第三章 恥じらいのない女 ~第七節~
「またそうやって悪ぶったことをいう……」
「悪ぶってない。そもそもおれは悪人じゃないし、ただ、だからって善人てわけでもないし、自分のことを最優先にしてるつもりだ」
文先生はことあるごとに獅伯のことを悪ぶっているだけのいい人だと持ち上げるが、それが獅伯にはどうにも居心地が悪い。獅伯にはそういう意識はまったくなく、単に自分がやりたいこととその場の流れを見て、折り合いをつけているだけだった。
「あんたから見れば、おれが人助けをしているように見えるのかもしれないけどさ、別におれは人助けをしたいわけじゃない。――たとえば、今あんたがここで刺客に襲われたとするだろ?」
「何ですか、そのたとえは……縁起でもない」
文先生は眉をひそめ、たとえ話だというのに首をすくめてあたりを見回した。
「あんたが刺客に斬られて死んだとしても、おれとしては別にどうでもいいんだよ」
「え……それはひどいな」
「知るか。別にあんたはおれの身内でも何でもないんだからな。――ただ、同じ死ぬにしても、おれの目の前で死なれるのは寝覚めが悪い。だから、おれがちょっと手を出せば助かるのであれば、手を出すのもやぶさかじゃあない。それが外からは人助けに見えるんだろうが、おれにとってはあくまで自分自身のためにやってることなんだよ」
だから別におれは善人でもないし、悪ぶってるわけでもない、ただ自分のことを最優先に考えている――世の中のほとんどの人間と何も変わらないのだと、獅伯は文先生にそういった。
「ええ、そうですね。世の中には善人もいれば悪人もいる。というより、人は善悪双方の面を持っていて、そのどちらがより色濃く出るかというだけなんでしょう。そもそも善悪なんてものは、視点によってがらりと変わる相対的なものですからね」
そぼ降る雨のいきおいが弱まっていく中、ふたりの周囲にはいつしか人影が増え始めていた。まだ日暮れまで時間はあるが、建康一の盛り場である鎮淮橋界隈には、すでに酒の匂いに誘われて多くの人々が集まりつつあるのだろう。
霧雨のせいで淡くにじむ灯籠の明かりを眺めながら、先生は続けた。
「――だから、獅伯さんが今いった通り、外からどう見えるかってことなんですよ。あなたに斬られた人間や、その家族たちからすれば、獅伯さんは悪人に見えるのかもしれない。けど、私たちから見れば、何度も命を救ってくれたとてもいい人ということになる。あなたがあなた自身をどういう人間だと思っていようが、つまりはあまり関係ないんです。少なくとも私たちの中では、獅伯さんはもういい人ということになっているんですから」
「それが何ていうか、居心地が悪いんだよ……」
「それじゃあもういいませんよ、獅伯さんがいい人だって。心の中で思うだけにしておきますから。……で、さっきの話に戻りますけど」
「は? 何だっけ、さっきの話って?」
「ですから、探花楼の秋琴さんに、私が陶大人の娘夫婦について調べてきてくれって頼まれた一件ですよ」
「ああ、そうだっけ。……で、何か判ったのか?」
「判るも何も、調べようがないでしょう? 私は江万里先生に会うために陶大人の屋敷を訪ねたんですから」
「ふーん。じゃあどうするんだ?」
「いや、それをあなたに聞こうと思って連れてきたんですよ。獅伯さん、その娘夫婦を助けたっていってたじゃないですか」
傘を閉じ、文先生は行く手に見えてきた妓楼を指差した。大きな門の上にはちょっとした櫓が組まれていて、赤い衣装を着た娘たちが、そこをあざやかな色の旗と赤い灯籠で飾りつけしているのが見える。すでにその門前には、客らしき男たちが何人も出入りしていた。
「……思ってたよりでかいな」
門をくぐると、まっすぐ伸びた回廊の両側に、いくつもの部屋が並んでいて、そのほとんどはもう埋まっているようだった。にぎやかな笑い声や琴の音、琵琶の音、あるいは女たちの歌声も聞こえてくる。
雨上がりのしっとりした風に乗ってただよう酒と料理の匂いに鼻をひくつかせ、獅伯は尋ねた。
「その人、ここの売れっ妓なんだって?」
「ええ。さっきもお話ししましたが、ま、数奇な運命に流されてここまでたどり着いたというか……」
「美人なのか?」
「当たり前です」
「ふぅん」
くだんの妓女がどれほどの美女なのか、お目にかかるのが楽しみな一方、おそらく白蓉からは悪態をつかれるのだろうと思うと、それが憂鬱といえば憂鬱だった。
「こっちです」
たくさんの酔客たちで賑わう楼閣一階の広間を突っ切り、文先生は獅伯を店の奥のほうへと案内した。
「奥には上客だけが通される離れがいくつかあるんですよ。私たちも、そのうちのひとつに滞在させてもらっているわけでして……」
「おまけに食事と酒がついてるわけか」
「ええ。ただ、さすがにそれではあまりに申し訳ないので、離れの掃除は私と白蓉さんがやっていますよ」
「月瑛姐さんは?」
「あの人がそんなことやると思います?」
「やらないよなあ」
濡れた飛び石を踏んであるいていた文先生は、あっと小さな声をあげて立ち止まった。
「そうだ、酒と料理を頼んでおかないと」
「は?」
「だって獅伯さん、酒も飲まずに小難しい話に耐えられますか?」
「酒があっても小難しい話はごめんだぞ」
「まあまあ、私はちょっと店の子に酒肴の用意を頼んできますから、獅伯さんは先に行っててください。この小径の先の離れにみなさんいますから。――くれぐれもいっておきますけど、ここまで来て逃げないでくださいよ?」
「逃げる気なら最初からあんたに声かけないだろ」
しっしと軽く手を振って文先生を追いやり、獅伯はくだんの離れに向かった。ふだんならたとえ道がぬかるんでいたとしても、できるかぎり足音を立てないように気を配るところだが、そんな小細工をするとかえって月瑛を警戒させ、唐突に斬りかかられかねない。だから獅伯は、濡れた砂利をむしろ大きな音が立つように踏みつけ、わざと素人丸出しの歩き方で離れの庭のほうへ回り込んだ。
「よう」
声をかけながら赤い格子戸を開け放った獅伯は、両手を広げた恰好のまま、しばし動きを止めた。
「――――」
広い部屋の中には三人の女がいた。ひとりは月瑛で、全裸の肩から薄手の衣をはおっただけのなりで椅子に座り、団扇を片手に茶を飲んでいる。獅伯と目が合っても特に慌てる様子はなく、団扇を揺らして平然とあいさつを返していた。
もうひとりは獅伯には見覚えのない女で、月瑛と同じくやはり裸だったが、獅伯に気づいたとたん、小さな悲鳴をあげて衝立の向こうに隠れてしまった。どうやら沐浴でもしていたようだが、その場に男が現れた際の反応としては、月瑛よりもこちらのほうが真っ当だろう。
そして、最後のひとりはいうまでもなく白蓉だった。ほかのふたりがすでに上がったあとだからか、大きな桶をひとり占めして四肢を伸ばして大の字になり、ぬるま湯にその身をたゆたわせている。
「……?」
女の悲鳴が聞こえたからか、白蓉は首だけもたげてあたりを見回した。
「…………」
獅伯は腕を組み、窓辺の椅子に座っている月瑛と大の字の白蓉とを何度か見くらべ、それから大仰に溜息をついた。
「……まあ、あと五年もすれば、今の姉弟子くらいには――いや、無理かなあ」
「はあああ!? なっ、な、なん……っ、ぎゃあああ!」
白蓉は唐突に身を起こし、手桶を掴んで獅伯に向かって湯をかけた。
「おいおい、よせよ。部屋の中が水浸しになるだろ」
咄嗟に後方へ飛びのきつつ、手にしていた傘を開いて湯を防ぐと、今度は手桶そのものが飛んできた。
「……本当に剣の修行をしてたことがあるのか、おまえは?」
飛んできた手桶を傘ではじいて浮かせ、うまく左手で受け止めた獅伯は、格子戸を閉じて中の女たちにいった。
「じきに先生が来るから早く身支度しなよ。何か話があるみたいだからさ」
閉じた扉の向こうから、いまさらのように白蓉が何かわめき始めたのが聞こえてくる。月瑛がそれをなだめているようだったが、獅伯は別に悪いことをしたとは思わない。獅伯はただ文先生にいわれた通りにここへ来ただけだし、何より、悪いと思ってもいないのにあやまるほど、自分はいい人ではないと獅伯は思っている。
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