで。とうとう兄貴の首を渡してくれる気になったのかな?」

「こんばんは、奈津外なつがい。今夜は別の用事があってここに来ただけだよ」

「それは残念。犬神の首は外の人間どもに高値で売れるからいつでも大歓迎なんだけれどね。うーんと、黎の隣にいる君は・・・・・・」

「弟の翔だよ。犬神三兄弟の末っ子」

 途端に奈津外は表情を固くした。

「弟?・・・でも、その子は明らかに人の子じゃないか」

「そうだね」

「君が犬神家に迎え入れたのか?外の人間を?」

「そう」

「いつ?」

「かなり前だよ。君が家出した直後かな」

「なんてこった。戒は許していないんだろう?」

「ううん。みんなで仲良く御影屋に住んでいるよ」

「ははっ。黎、君は一体どういう神経をしているんだ?外の人間が常世の国に何をしたか、まさか君が忘れたわけじゃないだろうね・・・」

「覚えているよ。もちろん」

 黎の口調はいつも通り穏やかだ。それなのに言葉の端にはどこかぞっとするような響きがある。

 数秒ほど、二人の間に奇妙な空気が流れた。

 顔をあからさまにしかめていた奈津外は、やがて歪な笑いを口元に浮かべて黎を見る。

「相変わらず変わった男だねえ君は・・・・・・。まぁところで、用事って何?うちの眷属が何かやらかしたかな」

 慌てて蜘蛛男が平伏し奈津外の前に進み出た。

「どうやら今日、常世の猫又から仕入れたこの火車が犬神様の眷属であられたようでして。奈津外様。お返しするところでございます」

「おやおや、それは困るなあ。そいつは次の夜市に出そうと思った目玉の一つなんだよ。代わりのものがないとうちの評判が下がる」

「迷惑をかけてすまないね。でも、恋仲の妖が痴話喧嘩の果てに怒りに任せて片方をついつい、偶々居合わせた南雲さんに売り飛ばしてしまっただけなんだ。お詫びはするよ。八岐やまたの大蛇おろちの脱皮した抜け殻一匹分でどう?」

「八岐大蛇か・・・。悲しいかな、一生に一回しか脱皮をしないその生き物は世界にたった一体だけ、しかもその抜け殻は奴の頭数八つ分しかないはずなのに、市場では毎回何百枚以上もの大蛇の皮が安い値で売られ物好きな客たちが喜んで買っていくんだよ。本物だろうね?」

「もちろん」

「偽物だったらどうする?」

「お望み通り戒の首を取って君に渡す」

「なるほど。わかった。大蛇の抜け殻と火車の交換で手を打とう。南雲」

「へいっ」

「そいつを解放してやれ。それと、今度からいつもと違う経路で仕入れる時にはちゃんと相手を確認することだ。いいね」

「へいっ、奈津外様」

 炎典の首枷がガチャリと外された。

「ふう!やっと自由に動けるぞ!」

「ありがとう。助かるよ」

「いいさ。本物の大蛇の皮の価値は火車妖怪とは比にならないからね。遅滞なく郵送してくれ、次の市は明後日なんだ。それにしても御影屋も大変だねえ。経営に困ったらこっちに来ないか。その時は俺がいくらでも手を回せるよ」

「ありがとう。一億年後くらいに声をかけるかもしれない」

 黎は別れの挨拶の代わりに妖艶な微笑みを奈津外と南雲に向けて投げ、翔と炎典には目で帰路を合図し被衣の裾を艶やかに翻した。

 すれ違う妖たちに遠慮なく好奇の視線を注がれながら、三人は百鬼夜行の脇を淡々と逆行していく。翔の前には黎、すぐ隣には炎典が位置している。

 ひとまず目的は達成だ。無事に仲間の炎典を取り戻せた。

 だが翔が胸に秘めていた目標は達成できなかった。黎の行き先が万妖大路と聞いてから、もしかしたら今日ここで自分の過去について何かがはっきりわかるかもしれない、と怖さ半分期待していた目標だ。

 勇気を出してやってきた百鬼夜行だが、正直、何もわからなかった。もっと何か感じたりわかったりするものがあると思っていたが、考えが甘かったらしい。普段見慣れていない妖たちの素の姿を見て多少恐怖や緊張を覚えてしまったり、奈津外に他の妖たちから何万回と受けてきたのと同じような目で見られて閉塞したくらいで、それ以外に特段抱いた感情はなかった。

 やはり、あれは記憶だと思い込んだ妄想だったのだろうか。もしかしたら、実際にあった出来事ではなかったのかもしれない。心に思い出す遠い日の記憶の映像は驚くほど空想と似ているものだ。

藍蘭あいらんの奴め、戻ったら戒様に言いつけてやる。いくら戒様や黎様が可愛がっている猫又だろうと俺は遠慮しないぞ」

「あまり責めないであげて。きっと寂しかったんだよ」

「寂しかったからって、好いている相手を売り飛ばす奴がいますか黎様!」

「魔が差しただけということにしてあげたら、きっと彼女も心を開いて色々打ち明けてくれるんじゃない?」

「んまあ、黎様がそう言うならそうしますが・・・。でも、いくら何でもぶっ飛びすぎてますよ。いつもと変わらない喧嘩がいつの間にか変な方向に行っちまったのは、確かに俺にも責任があるような気がしないでもないが・・・でもやっぱりぶっ飛んでるよな、翔。・・・・・・・翔?おーい翔、何で立ち止まってるんだ?」

 炎典が呼びかけても、翔は全く反応しない。

 その細い身体は硬直し、目は激しく見開かれて、行列の中に何かを見つけてからずっとその場に立ち尽くしている。

 炎典が翔のもとに駆け寄っていった。顔を覗き込むが視線が合わない。

「翔。聞こえてるか?おいどうしたんだ。黎様、急に翔が変ですよ」

 黎は翔の視線の先を確認する。そして炎典に顔を向けた。

「炎典。先に行って、近くの路地で待っていて」

「ええ、でも大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。すぐに行くから」

 従順な眷属は指示通りてってってっと行列の脇を一人で先に駆けていく。

 その様子を見届けてから、黎は弟にそっと目を移した。

「・・・・・・・翔」

「・・・・・・・・」

「翔。あいつと話したい?」

「えっ・・・?」

 ハッと気がついたように瞬きして、翔は黎の方を振り向く。

 月光がその青白い肌をさらに白く見せている。口元に浮かんだ笑みはいつものように優しい。だがそれは何かを含んでいるようにも見える。得体の知れない何か。まるで黎という存在そのもののような。

「・・・そんなこと、できるんですか?」

「できるよ。・・・おいで。一緒に行こう」

 そう言って黎は翔の片手を取った。黎に手を引かれた状態で、翔はもう一度百鬼夜行の中に己の身を投じる。

 行列を横切る二人にまたもや妖たちは律儀に道をあけてくれた。行列の流れが一時的に滞り、小さな混雑が生まれている。

 距離が近づいていくにつれ、翔の心臓の鼓動はどんどん早くなっていく。

 近づいている。みるみる、近くなっていく。あぁもうすぐ目の前に来る。あの妖がもうすぐそばに、ほら。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 行く手を阻んだ邪魔者に一つ目の大男は足を止めた。大きな目でぎょろりと小さな影二つを見下ろし、その体勢のままちっとも動こうとしない。翔は正面から一つ目を見上げる形になり、まるで石像のようにその場に立ち尽くす。

 いざ目の前にすると言葉が喉に詰まったように出てこない。翔は何も言えなかった。相手も無言だ。着流しの下で嫌な汗が背を伝っていくのを感じる。

 一体自分は何をしたかったのだろうか。何をこの妖に尋ねようとしていたのだろうか。何を確かめるために今ここにいるのだろうか。机に向き合って考えた数々の言葉は本番で頭の片隅からぼんっと消えてしまった。わからない。自分は何を知りたくないのだろう?

 ふと目線をずらすと、一つ目の頭の横には月が光っている。冷感が美しい、青白い満月だ。流れていく雲の影にもその輝きを覆い隠すことはできない。

 あれと同じ月を前にもこの場所で見たような気がした。

 そういえばあの時もずっと、この一つ目の巨大な男は無言だった。あの時も同じ、外の世界では冬にあたるはずの如月に浴衣を着ていた。裸足だった。

 いずれにせよその瞬間、曖昧だった考えは確信に変わった。あれは夢ではなく、現実の記憶だったのだ。

 行列は、三人に構うことなく先へ先へと川の流れのように進んでいく。

 黎は何も言わずに隣からじっと翔を見守っている。

「・・・貴方は・・・僕を覚えていますか」

 やっとのことで絞り出した声は震えていた。

「昔、貴方に僕を・・・幼い子供を預けた女性を・・・覚えていますか」

「・・・・・・・」

「あれは、いつのことですか。僕はあの後どうなりましたか。貴方はどうして僕をあの女性から預かったんですか。百鬼夜行の後、僕たちはどこにいて、何をしていたんですか。あの女性は一体・・・誰なんですか」

 自分は一体、何者だったんですか。

 息継ぎもせずに言葉を続けたせいで息が切れた。

 肩で呼吸をする翔とずっと目を合わせたまま、一つ目はいまだ微動だにせず、じっと小さき人間の姿を見下ろしている。

 そうして数分が経過しても、何も変わらなかった。

 やがて翔は諦めた。ゆっくり黎に目を移し、弱々しく微笑んだ。

「・・・兄さん。ありがとうございます。もう帰ります」

「満足したの?」

「はい。だいぶすっきりしたので、十分です・・・」

 件の妖からは何一つ回答は得られなかったが、収穫がないこともなかった。それに続けようにも心が既に疲れているので無理だ。今日はもう十分にやっただろう。これで帰るしかない。

 黎は目元をやわらげて翔を見つめた。

「・・・そう」

 翔はふうと息を吐いて、最後に一度、しっかりと一つ目を見上げ、丁寧にぺこりと頭を下げてから、黎と共に行列を抜けていった。


 万妖大路を出てすぐの場所で、道の脇の灯籠のそばに腰を下ろしていた炎典は、二人の姿を見てよっこらしょと立ち上がった。

 翔は己の鼓動がまだ少し速いままであることに気がついた。緊張が解けた途端に指先まで小さく震えてくる。どうやら無意識のうちに気を張ってしまっていたらしい。ひどく肩も凝っていた。

 炎典の近くに来たところで、不意に黎が翔の肩を優しい風のようにそっと一撫でしていった。すると嘘のようにたちまち肩が軽くなる。震えが止まる。

 翔は目を丸くして黎を見上げた。

 黎は伏せ目がちにうっすらと微笑んでいた。

「さて。家に帰ろうか」

 黎の言葉を合図に、翔はいそいそ着流しの懐から用意していた無地のお札数枚を取り出して、それを地面の、三人を囲むような位置に円を描くようにして置いて回った。

 ここから常世の国に帰るためには黎の術が必要だ。命の均衡を保つため、交わらない複数の世界を行き来することができる者の数は限られており、翔と炎典は自分たちだけでは常世の国を出ることはできず、外の世界から常世の国へ戻ることもできない。これらのお札は黎が帰還の術を三人分まとめてかけている間に、周囲から思いがけない邪魔が入らないよう簡易的な結界を築く安全対策として使われる。お札の管理は、御影屋で翔が初めて任せてもらえた仕事だった。

 お札が作り出した円の中央には黎が立ち、翔と炎典はそのそばに身を低くして控える。黎自身には、何の道具も必要ない。彼が闇夜に呪いの言葉を囁けば、それに応じて掲げられた左手から霊魂のような青白い光の球がぼうっと浮き出てくる。その球体の光は徐々に拡大していき、最後には強烈な白光となって三人を身を丸ごと包み込む。そうして彼らの魂と肉体は外の世界から常世の国へと運ばれていくのだ・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る