第三章 恥じらいのない女 ~第三節~
回廊の屋根の上で手を振っていた若者は、あたりに余人のいないことを確認して、ふわりと文先生の目の前に下りてきた。
「……ど、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ。あんた、まさかおれを追いかけてきたなんていわないだろうな?」
「ここへ来たのは――いや、ある意味ではそうですよ。月瑛さんはさばさばしたものですけど、白蓉さんは本気であなたのことを心配しているんですから」
「口うるさいあいつが?」
「だから獅伯さんはそのあたりの機微というものを少しは考えましょうよ。あなたがあまり女性に興味がないのは判りますけど……」
「興味なくはないぞ。ただ小娘に興味がないだけだ」
「それも絶対に白蓉さんの前ではいわないでくださいよ?」
そう苦言を呈しながらも、ついつい口もとがゆるんでしまうのは、ずっと捜していた獅伯に再会できたからだろう。
「で、先生はどうしてここにいるわけ? また食客気取りでここに住まわせてもらってるとか? 姐さんと白蓉はいっしょじゃないの?」
「食客気取りって何なんですか。……昔の知り合いがこちらに滞在しているらしいと聞いて、あいさつのために来たんですよ。今は月瑛さんや白蓉さんといっしょに、探花楼という妓楼に居候しています」
「へえ。妓楼に……ねえ?」
獅伯が文先生を見つめて意味ありげににやりと笑う。何かよからぬ想像をしているのかもしれない。文先生は大袈裟に溜息をついてかぶりを振った。
「――いっておきますけど、それはたまたまですよ? 月瑛さんが助けた女性がそこの売れっ妓だったので、そのお礼として間借りしているというか……」
「ああ……あの姐さんはやたら女にやさしいからな」
「それもありますけど、それ以上に、弱い女性を踏みつける男に対して容赦がないというか、そういうのは感じますね。――それで、獅伯さんのほうはどうしてここにいるんです? 屋根の上から現れるなんて、まさかどこからか忍び込んできたんじゃないでしょうね?」
「いや、ちょっとここの……陶大人だっけ? とにかくここの主人の、ひとり娘の婿と知り合いになったというか――」
「えっ?」
ひとり娘の婿と聞いて、文先生は眉をひそめた。
「陶大人の娘婿ということですか? ちなみにそのかた、お名前は? 今はどちらに?」
「は? あー……
獅伯がいうには、陶大人の娘夫婦を救うに当たって、獅伯が寝室の屋根を壊したりあたりを血の海にしたりと、ひと騒動あったらしい。
「……しかし何なんだろうな? 娘夫婦の屋敷は用心棒のひとりもいなくてやたら不用心だと思ったけど、逆に父親の屋敷にはやたら神経とがらせた連中がたくさんいやがってさ」
「そうなんですか?」
「ああ。成り行きとはいえ、おれもここでしばらく世話になるわけだし、ある程度は屋敷の構造とか把握しておこうと思ってさっそく見て回ってたんだけど、実はまだ、その陶大人てのにあいさつしてないんだよ」
「ああ……だから大っぴらに屋敷の中を移動できなくて、それで屋根伝いにってことですか?」
「ま、そんなとこかな」
獅伯は北西のほうの空を指差し、
「――何だかあっちのほうの離れに剣を持った連中が何人もいるっぽいんだよ。うっかり見つかって曲者呼ばわりされるのも嫌だから引き返してきたとこでさ」
「それはおそらく、この屋敷の用心棒というより、江先生の護衛役ではないかと思いますが」
「江先生? 誰だ、それ?」
「獅伯さんに判りやすくいうならとても偉いお役人です。どうやら陶大人の知り合いのようで――」
「あ、ちょっと待った」
江万里について説明しようとした文先生をさえぎり、獅伯は背中の剣が鳴らないように手で押さえてふたたび屋根の上に飛び上がった。
「ちょ、獅伯さん!?」
「誰かこっちに来そうだ。……じゃあまたな」
一方的にそう告げて、獅伯はたちまちその場から姿を消してしまった。
獅伯の言葉通り、ほどなくして陶大人が家僕たちを引き連れて戻ってきた。獅伯ともう少し話していたかったが、ひとまずは居場所が判っただけでも収穫といえる。文先生は頭を切り替え、江万里との面会に臨んだ。
☆
その日、女たちだけで沐浴しようといい出したのは白蓉だった。
寝る時には隣の部屋へ行ってくれるといっても、やはり同じ離れに文先生がいると、思うように水浴びはできない。がまんも限界に近づいていた。
「……自分でお願いしたのにこんなこというのもあれなんですけどぉ、よくもまあこんな大きな桶がありましたねえ」
桶の直径は白蓉が身体を伸ばして寝転がれるほど大きい。そこに膝丈ほどの深さまでぬるま湯を張ってもらい、
「慌てて転ぶんじゃないよ」
「大丈夫ですよう」
さっさと裸になり、白蓉は桶の縁をまたいでぬるま湯の中に身体を沈めた。
「ふー……」
白蓉と月瑛の剣の師匠は、
「姉妹揃って慎みがなくて申し訳ないねえ」
部屋中の窓と扉を開け放ち、月瑛は帯をゆるめた。
「いえ……」
逆に秋琴は、ほかには白蓉と月瑛しかいないというのに、わざわざ衝立の陰に入って重たげな衣を脱いでいる。妓楼で暮らしていれば、女同士でいっしょに湯を使うことなど日常茶飯事だろうに、ああして恥じらいを忘れずにいるところも、秋琴の魅力のひとつなのかもしれない。
「……少なくともわたしたちにはああいう初々しさはないですしねぇ」
「自分をかえりみられるってのは立派だけど、とりあえずあんた、少しは遠慮しな」
月瑛は長い黒髪をまとめていた巾をほどきながら、桶の真ん中で大の字になっている白蓉を足で押しやった。
「――というか、いくら何でも開けっぴろげすぎだよ」
「いいじゃないですかぁ、別に誰かが見てるわけでなし……」
白蓉は身を起こし、あぐらをかいて頬をふくらませた。
そこから見上げる月瑛の肢体は、白蓉の目から見てもうらやましいほどに綺麗だった。均整の取れたしなやかな筋肉を、うっすらとやわらかな脂がおおっていて、それがとても女らしい曲線を描き出している。刀創のひとつもない白い肌は、月瑛の剣士としての力量をしめすものでもあった。
それとくらべると、白蓉の身体は胸や尻のまろみに欠けていて、判りやすくいえばまだまだ子供っぽい。それが白蓉にはどうにももどかしかった。
「人目を気にせず沐浴できるなんてめったにあることじゃないんですよう?」
「そうはいうけどねえ、たとえば獅伯だったら、あんたに気取られずにこの部屋をこっそり覗くぐらいはできるんだよ? 下手すりゃ丸見えだよ? それでもいいのかい?」
「え!?」
「たとえばっていったろ? 安心しな」
白蓉が慌てて膝を閉じると、月瑛は空いたところに腰を下ろしてひと息ついた。
「それにしても……旅から旅の毎日には慣れっこだけど、まとわりつくようなこの湿気はさすがに嫌になるねえ」
手ですくった湯を肩からかけ流し、髪に櫛を通し始めた月瑛は、上目遣いに衝立のほうを見やった。
「――秋琴さん」
「はい、何でしょう?」
見るからに重そうな衣装をすべて脱ぎ去り、自身の身体をかきいだくようにして衝立の陰から出てきた秋琴は、楚々とした仕種で桶の縁をまたいで月瑛の向かいに腰を下ろした。白い肌のあちこちに、まだ青黒い痣が残っているのが痛々しい。
「ゆうべ先生に妙なことを頼んだろう? あれってどういうことなんだい?」
「あれは……」
きのう文先生は、女将に陶大人への紹介状を書いてもらえるよう秋琴に口添えを頼んだが、それと引き換えに秋琴が口にしたのが、陶大人の娘夫婦のことを調べてきてほしいという話だった。なぜ秋琴がそんなことをいったのか白蓉にはよく判らなかったが、どうやら月瑛も同じ疑問を持ったらしい。
「ここの女将は陶大人とは昔からの知り合いなんだろう? なら、陶大人の家庭のことだって、女将はそれなりに知ってるはずだ。わざわざ文先生に頼んで調べてきてもらうまでもなく、女将に聞けばすむことじゃないかい?」
「…………」
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