第三章 恥じらいのない女 ~第五節~

 さすがは陶大人の屋敷ということか、用意された茶は薄荷を加えて煎じられた白茶で、雪のように細かく泡立った茶の色が、黒く艶光る碗とたがいに引き立て合い、舌と鼻だけでなく目まで楽しませてくれた。

「宮中のお歴々は――丞相閣下も含めてですが、それがお気に召さなかった。だから私は免官されたのでしょう」

「そうじゃったな。……じゃが、そこまで判っていて、どうして貴公は態度をあらためなかった? 剛毅なのはよい。じゃが、そのせいで国政の場からはじき出されては元も子もあるまい? 同じことをいうにしても、もそっとこう、いい方というものを考えておれば、このようなことには――」

「先生、いまさらそれをおっしゃっても意味はございませんよ」

 江万里はすでに六〇を超えている。この老学者の説教じみた長話が自分を思ってくれてのことだと判ってはいても、今の文先生にはそれにつき合うつもりはなかった。

「……ところで、戸部尚書を拝命なさった先生が、なぜこちらに?」

「忙しさにかまけて長く後回しにしておったのでな、故郷での墓参りをすませ、都に戻る途次じゃ」

 こしあんのたっぷり詰まった団子を掴み、江万里は口に放り込んだ。この老人は昔から大食漢で、特に甘いものに目がない。もう眉も髭も真っ白なくせに、一方でどこか子供っぽいところもあり、文先生はそこを好ましく感じていた。

「先生は確か……南康なんこうのお生まれでしたか」

「よく覚えておったな」

「物覚えがいいのは私の数少ない特技ですので」

 南康は長江の支流がいくつも流れ込むようのほとりに拓かれた街である。そこから臨安に戻るのであれば、船で長江を下り、ちんこうから大運河に入って南下するのがもっとも早いだろう。だが、鎮江の手前のこの建康で足踏みをしている理由が判らない。

「こちらの陶大人とはどのようなご関係で?」

「わしが昔、今の貴公と似たような立場になったことがあったのは知っておるか?」

「私と? つまり免官されたということですか?」

「そうじゃ。そのせいで一二年も棒に振った。……その頃にな、陶どのにはいろいろと世話になったのじゃよ」

 江万里は高名な儒学者でもある。そのへんのたんかんと違って、立場を利用して不正な蓄財などをしていたとは思えない。だから、免官されて隠遁生活を送っている間に困窮することもあっただろう。おそらくそんな逆境の時代に、陶大人から物心両面の援助を受けていたに違いない。

「陶どのも、若い頃には科挙を目指していたと聞く。それもあって、聡明な若者や不遇をかこつ学者たちに、何くれとなく手を差し伸べておられるのだ」

「それはそれは……」

 それでようやく、こんなところに江万里がいる理由に得心がいった。要するに江万里は、恩人である陶大人に請われて屋敷に滞在し、おそらくは四書五経の講義やら何やらやっているのだろう。

「……他人ひとごとではないぞ、そうずい?」

 ふたつ目の団子を手に取った江万里は、片眉を吊り上げ、じろりと文先生を睨んだ。

「貴公がどのような理想を胸にいだいていようと、野にあるうちは絵に描いた餅も同然じゃ。官僚として政の場に戻ってきたいのであれば、わしから陶大人に口を利いてやってもよいのじゃぞ?」

「まさか先生からそのようなお言葉を聞くとは思いませんでしたよ」

 はっきりとはいわなかったが、要するに江万里は、陶大人に頼んで金を用立ててもらい、復帰のためにあちこちにばらまけといっているのである。

「――祖国を追われた孔子は猟官のために金を積みましたか?」

「む……」

 儒学者である江万里がそれを知らないわけはない。江万里が言葉に詰まったのは、文先生が並べ立てる屁理屈に反駁できなかったからだった。

「どこの国に行っても官職を得ることはできず、困窮しましたが、それでも孔子は理想を捨てることはなかった――というような逸話が今に伝わっておりますが、まあ、その真偽はともかくとして、少なくとも儒学者である先生が、孔子のやりようを否定するようなことをおっしゃってはよくないのでは?」

「……時には清濁併せ吞むことも必要とは思わんか?」

「あいにくと私はまだまだ青二才、そこまでの境地にはいたっておりません。せっかくのお申し出ではありますが、私はいずれ自分の力であるべき場所に戻るつもりでおりますので」

「やれやれ……本当に頑固な奴じゃ。ならばいったい何をしにここへ来た?」

「それはもちろん、先生にごあいさつをと思いまして」

「それだけか? 今は……探花楼といったかな? あの店におるのか?」

「誤解のないよう申し上げておきますが、別に女遊びのためにいるわけではありませんよ? そもそも今の私にはそれほどの持ち合わせがございませんので」

「何を偉そうに……本当のところ、わしに文句をいいたくてやってきたのであろう?」

「いえいえ、決してそのようなことは……まあ、なくはございませんが、文句というより、ご忠告? いや、それこそ偉そうに聞こえますが」

「回りくどい。どうせ丞相閣下のことであろう?」

「はい」

 黒い茶碗を茶托ごと脇へ押しやり、文先生は声をひそめて続けた。

「……いつまでどうを放っておくおつもりです? あのような人間に国政を任せておいては遠からず国は滅びます」

「丞相が善人でないことはわしも承知してておる。……じゃが、あの男がいなくばこの国が回らぬのもまた事実なのじゃ」

「ですが、正と負をくらべてみれば、あの男は明らかに負のほうが多い。蒙古の目がこちらに向いていないうちに、どうにかしなければならないんです」

「その蒙古を追い払ったのも丞相であろう?」

「……その話も本当かどうかは判りませんよ。蒙古軍が退却していったのは、おそらく皇帝モンケが急死したからでしょう。その殿しんがりに矢を射かけた程度のことを、自分の采配で敵軍を討ち払ったと針小棒大に報告しただけなのではありませんか?」

 軽いいきどおりの溜息とともに椅子に腰を落ち着け、文先生も団子に手を伸ばした。

「……そもそも丞相閣下に本当に蒙古と戦うつもりがあるのなら、戦功のある将軍たちを次々に罷免したりはしません。軍内の綱紀粛正のためといいつつ、結局は、彼らが軍閥となって無用の力を持つことを恐れたのでしょう。あの人のやったことで手放しで称賛できることといえば、せいぜい宦官どもの力を弱めたことくらいです」

「貴公のいいたいことは判った……が、わしに何ができるというのじゃ? わしに丞相を追い落とせとでもいうつもりか?」

「そこまでの高望みはしておりませんよ。ですが、その専横を抑えるくらいのことさえ期待してはいけませんか?」

「……あの頃、貴公はまだ子供であったゆえ知らなかったのかもしれぬがな」

「何です?」

 団子を白茶で流し込み、江万里はほっとひと息ついた。

「免官されたあと、隠遁しておったわしを見出し、ふたたびまつりごとの場に立たせてくれたのはな、貴公が嫌うその丞相閣下じゃ」

「――――」

 江万里の言葉に文先生は目を細めた。不遇の時代をささえてくれた陶大人が恩人であるなら、不遇の時代を終わらせてくれた賈似道もまた恩人――そう聞かされた文先生はもはや何もいえず、白茶を飲み干して肩をすくめた。

「――それはそうと、先生は異国の言葉に造詣がおありですか?」

「今度は何じゃ、また急に話題を変えてきおって――」

「まあまあ、これをご覧いただけますか?」

 文先生は懐から獅伯の剣の拓本を取り出し、卓の上に広げた。

「……? 何じゃ、これは?」

「私の知人が珍しい剣を持っておりまして……これはその鞘に刻まれている紋様なのですが、ここからここと――それにここ、これも、異国の文字なのではないかと」

「ふむ……」

 興味をそそられたのか、江万里は椅子から立ち上がり、卓の上に身を乗り出して拓本に見入った。団子を食べながら、拓本をさまざまな角度から眺めている。

「確かにこれは契丹きったん文字じゃな。意味は判らぬが……のものらしい文字もある」

「この部分は大食たいしょくの文字だそうです。意味は“獅子”だとか」

「そうか……ここに刻まれておる、林獅伯というのは?」

「おそらく人名ではないかと。……この剣の持ち主は、原因は不明ですが過去の記憶を失っておりまして、読むことのできたその文字から、今は林獅伯と名乗っております」

「実物を見てみたいものじゃが……わしも詳しいわけではないからのう」

 剣を持った本人が今この屋敷にいるともいえず、文先生はひそかに苦笑した。

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