第21話 リアルとリアリティ
部屋の中が一瞬、困惑による沈黙で満たされた。それを破ったのは星原だ。彼女は艶やかな黒髪をかきあげながら千駄木くんに確認するように尋ねる。
「つまり、あの犬を助けたというアカウントの主はあなたではないということなのね?」
「はい」
彼は大きく頷いて、説明を始める。
「そもそも、あの時間帯にロードワークをしていたのは僕だけだというのはデマなんです。僕の他にも何人かグループに分かれて校外でロードワークをしていたレギュラー部員は居ます。それに問題の事件があったのは、僕がロードワークをしているコースからも外れた地点です」
だが、僕はその話を聞いてもどうにも腑に落ちない。
「それなら、何で君がやったことになっているんだ? そういう事実があるなら流石に矛盾に気が付く人間も出てきそうだけど」
「たまたまその時は一人でトレーニングメニューをこなしていたんです。だから証明も証言してくれる人間もいなくて、自主練習でT駅近くを通ったんだろうと思われていまして。それと、問題なのはその後のアカウントの投稿なんです」
「その後の投稿?」
「例の事件の後も問題のアカウントはちょくちょく文章や画像を投稿しているんです。『今日は練習試合で隣の市に行った』とか『帰りに通った橋から見た夕陽が綺麗だった』みたいに」
野球部の少年はここで何とも理解できない事実を突きつけられたかのような、歪んだ表情になる。
「その行動の流れというか経緯が僕と一致しているんですよ」
「え?」
「だから、僕が遠征に行ったときにはそのアカウントもそのことを投稿していましたし。他にもちょっとした日常の出来事や帰りに寄り道をした場所なんかも投稿していて、その内容が僕の行動した通りだったんです」
「なるほどね」と僕は得心する。
「つまり君と同じ行動の履歴が例のアカウントから投稿されていたために、『君が例のアカウントの主だ』という説に信ぴょう性を与えることになったわけだ」
「そうなんですよ。それで、あれは自分じゃないと言っても信じてくれないわけです。いやむしろ『ああ、アカウントが割れるのが嫌なんだよね』とか『名乗るほどの事じゃないってことなんだ』っていう雰囲気で。ますます僕がやったということが信じられていく有様でして」
「しかし、別に君はそのことで不利益を被ったというわけでもないんだよね。気にすることもないんじゃないか?」
自分を騙る人間が現れて、何かの悪事や評価が下がるような発言をしたというのなら困ることもあるだろうが、むしろその逆である。善行を働いた誰かが自分を装うかのようにふるまっているのだ。
だが千駄木くんは「他人事だと思って軽々しく言わないでください」と不愉快そうに鼻を鳴らした。
「逆に気持ちが悪いじゃないですか。いや僕の評価を下げるようなことをしたというのなら話はわかります。何かの拍子に恨みを買ってしまうことだってあるでしょうし、嫌がらせが目的なんだろうと。……でもそうじゃなくて、評価を受けるようなことをしながらそれをわざわざ僕がやったかのように見せかけているんです。しかも何故か僕の行動を細かく把握している。目的が判らなくて、そこが不気味なんですよ」
彼の後ろの椅子に座っていた虹村が僕の方をみやる。
「まあ、そういうわけで昨日クラス委員会に相談に来たところをたまたま私が話を聞くことになったんだよ。とはいっても部活の運営関係の問題なら対応もできるけど、この手の不可解な話となるとどうしたものかと思ってね。月ノ下くんたちに助けてもらおうと思ったわけ」
携帯電話をいじっていた星原が「ふうん」と唸った。
「問題のアカウントだけど。確かにここ数週間で画像の投稿が増えているわね。それに野球のボールやユニフォームもさりげなく写っていて、野球部員であることを露骨に匂わせているという感じもある」
どうやら彼女は携帯電話で、SNSにアクセスして例のアカウントの投稿を確認していたらしい。星原の見解に千駄木くんが「そうなんです」と相槌を打つ。
「決して自分から僕の名前を名乗ったりはしないんですよ。個人情報を質問されても上手くはぐらかして。……そのくせ、画像や日常の行動報告みたいな投稿は僕をトレースしているんです。まるで表向きは僕であることは否定も肯定もしないけれど、実は僕なんですよとさりげなくアピールしているようで」
いっそはっきりと千駄木くんの名を名乗るのであれば「本人の証拠を見せてほしい」といって自撮り写真を見せてもらうか本人にしかわからないはずのことを質問して、なりすましかどうかを確認することができる。
それを解っているからこそなのだろうか。このアカウントの主は決して自分から千駄木くんであるとはっきり主張はしないわけだ。
「事情は判ったよ。でもそういうことなら千駄木くんを装っているこのアカウントは、身近な人間、つまり野球部員の可能性が高い。君の行動を細かく把握しているくらいだからね。だからまずは、明日にでも千駄木くんと近しくて、問題の日時にロードワークをしていた部員を紹介してくれないか?」
僕の提案に千駄木くんは不安そうに眉をしかめる。
「それは構いませんが、いきなり月ノ下さんが話を聞こうとしたら怪しまれませんか?」
「うん。だから新聞部に協力してもらって、取材という体で話を聞かせてもらおうと思っている」
新聞部の清瀬とはあまり折り合いが良くないが、背に腹は代えられない。
彼は僕の言葉に納得したようで「わかりました」と頷いて立ち上がった。
「……それでは、明日の部活練習後に時間を作ります。もし解決していただけたら、お礼に学校近くのフルーツパーラーのサービス券をお譲りしますので」
その言葉に星原は「なんだか急にやる気が出てきたわ」と目を輝かせる。
なんとなく無言で虹村をみやると、彼女は「あはは」とあいまいに笑って僕から目をそらした。さては、星原が甘党であることを話して報酬を準備させたな? まあ、こちらとしても何もないよりはモチベーションが上がるけれども。
そんな僕の内心をよそに千駄木くんは軽く会釈をして、そのまま廊下へ足を踏み出したのだった。やがてバタンと扉が閉まる音が響き、その場が一瞬静まり返る。
部屋の中が僕ら三人だけになったところで、虹村は「いやあ、ごめんね。二人を巻き込んでしまって」と両手を合わせて拝むポーズをした。
「なに、僕だって虹村に協力してもらったこともあるし。持ちつ持たれつだよ。……しかし、不思議だなあ。本人も一応否定しているのに、あの犬を助けたというアカウントが千駄木くんだという話が事実として広まっているなんて」
僕も噂を鵜呑みにしていたので偉そうなことは言えないが、ある程度は疑う人間だって出てきても良さそうなものではないだろうか。
そんな疑問を口にする僕に星原が苦笑いを浮かべる。
「それは、あれでしょう。千駄木くんみたいなルックスの良いスポーツ系男子が、犬を助けたというエピソードが『いかにも』という感じで受け入れやすいからよ」
虹村も「それはあるかもねえ」と眼鏡を指で押し上げながら相槌を打った。僕は訳がわからず「いや、どういうことだよ」と彼女らを見やる。
「つまりね、月ノ下くん。人間は『リアルよりもリアリティ』『現実よりも現実味のある作り物』の方を求めているということよ」
「『リアルよりもリアリティ』って何……?」
現実よりも現実味があるものなんてあるのか?
なおも困惑する僕を、星原は横目で見ながら説明を続けた。
「例えばね、こんな逸話があるの。あるところに美術大学を目指す学生がいて、講師の先生に手のデッサンをするように言われる。それで、『自分の手』をモデルにして忠実に描いたら『こんなに指が丸いわけがないだろう』と先生に叱られてしまったんですって」
「ええ? つまり『その人の手は生まれつき指に丸みがあった』。だからその通りに写実的に描いたのに駄目だと言われたということか」
「うん。それでその後で自分の手を見せたら『本当に指が丸い』と納得してもらえたんだけれどね。『これでは試験に受からない』『もっと細くて指らしい指を描きなさい』って言われたそうよ」
「要は現実の『手』ではなくて、いかにも手としてイメージされる『それらしい手』をデッサンで書かないとリアルな描写をしたと判断してもらえないんだな」
なんだか理不尽な話だ、と僕は顔を引きつらせる。一方、向かいに座った虹村はもっともらしく腕を組んで頷いていた。
「本物よりもそれらしいまがい物の方が良いってことだよね。……料理の世界でも同じような話を聞いたことがあるよ。本格的な寿司を食べてもらいたいと思って海外で日本人の寿司職人が店を出しても、生の魚介を食べる習慣がない欧米だと受け入れてもらえなかったりするんだよね。それでカリフォルニアロールみたいな現地の好みに合わせたアレンジをした方が人気が出たりするんだって。本物の和食より、和食らしい雰囲気のある自分たち好みの料理の方が良いってことみたい」
日本人からすれば、海外で寿司が食べられるという店に行って現地のアレンジがされたものを出されたら「こんなのは本物の寿司じゃない」と思うだろう。しかし海外の現地人からすれば本格的な寿司ではなく、寿司らしい要素があるアレンジ料理の方が受け入れやすいというわけか。
「そういう話なら僕にも覚えがある。時代劇でもさ。江戸時代の既婚女性は『お歯黒』っていって歯を真っ黒に塗っていたはずなんだ。でも女の人が笑うたびに黒い歯が見えたらビジュアル的に怖くなるから、そこまで再現しているのは大河ドラマでもあまり見ないんだよな」
中世ファンタジーだって、水洗トイレもなく風呂は蒸し風呂が多かったため衛生面に問題があるはずだが、そのあたりを時代背景に合わせて描写しているフィクション作品は少ないと思う。
結局のところ人は「江戸時代」や「騎士物語」のような世界に憧れるとはいうが、都合の悪いところまでは観たくないのだ。本物の江戸時代や中世の世界で暮らしたいわけではなく、それらしい雰囲気のある虚構の世界を観て楽しみたいだけだ。
「まあ、そう考えると『現実よりも現実味のある作り物の方が良い』っていうのも理解はできるよ」
ぼやくように答える僕に星原が微笑む。
「例の千駄木くんが犬を助けたヒーローだって信じ込む人たちもそういうことよね。実際には犬を助けたというのも車が近づいてくる前に歩道まで連れ出したという程度で、大してドラマティックじゃなかったのかもしれない。助けた人物もどんな見た目をしているのかはわからない。だけど、そういう現実よりも『ルックスの良いスポーツ系男子が車に轢かれかけた犬を助けた』という現実味のある噂話の方が話として聞く側には都合が良いということなんでしょう」
「でもそういう人たちは自分たちはあくまでも現実に起きた事件に触れているんだと考えていて、ありのままの現実を受け入れていないなんて思っていないんだろうねえ。自分たちの願望にあわせて現実を歪めていることを自覚できていないんだよ、きっと」
ポニーテールのクラス委員はかすかに鼻を鳴らして、頭を掻いた。
確かに虹村の言うように、人間は時に現実にあるものを求めているようにふるまいながら、実際には願望交じりの作り物を求めていることがある。
では例のアカウントの主が本当に求めているもの、目的は何なのだろうか。彼自身は果たしてそれを自覚できているのだろうか。
今回の「美談」に騒ぐ人々について議論する二人の少女たちを眺めながら、僕はふとそんなことを考えていたのだった。
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