第三章 恥じらいのない女 ~第二節~
「おまえ……いや、あんたら、もしかして――」
ふたりの風貌に見覚えはない。が、
「……
「ほう? わたしたちの名を知っているということは、察するに、おまえも
「ああ。……
呼吸を整え、天童はいった。もちろん口から出まかせである。そもそも天童は魁炎のことをおっさんと呼んだことはあっても、師兄などとうやまって呼んだことはない。だが、ここではそういっておくほうがいいと思った。元章はともかく、泉玉は同門であっても邪魔だと思えば平然と斬って捨てる冷酷な女剣士だという噂だったし、ほかならぬ魁炎からも、泉玉の機嫌をそこねないよう気をつけろといわれている。
ましてや、もしこのふたりが林獅伯を狙ってここへ来たのであれば――そして天童もまた獅伯を狙っているのだと気づかれれば――少しでも競争相手を減らすために、この場で天童を斬ろうとするかもしれない。天童が魁炎と近しい仲だとよそおったのは、つまりはふたりを牽制するためだった。
そんな天童の言葉をどう捉えたのか、泉玉は元章と顔を見合わせ、何ごとか小声で話し合っていた。
「…………」
天童と船の距離は二丈あまり――この隙に逃げるべきだという考えが頭をもたげたが、魁炎がわざわざ気をつけろというほどの使い手たちであれば、この程度の距離はあってないようなものかもしれない。あの時の魁炎が泉玉についてああいういい方をしたのは、おそらく、今の天童では勝ち目がないと判断したからだろう。天童自身、こうして本人を目の当たりにしても、かならず勝てるとは断言しかねた。
「師兄の用事というのは何です?」
泉玉がそう尋ねる。彼女ならもうひと飛びで天童の目の前に踏み込めるだろう。内心の緊張を押し隠し、天童は泉玉と元章のほかに四人の剣士たちがいるのを確認しながら、あえていつも通りの口調で答えた。
「勘弁してくれ。師兄以外に教えるわけにゃいかないんだよ。……ま、あんたが
「――――」
その瞬間、泉玉の顔に浮かんでいた冷ややかな笑みが消えた。
「!?」
すさまじい殺気を感じた瞬間、天童は大きく後方へ飛びすさり、背中の剣をなかばまで抜きかけていた。完全に抜き放たなかったのは、殺気を放ったはずの泉玉の肩を、背後にいた元章が押さえていたからである。
「……よせ。こいつは使えそうだ」
「判っていますよ」
泉玉は静かに怒気を吐き出し、ふたたびにこやかに微笑んだ。
「おまえ、名前は? そのくらいは聞いてもよいでしょう?」
「……
天童が名乗ると、後ろに控えていた男のひとりが、元章にそっと耳打ちした。
「……確かに王師兄に目をかけられている男らしい。腕も立つようだ」
あの中に、天童を見知っている者が交じっていたらしい。それを聞いた泉玉は、袖口に手を差し入れ、
「――先を急いでいないのなら、わたしたちの頼みごとも引き受けてみませんか?」
「頼み? あんたらが? 俺に?」
「……少しでも人手が欲しい」
「俺もあんたらの噂は王師兄から聞いてる。いろいろとな」
剣の柄から手を放し、天童はいった。
「あんたらほどの使い手が、人手を欲しがってるってのはどういうことだ? というか、後ろにもう何人もいるじゃねえか」
「……多ければ多いほうがいい」
「そんなに人手がいるのか? いったい何する気だよ?」
「おまえのような使い手を集めているんです。判りませんか?」
「……そこははっきりしとこうぜ? でなきゃこっちも返事のしようがない。王師兄を待たせてもいい用事なのかどうか判断できねえだろ?」
もしここで、このふたりが獅伯を斬るために人手を集めているといい出したら、天童にはいよいよ手が出せなくなる。どちらかひとりだけでも厄介なのに、泉玉と元章を同時に出し抜き、その上で獅伯を斬るのはまず不可能だった。
「……おまえは、この街に来て長いのか?」
「いや、まだ着いて数日ってとこだが――」
「この街でもっとも大きな絹問屋をいとなむ
「……当人かどうかは知らねえが、陶大人とかいう金持ちの名前は聞いたことあるぜ。そいつを斬りたいのか?」
「厳密には違うが、その屋敷に踏み込むことにはなるかもしれん」
元章はそこで天童の背後にある屋敷を一瞥した。
「……この屋敷は?」
「ここは――三人組の盗っ人どもが塀を越えて入ってくのを見かけたんでな、出てきたところをその上前でもはねてやるかと待ち構えてたんだが、どうも返り討ちに遭ったらしい」
ここに林獅伯がいるかもしれない――とはいわなかった。彼らの興味が獅伯の首に向かうのだけは避けたかった。
「それでか……道理で新しい血の臭いがするわけだ」
「それよりあんたら、俺の手を借りたいっていってたが、いったいいくら出してくれるんだ? 安売りする気はないぜ?」
「まずは二五両」
袖の中に隠れていた泉玉の手が銀の塊を掴み出し、無造作に放り投げる。まったく躊躇がなかった。
「おいおい……気前いいんだな、あんたら。少し誤解してたかもしれねえ」
「どういう意味です? おかしな男ですね……」
喜色満面で銀塊を受け取った天童の反応に、泉玉が面白そうに笑った。
☆
丸々と太った五〇ほどと見える男は、
「
「はい。突然の訪問にもかかわらず、お時間を作っていただきありがとうございます」
昔馴染みの女将の紹介とはいえ、何の面識もない一介の書生が唐突にやってきて面会を求めてきたのをこころよく迎え入れるのは、陶大人と呼ばれる人物の懐の深さを物語っている。
ただ、それでもこの屋敷に滞在している
文先生はそこへさらに自筆の手紙を取り出し、大人に渡した。
「お手数ですが、まずはこちらを江先生にお渡しいただければと……それでお判りいただけるかと思います」
「失礼ですが、あなたは江先生と面識がおありで?」
「はい。今でこそ野に下っておりますが、かつてはお国から禄をいただいておりました。先生ともその折に何度かお会いしたことがございます」
「そ、そうでしたか!」
それまでも陶大人の態度は充分にていねいだったが、文先生が元官僚だったと知ると、さらに腰が低くなった。今の言葉だけで信用してくれたのはありがたいが、やや人を信じすぎるのではないかと心配にもなる。
「文どの……いや、文先生とお呼びしますか、とっ、とにかく! 今少しこちらでお待ちください! すぐに江先生にお伝えいたしますので……」
「お手数をおかけいたします」
慌てて部屋を出ていく陶大人を見送り、長々と嘆息した文先生は、あらためて部屋の中を見回した。
若い頃は官僚を目指していたというだけあって、陶大人は書画骨董など多くの分野に通じた教養人のようだった。壁を飾る軸や置かれている壺など、どれもすばらしいものばかりで、本人が目利きでしかも財力があると、こういう趣味のいい部屋ができ上がるものらしい。
陶大人を待つ間、文先生は開け放たれた扉から庭に出て、探花楼とはまた違ったおもむきのある菖蒲の咲く池のほとりに立った。
「さて――どうやって調べたものか」
陶大人こと陶成大の屋敷を訪ねることはできた。大人に託した手紙を読んでもらえれば、じきに江万里との面会もかなうだろう。ここへ来た文先生の用事はそれでほぼ達成できるだろうが、もうひとつ、秋琴に頼まれた用事については何か策を講じないといけないかもしれない。
「――だいたい、客人の身分でお邪魔しているのに、どうやってそんなことを調べたらいいのやら……こういう時、獅伯さんならひょいひょい屋根伝いに走っていって、小間使いたちのおしゃべりを盗み聞きするとかできるのかもしれませんが」
「おい、あんたはおれのことを何だと思ってるんだ?」
「うわ!?」
ぶつぶつとひとりごちていたところにいきなり背後から声をかけられ、文先生は慌てて振り返った拍子に池に落ちそうになってしまった。
「し、獅伯さん!?」
「よう、元気そうだな」
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