第四章 血を欲しがる女 ~第二節~

「いや、俺には判らねェって。ふつう、あんたくらいのいい女に誘われたら、還暦すぎの爺さんだって年甲斐もなくがんばっちまうと思うけどな?」

「いざという時に役に立たない男が意外に多いのですよ。……そういう手合いには余計に苛立たせられます」

「そりゃあおたがい不幸だったな」

 橋の陰の暗がりで船を停めた天童は、泉玉のかたわらに腰を下ろして服を脱ぎ始めた。

「――結局のところ、俺はあんたを悦ばせりゃいいんだな?」

「まあそういうことです」

 泉玉は天童の膝に重たげな胸を乗せ、帯をほどくのを手伝い始めた。そのついでのように股間を撫でながら、上目遣いに天童を見上げ、

「……やる気があるようで何よりです」

「そりゃどうも」

「こちらの仕事が片づいたら、今度はわたしたちがおまえに手を貸してあげましょう」

「何だって?」

「とぼけなくてもいいのですよ。……おまえの狙いは例の剣でしょう?」

 泉玉を船底に押し倒した天童は、不意にかけられたその言葉に顔をしかめた。

「安心しなさい。わたしも元章も、その何とかいう小僧には興味がありませんから。どのみちその小僧の首と剣を持ち帰ったところで、せつ梅会ばいかいを手に入れることなどできませんしね」

「そりゃどういう意味だよ? せつほう先生が約束を破るってのか?」

「たとえ雪峰先生が約束を守ったとしても、ですよ。――いいから手を動かしなさい」

 泉玉は天童の手を掴んで自分の胸にみちびき、熱い吐息を静かに吐き出した。

「……で、雪梅会が手に入らないってのはどういうことだよ?」

 泉玉の乳房は、強く揉み潰そうとする天童の指をやわらかく押し返してくる。人を殺して返り血を浴びなければ気が狂うと笑う泉玉でも、こういうところはきっちり女なのかもしれない。

「……仮に、おまえがその小僧を斬って剣を手に入れたとしますよ?」

 赤子のように自分の胸に吸いついた天童の頭を撫で、泉玉はいった。

「それを山荘に持ち帰り、約束通りに雪峰先生から雪梅会をゆずり受けたとして――ほかの剣士たちが、おまえがあらたな掌門になることに納得すると思いますか?」

「そいつは――」

 泉玉の胸の谷間ににじむ汗をなめ取り、天童は言葉を途切らせた。

 そもそも雪梅会の剣士たちの大半は、雪峰先生の絶対的な強さによって押さえつけられているだけの無法者である。彼らが曲がりなりにもひとつにまとまっているのは、掌門である雪峰先生にはあらがえないと判っているからだった。

 しかし、牙門ではまだ新顔にすぎない天童が雪峰先生に代わって掌門となっても、誰もその指示にしたがおうとは思わないだろう。それどころか、天童を殺して自分が雪梅会を掌中に収めようとする者が現れてもおかしくない。

「雪峰先生では勝ち目がないが、おまえが相手なら勝てる――そう思われても仕方がないでしょう? わたしでもそう思いますよ。だから、今のおまえがくだんの小僧を斬って剣を持ち帰っても、むしろ命を縮めるだけなのです」

「ありえねえとはいいきれねえのがなあ……」

「ふふ……小僧を斬るかどうかはともかく、山荘へ持ち帰るのは剣だけにしておきなさい。おそらく先生は、剣だけでも何かしらの褒美はくれるでしょうから」

「いや、しかしよ……」

「何です?」

「……その話はやめようぜ。ここで萎えたら、あんた、俺を斬る気だろ?」

「当然です」

 赤い蛭のような泉玉の唇が天童の首筋に押しつけられる。そのくすぐったさに思わずもれた天童の苦笑に、かすれがちの泉玉の嬌声がかさなった。


          ☆


 どちらの酒が上等だというつもりはないが、さいのところでは、今ひとつ空気の読めない夫婦ののろけ合いを見ながら飲むことになるぶん、たんろうでのほうが気楽に飲める気がした。

 ただ、今この瞬間だけはどちらともいえない。少なくともはんしゅうきんの身の上話を聞きながらの酒は、呑気に酔える気がしなかった。

「――どう思います、はくさん?」

「どう思うって……」

「そうですよう! 獅伯さまは実際にそのお婿さんと会ってるんですよねえ?」

 ぶん先生はともかく、白蓉はくようからの当たりがあからさまにきつい。沐浴の最中に踏み込んだことを怒っているのか、あるいは勝手に行方をくらましたことにかなり腹を立てているようだった。月瑛は先ほどから無言で酒を飲んでいるが、こちらはこちらで何か思うところがあるらしく、獅伯の来訪を喜んでいるという感じはしなかった。

「……来るんじゃなかったな」

 ぼそりともらして酒をあおり、獅伯は杯を置いた。

「あんたらおれに何を聞きたいんだ? あんたらのいう幼馴染みってのがとう大人のところの婿と同一人物だってのは事実なんだろ?」

「は、はい……安英あんえいが確認してきてくれましたので……」

 かぼそい声で秋琴が答える。

「だったらもう乗り込めばよくない? 乗り込んでって本人に聞きなよ」

「それができれば苦労しませんよう」

 蜂蜜をかけた白玉をもりもりと口に運びながら、白蓉が憤然といい返した。

「――そういうことすると、ここの女将さんに迷惑がかかるかもしれないんです。秋琴さんの恩人なんですよう?」

 探花楼を切り盛りする女将が昔から陶大人に世話になってきたという話は聞いた。もしここで秋琴が陶大人の娘夫婦の間に波風を立てることになれば、女将の立場を悪くすることになりかねない。その理屈は獅伯にも判る。

 文先生はちらりと秋琴のほうを一瞥し、獅伯にいった。

「……当時のけいしゅうの混乱かなり大きな噂になりました。すでに下野していた私の耳にも届いていたくらいですからね。ですから、蒙古の侵攻によって故郷が蹂躙され、家族がみな死んでしまったと考えたとしても、無理のない側面はあったかと思います。……ただ、そこはきちんと確認すべきじゃないですかね?」

「だろうな」

「そこを確認もせず、自分は妻を失った身だということにして、陶大人の娘婿になるのはちょっと違うと思うんですよ、私は」

「……要するにさ、あんたらはその幼馴染みというか、旦那? に詫びを入れさせたいわけ?」

「もちろんそれもあるけどね」

 月瑛がようやく口を開いた。

「――わたしが口出しするような話じゃないのは承知の上でいうけど、まずその男は、秋琴さんに誠心誠意あやまって、感謝すべきだろ? 自分の母親の面倒を誰が見てきたか、誰がどうやって葬儀を出し、墓まで建ててくれたか、それを考えりゃ当然だと思うけどねえ」

「そうですよ!」

「いや、あんたらの意見はいいんだよ、この際。ここであれこれいうのも何かを決めるのも、結局は――秋琴さんだっけ? この人なわけだし、要はこの人が何をどうしたいかってことでしょ」

「わたくしは……まずは事実を知りたいのです。いったい夫に何があって行方をくらませたのか――」

「だから本人に聞けばいいじゃん」

「秋琴さんだって一度はそうしようとしたんだよ。……ただ、その時にちょっと見すごせないことがあってね」

 そう語る月瑛はいつになく不機嫌そうにしている。獅伯の向こうを張る酒好きで、いつも笑っているような彼女にしては、それはとても珍しい表情だった。

「旦那さんと会おうとした時に、秋琴さんは妙な男たちに襲われたんですよう」

 むすっとした月瑛に代わり、白蓉と文先生が説明した。

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