第三章 恥じらいのない女 ~第四節~

 秋琴は答えなかった。じっとうつむき、痣の残る二の腕を何とはなしにといった様子で撫でさすっている。年のせいなのか、それもとふだん身体を動かしているかどうかの差なのか、秋琴は月瑛より肉づきがよかった。といっても、太っているというほどでもない。場末の酒家で酔った男たちが笑いながら口にする、抱き心地のいい身体というのは、おそらくこういうふくよかな女の身体のことをいうのだろう。

 白蓉自身は、女をものとしてあつかうかのような、ああいういい回しは大嫌いだったが、秋琴の裸は――妙ないい方だが――とても好ましかった。気づいた時には妖怪のような老婆のもとで育てられていた白蓉にとって、面影すら覚えていない母親を何となく想起させてくれる気がするからである。

「秋琴さん、お背中流しますねぇ」

 白蓉は秋琴の背後に回り込み、濡らした手拭いで彼女の背中を流し始めた。

 月瑛は梳いた髪をまとめて自分の首に巻きつけ、桶の縁に背中を預けてあらためて尋ねた。

「……何となく流しちまったけど、わたしがあんたを助けた時のこと、はっきりとした話を聞いちゃいないよね? 何かわけありなんだとは思うけど、よかったら詳しく教えちゃくれないかい?」

「…………」

「秋琴さん……」

「……月瑛さんにはあやういところを助けていただきましたし、今は文先生にもお手伝いいただいております」

 月瑛にうながされ、秋琴はようやく口を開いた。

「これまでは身内の恥と思い、口にするのをはばかっておりましたが、ここまでしていただいているのに、何もご説明しないというのはあまりに不義理というもの……月瑛さんがそこまでおっしゃってくれるのであれば、聞いていただこうと思います」

「白蓉」

「はーい」

 姉弟子のいわんとするところを察し、白蓉はざばりとぬるま湯の中から飛び出すと、いったんは開け放った窓や扉をすべて閉ざして戻ってきた。沐浴の準備をしてくれた娘たちにも、こちらから呼ぶまで離れには来なくていいと伝えてあったため、誰かに聞かれる心配は低かったが、秋琴の様子から見て、店の者にも聞かせたくない話なのは間違いない。

「……そいつは、きのう話してくれたあんたの過去の話と何か関係があるのかい?」

「はい。――つい半月ほど前のことです」

 秋琴は大きくうなずき、語り出した。

「とあるお客さまの船遊びに招かれた時のことです。わたくしを迎えにくる途中、安英あんえいが、太平たいへいきょう近くで夫を見かけたというのです」

「は? 夫って……きのういってた臨安で行方知れずになったっていう、あんたの旦那のことかい?」

「はい」

「よく似た別人じゃないんですかあ?」

「わたくしも安英からその話を聞いた時、見間違いではないのかと思いました。すでにあの人はどこかで亡くなっているのではないかと、そう自分を納得させようとしていたこともありましたから……。ですけど、安英はわたくしが子供の頃から父に仕えてくれていましたし、夫のことも同様に子供の頃から見知っております。よもや見間違えるはずもございません。何より、安英が声をかけた時、夫は名前を呼ばれて振り返ったというのです」

「ってことは……本人なのかい?」

「あちらは船に乗っておりましたし、安英はわたくしを迎えにこなければならないこともあって、あとを追って確かめることはできなかったのですが……」

 そのあとも、安英はたびたび仕事の合間を縫っては太平橋界隈に足を運び、秋琴の夫を捜したのだという。その甲斐あって、安英はふたたび雑踏の中でその男に出会うことができた。

「で、そいつは本当にあんたの旦那だったのかい?」

「本人でした」

「え……? 生きてたんですか? いや、それはもちろんめでたいことですけどぉ、だったらどうして今まで故郷に戻ってこなかったんですか? 今この街で何をしてるんですかあ?」

「詳しいことはまだ……ですが、夫は安英から、義母の死や、わたくしが今この店にいることなどを聞くと、かなりの衝撃を受けたようで――」

「そりゃそうだろ」

 月瑛は水音とともに立ち上がり、全身の水気をざっとぬぐうと、汗取りの薄衣を肩からはおって椅子に腰かけた。

 ふつうの男なら、自分の留守中に母親が死に、その葬儀のために妻が身売りまでしたと聞けば、良心の呵責を覚えて当然である。しかし、今になって夫の行方が判ったとしても、ここまでかさねてきた秋琴の苦労がむくわれたわけではない。現に秋琴は今も妓楼にいるのである。その事実が、月瑛の心をささくれさせているようだった。

「臨安で行方知れずになったあと、いったい何があったのか……夫はわたしに会ってそれを説明したいといったそうです」

「それで、何があったんですか?」

「それはまだ聞いておりません……というより、夫と会うと約束していたのがおとといだったのです」

 おとといといえば、白蓉たちが秋琴と出会った日である。

「迎えの船を寄越すから、それに乗ってきてほしいといわれておりまして……ですが、伝え聞いていた場所に迎えにきたのはあの通りの男たちで、安英を殴り飛ばし、わたくしだけを連れ去ろうとしたのです」

「え? つまり……が運河に叩き込んだのは、旦那さんが寄越した迎えの男たちだったってことですか?」

「あれが夫からの迎えだったのかどうかも判りません……ですからそのことも含めて、あの人にはきちんと説明してもらいたいのですが」

「……でもさ、そのことと先生への頼みごと、どうつながるんだい?」

「夫を捜す間に、安英が少し調べてきてくれたのです。どうやら夫は、太平橋近くにある屋敷に出入りしているというか、そこに住んでいるらしいと」

「屋敷に住んでる? そんないい暮らしをしてんのかい?」

「今のところ判っているのは、その屋敷がどうやら陶大人の別邸で、今は大人のお嬢さまご夫婦が住んでいるらしいということくらいです」

「はい?」

「夫は今、陶大人のお嬢さまご夫婦と同じ屋敷に住んでいるようなのです」

「それって……え? どういうこと? 陶大人の娘さんと暮らしてる――? 娘夫婦? でも、旦那さんは秋琴さんと夫婦なわけで……」

「そのへんを確かめたくて話し合おうとしたら、あの三人組に拉致されそうになった、ってわけか」

 月瑛は団扇で自分をあおぎながら、卓の上に鏡を立てた。部屋の中だけでなく、いつの間にか窓の外でも水音がし始めている。夕立のせいか、格子越しに吹き込んでくる風がひんやりとして気持ちいい。

「わたしだったらその屋敷に乗り込んでって、有無をいわさず本人を締め上げるところだけどねえ……」

「わたしも、こちらからそのお屋敷にお邪魔することも考えましたけど、陶大人のお屋敷というのが――」

「そっか……何かあったら女将さんにも迷惑がかかっちゃいますもんね」

「でも秋琴さん」

 汗が引いたのか、月瑛ははおっていた衣を脱いで椅子の背にかけ、大きく足を組み変えた。白蓉のことを開けっぴろげすぎといっていたわりに、自分もそのあたりは同類だという自覚がないのかもしれない。

「――そういう事情があるなら、そのへんを先に文先生に説明しとくべきだったね。漠然と大人の娘夫婦のことを調べてほしいっていわれても、何を調べていいか困ってるんじゃないかい、今頃?」

「考えてみれば確かにそうですね……」

「とりあえず、今は先生の帰りを待ちませんか? こういう時にこそ、先生の知恵を使ってあげなきゃいけないと思いますし」

 立ち上がった秋琴の肩に薄衣をかけ、白蓉は笑った。


          ☆


 剣を帯びたいかめしい顔つきの護衛たちを下げ、江万里はふたりきりで文先生を迎えた。

「下野したあとどこに姿をくらましたのかと思っていたが……想像していた以上に近くにいたのじゃな」

「昨年はけいりょうのあたりまで足を延ばしておりましたよ。蒙古が怖くてそれ以上西には行けませんでしたが」

 拱手きょうしゅして頭を下げながら、文先生はそんな軽口を叩いた。しかし、江万里は特に気分を害した様子もなく、苦笑しながら空いている椅子を勧めただけだった。

「不遜なのは相変わらずか……」

「不遜ではございません。ただ少しばかり、直言がすぎるだけでして」

「それが不遜に見えるというのじゃ」

「私の言葉が耳に痛いと感じるのはそれが正論だからでしょう」

 まだ熱い碗に手を伸ばし、文先生は静かに嘆息した。

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