第三章 恥じらいのない女 ~第六節~

「しかし、そうじゃな……であれば、やはり陶どののお力を借りるのがよかろう」

「なぜです?」

「陶どのは手広く商売をしておるし、その中には異国から来た商人もおる」

「ああ……通詞を紹介してもらうという手がありましたね」

「ま、それでもすべての文字が読めるようになるとはかぎらぬが」

 騎馬民族によって南方へ追いやられた今のこの国にとって、異国との交易は、その大半が泉州などの大きな港が窓口になっている。やってくるのは大食や波斯の商人たちが多く、それらの文字については何かしらの手がかりが得られるかもしれない。

 長い白髭をうまくよけて茶をすすり、江万里はいった。

「……見聞を広めるのもよいが、異国にまで足を延ばすようなことはいうまいな?」

「はは……さすがにそこまでの度胸も体力もございませんよ」

 笑いながら、文先生は自分のぶんの団子の残りを江万里に差し出した。


          ☆


 事情もよく知らない他人の暮らしに首を突っ込み、それをつまらないだの退屈だのというつもりはない。剣一本をかついであてのない旅を続ける獅伯の日常も、人によってはありえないと断じられてしまうだろうし、生きる上で何を最優先とするかが人によって違う以上――誰かに迷惑をかけているのでもないかぎり――他人があれこれ口を出すべきことではないだろう。

 ただ、そうわきまえてはいても、獅伯の目にはこの夫婦の暮らしがひどく退屈なものに見えて仕方がなかった。

「…………」

 池の鯉に餌をあたえて大喜びしている香君を眺め、獅伯は団子を頬張った。おそらく香君は獅伯と大差ない年頃のはずだが、ああして魚たちが跳ねるたびに楽しげな悲鳴をあげている姿は、むしろ白蓉より子供っぽくも見える。

「――鯉って思っていた以上に元気がいいんですのね。うちの屋敷でも飼おうかしら?」

 獅伯のいる四阿あずまやに入ってきた香君は、頬に散った水飛沫を袖口でそっとぬぐい、あどけない笑みを浮かべた。

「どうでもいいけどあげすぎじゃない?」

「はい? 何がでしょう?」

「餌だよ、餌」

 池の水面ではいまだにばしゃばしゃと鯉が跳ねている。香君が魚の跳ねる姿見たさに何度も餌をばらまいたせいだが、それにしても一度にあたえる量としては多すぎる。

「この陽気だし、あれじゃ水が腐っちまうんじゃないか?」

「腐る? 水って腐るんですの?」

 香君はきょとんとして、自分の前に置かれた茶碗と獅伯の顔を見くらべている。

「いや、それは今淹れてもらったお茶だから腐ってるわけないだろ」

「じゃあ池の水は腐るんですの?」

「そりゃあ池の水は流れないからな」

 詳しい理屈は獅伯も知らない。ただ、釣りが好きな師匠が昔そういうようなことをいっていた。流れのない澱んだ淵にはさまざまなものが沈み、水底で深く静かに腐っていくものだと。沈んで積もり積もったものが腐り、それが水まで腐らせる。

「ここの池の水が綺麗なのは、たぶんここの人が毎朝掃除してるからだろ。さっきみたいに碗に山盛りの餌を何杯もぶち込んだところで、魚が群れて食いつくのは最初のうちだけで、食べきれなかったぶんはごみになるだけだよ」

「そういうものですか……獅伯さまは物知りなのですね」

「おれが物知りなんじゃなくて、あんたがもの知らずなの。……あんたの旦那は何もいわないのか?」

「いえ、特には」

 志載は義父である陶大人に呼ばれ、離れに滞在している客人のところへあいさつに出向いている。香君がここにいるのは、獅伯を退屈させないようにもてなしておけと志載にいわれたせいだろう。実際のもてなしは屋敷の小間使いの仕事で、香君はただやりたいことをやっているようにしか見えないが、何不自由なく暮らしていけるお大尽の家に生まれれば、こういう娘に育つのも当然だった。

 世間という激しい流れから隔絶された静かな屋敷の中で、あらゆる意味で満ち足りた日々をすごしていると、人もいずれは豪奢な澱みの中に沈んで静かに腐っていくのだろうか。獅伯が今ひとつこうしたぜいたくな暮らしに馴染めないのは、澱みの底でじっとしているより流れに身を任せるほうが性に合っていると、本能的にそう感じているからなのかもしれない。

 吹く風が少しぬるくなり、芭蕉の葉を雨粒が打つ音がぱらぱらと鳴り出した。

「――なーんか、ホントに浮世離れしてるっていうか……」

「はい?」

「あんた、どうしてあの旦那を婿に迎えたんだ?」

「どうしてって……おとうさまがそうしろっておっしゃったから……」

「いや、良家の娘ならそんなもんなんだろうけどさ……」

 この国の若い娘に、夫を選ぶ自由などまずない。父親が選んだ男の妻になる以外の道はないといっていいだろう。香君もそれが当然のことだと考えていて、しかもそこに疑問を感じてない。さいわいなのは、本人があの夫との暮らしをふつうに楽しんでいるということだった。

 獅伯は団子を片づけ、静かに降り始めた夕立をぼんやりと見つめた。

「……でも、あんたの親父さんはこの街でも指折りの商人なんだよな? てことは、あんたの旦那が跡取りなんじゃないのか?」

「商売は別の人間に任せるということもできるって、おとうさまはそうおっしゃってました。ですからあの人は、おとうさまの夢を引き継いで今も勉強しているんです」

「親父さんの夢?」

「科挙に及第することですわ」

「ふぅん」

「あの人は、受験に失敗して困窮していたところをおとうさまと出会って、商売の手伝いをしていたのですけど、そこでおとうさまが、自分の果たせなかった夢を託したいとおっしゃって……」

「え? まさかそれがきっかけであんたの婿にしちゃったわけ? いや、もちろんがんばりゃ合格できそうって判断したからこそなんだろうけどさ……」

「別にいいじゃありませんか」

 黒い艶を見せる碗を手に取り、香君はあっけらかんと笑った。

「おとうさまにいわれたからあの人を夫に迎えましたけど、わたしはあの人が好きになりましたし、あの人もわたしが好きだといってくれていますし」

「…………」

 もしかすると、この娘の中では、志載との暮らしはままごとか何かの延長なのかもしれない。ただ、それを突き詰めようと言葉をかさねたところで、香君はただきょとんとするだけだろう。

 香君を相手にこれ以上ちぐはぐなやりとりを続けるのにうんざりして、獅伯は立ち上がった。

「あら? どうなさったの、獅伯さま?」

「旦那が戻ってくるまでまだ時間がかかるだろ? なら、ちょっと今のうちに街をぶらついてくるよ。いろいろと楽しそうな場所が多そうだし」

「でも、雨が降ってますわ」

 自分で傘をさして雨の中を歩くなどということを、おそらくこの娘は考えもしないのだろう。同じ金持ちの娘として育てられたというのに、蘭芯とは大違いだった。

「まさかこのままいなくなるなんてことはありませんよね? そんなことになったら、わたし、あの人に何をいわれるか……」

「まだ通詞を紹介してもらってないのに消えてどうするんだよ? 夜には戻るって」

 妙な気を回す香君を笑い、獅伯は傘を借りて屋敷をあとにした。といっても、そのまま酒が飲める店を捜して盛り場に向かうわけではない。

 志載が陶大人に呼ばれて客人のもとへあいさつに向かったということは、それに先立って客人に面会していた文先生の用事ももうすんだということだろう。もとから閑静な一帯であることに加え、夕立のせいでさらに人通りの少なくなった屋敷の近くを歩いていると、獅伯と同じような傘をさして歩いている人影があった。

「――よう、先生」

「あ、獅伯さん」

 獅伯の声に振り返った文先生は、どこか疲れたような笑みを浮かべていた。

「何だよ、元気ないな。今からその何とかいう妓楼に帰るところなんだろ? 綺麗どころがいっぱい待ってるのに何なんだ、その冴えない顔は?」

「別に客として滞在してるわけじゃありませんからね。――というか、獅伯さんもいっしょに来てくださいよ。聞きたいことがいろいろとありますし……」

「酒が出るならな」

「綺麗どころは出ませんけど、お酒と料理ならとってもいいものが出ますよ」

「……あんたらはどういう立場でその店にいるんだ?」

「たぶん獅伯さんと同じですよ。人助けをした結果です」

 たまたま月瑛が助けた女が探花楼の妓女だったという話を聞かされ、獅伯は大きく首を振った。

「同じじゃないだろ。そっちはたぶん、姐さんが助けたくて助けたんじゃないの? あの人はほんとにやさしいからな。だけどおれは人助けをしたわけじゃなくて、純粋に巻き込まれただけだ」

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