第四章 血を欲しがる女 ~第一節~




 何をするにも元手は必要になる。

 逆にいえば、元手に余裕があれば、何を始めるにもすんなりとうまくいく。天童てんどうに声をかけた次の日には、すでにせんぎょくは手頃な家を借り、そこをけんこうでの根城にすると一同に告げた。おそらく、かなりの銀子をばらまいたのだろう。

「……あんたはどっちかというと剣士って柄じゃないな」

 運河の上を行く船の竿をあやつりながら、天童はいった。

「それはどういう意味です?」

 舳先に座って何ごとか書きつけていた泉玉が、肩越しに天童を振り返った。

「いっとくが誤解すんなよ? あんたがとびきり腕が立つってことはもちろん俺も知ってるさ」

 実際、先刻から泉玉はずっと天童に背中を向けているが、そこに不意を突いて打ち込めるような隙はまったくない。少なくとも、泉玉の腕が天童におとるということはないだろう。

「……ただ、あんたは剣以外にもあれこれ多才なもんでな、そういう意味で剣士っぽくないって思っただけだよ。そうだな、世が世なら女軍師ってとこか」

「軍師ですか。……ま、悪い気はしませんね」

 きょう一日、天童は泉玉といっしょに必要な情報を集めがてら、建康の街を回って地理を頭に叩き込んでいた。もう日は没し、運河沿いの店の軒先には、はなやかな灯籠の明かりがともり始めている。肉の焼ける匂いや酒の香りがただよってきて、天童の鼻先をくすぐった。

「……そういやよ、何つったっけ? その、えーと」

こうばんですか」

「そう、それ。……何だってそのじいさんを斬ることになったんだ?」

「さあ? 依頼人の事情は知りませんよ。興味もありませんね」

「そうじゃなくて、あんたらが斬ることになった理由だよ」

「わたしたちが?」

「あんたらっていうか、げんしょうの旦那か。よく判らねぇけど、たぶんあんたは金が目的でやってるよな? けど、元旦那は……何だろうな、金のほかに何か目的があるような気がするんだが」

「……おうけいが目をかけているだけあって、おまえもまんざら馬鹿ではないようですね」

「それ、ほめてないよな?」

 天童が小さく舌打ちをすると、泉玉は筆を置いて楽しげに笑った。

「まあ、元章は元章で、考えていることがあるのだと思いますよ。わたしはよく知りませんが」

「そこにも興味ねェのかよ」

「ええ、ありません」

「だって……え? あんたら、夫婦とか恋人同士とか――違うのか?」

「そういう噂もありますが、違います。単にいっしょに組んで仕事をすることが多いだけですよ」

「でもそれってつまり、それだけたがいを信頼してるってことじゃねぇのか?」

「もちろん、剣士としての元章の腕は信用していますよ。元章と組んでいれば、たいていの相手にはおくれを取りませんからね。そして元璋のほうでも、私の差配、段取りのうまいところをちゃんと認めてくれている。あとは……そうですね、女に惚れないところがいい」

「は? 何だそれ?」

「女にも欲はあります。特にわたしは欲深い」

「そりゃまあ……判る気がするな」

 泉玉と元章はふたりで組んでよく人斬りをして稼いでいると聞く。おそらくそれは、人を斬ることでしか得られない経験を積むためと、何よりも金のためだろう。よく見れば、泉玉は簪や耳環、腕輪といった装飾品をふんだんに身に着けていて、そのどれもがいかにも高価そうな品ばかりだった。

 金と瑪瑙を組み合わせて作られた耳環を揺らし、泉玉は立ち上がった。

「おまえは少し勘違いをしていますね」

「は?」

「たぶんおまえは、わたしが欲深いというのを、単に物欲が強いだけだと思っているのでしょう。もちろんそれは正しい。でも、それだけではないのです」

「ってぇと……?」

「三日に一度は男が欲しくてたまらなくなるのです」

「……は? それってつまり――」

「より正確にいうなら、月に何度か――できることなら五日に一度、思うさま人を斬って返り血を浴びなければ頭がおかしくなってしまうような、そんな厄介な病にかかっているのですよ。あっけつぎゃくとかいうそうですが……」

「――――」

 その言葉に、天童はみぞおちのあたりがひやりとするのを感じた。盛り場の人々の声が不意に遠いものになり、天童のてのひらに汗がにじみ出す。

「……色っぽい話かと思ったらやたら剣呑じゃねェかよ、おい」

 竿を捨てて剣の柄に手を伸ばす隙を見出せず、天童は静かにそう呟いた。

「そうでもありませんよ。――要するに、血を見たくなければ適度に男と遊んでいればいい」

「……そういうもんなのか? ホントに?」

「ええ。男と寝ると気がまぎれるのです。それでまた数日は平穏にすごせる。……とはいえ、相手は誰でもいいというわけではありません。おまえだって、どうせ腹を満たすならうまい料理のほうがいいでしょう?」

「そりゃまあ――」

 天童の視線が泉玉に吸い寄せられていく。

「とりあえず、弱い男は駄目です。強い男でないと。……その点、元章はいい」

 そういいながら、泉玉は衣の帯をほどき始めていた。岸辺の灯籠の明かりをわずかに跳ね返し、艶光るような浅黒く焼けた肌が次第にあらわになっていく。

「元章はわたしが苛つき始めた時にはいつでもつき合ってくれるし、疲れ知らずです。それでいて、変に亭主面をするようなこともない。――ときどきいるでしょう? 一度寝たくらいで、その女が自分のものになったと勝手に思い込み、横柄な態度を見せるような男が?」

「そりゃ確かにいるだろうけどよ……」

 天童は苦笑いを浮かべてあたりの様子を窺った。日が暮れているとはいえ、ここはさえぎるもののない運河の上である。船の上で服を脱ぎ始めた美女がいると知れば、沿道やほかの船に乗り合わせた人々がこちらを注視しないはずがない。

「もう夜ですよ。明かりをつけていないからこちらの姿は周りからはほとんど見えません。……まあ、たとえ見られたところでわたしは気にしませんが」

「あんたはそれでいいんだろうが、あんまり目立つと今後の仕事がやりにくくなりかねねェだろ。……大胆すぎるっての」

 天童は竿をあやつって大きな橋の下へと船を向かわせた。

「用心深いのも悪くありませんね。抜け目がないというか……」

 手首の腕輪や髪を飾る簪だけを残して全裸になった泉玉は、船底にわだかまった衣の上にその身を横たえた。大きく張り出した乳房からくっきりと腹筋の浮き出た腹、そしてまた見事な丸みを見せる腰から長い脚へ、泉玉の身体を縁取る曲線の美しさにはつい感嘆の吐息がもれ出てしまう。唯一、左肩から乳房の裾野を伝って脇腹へと走る古傷があるのが艶消しに思えるものの、それが泉玉の女としての評価をさほど下げるものとも思えない。少なくとも天童は、泉玉を前にして勃然と湧き上がってくるものをはっきりと自覚していた。

「……まあ、とにかくそういう意味で、元章はとても都合のいい男なのですが、どうもここ最近、何かと考え込むことが多くなって、わたしの相手をしてくれないのですよ。そのせいでそろそろ気が狂いそうです」

 古傷を脇腹から撫で上げた泉玉の手が丸い乳房に添えられる。わずかに細められた泉玉の双眸に、いつしか妖しい輝きがともっていた。

「あんたらが連れてきた男たちじゃダメなのか?」

「いうまでもないでしょう?」

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