第三章 恥じらいのない女 ~第一節~
夜中に目が覚めた。
きのうは何かに邪魔されることもなく、朝までぐっすり眠れたが、そんなしあわせは二日と続かなかった。
「…………」
庭に棲みついているはずの虫の音が唐突に途絶えたのは、何かが起こりつつある兆しだろう。その直後、どこかで瓦が割れる音を獅伯は確かに聞いた。それだけで目が覚めてしまったのは、生来の勘のよさと、つねにつきまとう頭痛が
寝台から音もなく這い出した獅伯は、身支度を整えて部屋を出た。
耳を澄ますと、ぬるい夜風が木々の枝葉を揺らす音だけが聞こえてくる。その中に、今度は陶器が割れる硬い音が交じったのを、獅伯は聞き逃さなかった。
「……あっちか」
瓦を鳴らすことなく回廊の屋根の上へと飛び上がった獅伯は、ひとまず母屋のほうへ走った。
この屋敷には、若い夫婦のほかには、小間使いたちが一〇人ほど、それも若い娘と老人しかいない。昼間それを聞いてずいぶん不用心だと思ったものだが、懸念していたことがいきなりその夜に現実になるとは思いもしなかった。
「いかにも金がありそうな屋敷なんだから、もっと塀を高くするとか、信頼できる用心棒を置いとくとかすりゃいいのに……夫婦揃って世間ずれしてないっていうか、危機感がないのがなあ」
もしここに頼もしい用心棒がいるのなら、彼らに侵入者の存在を知らせて警戒させるという手もあるが、この屋敷の住人たちにそこまで求めるのは酷というものだろう。むしろ賊に気づかず寝ていてくれたほうが、獅伯としてはありがたかった。
「うっかり巻き込んでも嫌だしなぁ……」
音もなく梁上を駆けて母屋へやってきた獅伯は、聞き覚えのある裏返った悲鳴を聞いて咄嗟に身を伏せた。
「……今のは若旦那か」
夫婦の寝室のあたりに見当をつけ、獅伯は軒先から大きく身を乗り出すと、格子越しに室内を覗き込んでみた。
「あー……」
小さな明かりがひとつともされただけの薄暗い部屋の中で、
「……騒ぐなよ」
低い声で志載に告げたのは、ゆうべ獅伯が叩きのめした三人組のひとりだった。揺らめくはかなげな明かりのそばに立っていた残りのふたりも、やはりゆうべの男たちのようだった。
「下手に騒いだら奥方の顔に傷がつくかもしれねえからな。そりゃあ嫌だろ?」
男が咳き込みながら笑うたびに剣の切っ先が揺れ、それを凝視する
「さあ、出すもん出しな。ゆうべ約束したろ?」
「ひとり頭一〇〇両だ。それでおとなしく帰ってやるし、あの女のことも忘れてやっからよ」
「ひ……!」
頬を押さえた志載は、妻を気遣うこともできずにへたり込んでいた。この男の不甲斐なさはすでに知っていたが、妻の前でこれはさすがにあきれる。とはいえ、迂闊に抵抗すれば本人はもちろん、香君の身もあやうくなるのは明白だった。
「……まずは奥方のほうだな」
大男が志載を脅しつけ、寝台の下から長櫃を引きずり出させているのを見て、獅伯は屋根の上を静かに移動した。
「このへんだと思うんだが――」
音を立てないよう慎重に瓦をどけ、三尺四方ほど屋根板を剝き出しにした獅伯は、背中の剣を抜いて軽く首を回した。
「――――」
切っ先を素早く走らせて丸く切り込みを入れると、獅伯はすぐさま屋根板を踏み抜いて部屋の中に飛び込んだ。
「――んがっ!?」
天井を突き抜けて落ちてきた獅伯に頭を踏みつけられ、香君に剣を突きつけていた男が無様に突っ伏した。
「な――え!?」
「きのういったよな? これ以上やるなら容赦しないって」
ぼそりといい放ち、獅伯は驚きに固まっている男の胸に剣を突き立てた。この手の懲りない悪党相手に必要以上の情けをかけるのは悪手だろう。獅伯自身はいくらでも降りかかる火の粉を払いのけられるが、次にまた志載たちが狙われた時に救いの手を差し伸べられるとはかぎらない。
「がはっ……!」
血を吐きながら大きく咳き込んだ男を蹴り飛ばすと同時に、獅伯は大男に向かって跳躍した。
「貴様、ゆうべの――!?」
突然の闖入者が獅伯だと今頃気づいたのか、大男はぎょっと目を見開き、慌てて剣を振り上げた。
「こうなれば――」
「よせって」
大男が獅伯ではなく志載のほうに剣を向けた刹那、獅伯は横薙ぎに剣を一閃させつつ大男のかたわらを駆け抜けた。
「ぉ、ぐ」
断続的な呻き声をもらし、大男は前のめりに倒れた。
「……あんた、奥さんの縄をほどいてやんなよ。おれはほかに仲間がいないかどうかちょっと様子を見てくる」
呆然としている志載の頬をぺたぺたとはたいて正気に戻すと、獅伯は刀身に残った血糊をぬぐい、天井の穴から屋根に上がった。
蒸すような夏の夜気には濃い血の臭いが混じっていたが、あたりを見回してみても、あらたな襲撃者の姿はない。こちらに向けられる殺気もなく、やがて、いったんは絶えていた虫の音が徐々に戻ってきた。
「…………」
しばらくあたりの様子を窺っていた獅伯は、自分の足下で女が泣き始めたのを聞きつけ、大きく深呼吸して剣を納めた。
夫婦の寝室では、顔を腫らした志載と香君が抱き合い、涙を流しておいおいと泣いている。妻のほうはともかく、もう三〇になろうかという志載のこの姿には、さすがに獅伯も溜息しか出てこない。
「……あんたたち、もっと用心しろって親父さんにいわれなかった?」
「い、いわれておりましたけど、おとうさまの屋敷ならともかく、うちにはそんな、財産なんてほとんどありませんのに、まさか泥棒が押し入ってくるだなんて――」
「いやいや、なくはないだろ。この屋敷だって充分すぎるくらいに財産があるように見えるんだって、庶民からすれば」
価値観がおかしい若妻の泣き言にあきれつつ、獅伯は血臭満ちる寝室の中を見回した。ひとりは獅伯に頭を踏まれた際に首の骨が折られて即死していたが、残りのふたりは胸をひと突き、あるいは横一文字に斬られていたため、あたりはちょっとした血の海になっている。獅伯自身はいまさら人の死を見ても驚きもしないが、志載や香君には刺激が強すぎるだろう。
「……とりあえずあんたたちは使用人たちのところに行ってなよ。ここはおれがどうにかしとくから、ほら、早く冷やさないと腫れがひどくなるし」
「は、はい……」
志載と香君は、おたがいにささえ合うようにして寝室を出ていく。ひとまず若夫婦を死なせずにすんだことに安堵し、獅伯は男たちの死体を引きずって外に運び出した。
「夜が明けたら役人を呼んでもらわなきゃならないだろうけど……また面倒なことになりそうだな」
三つの躯に血にまみれた布団をかぶせ、獅伯はぼやいた。
☆
「……!」
夜目にも白い塀の向こうに消えていった三人組は、おそらくもう生きていないだろう。剣戟の音こそなかったが、強くただよってきた血の臭いでそうと判る。もともとさしたる腕のないあの三人ではこうなるのも当然だろう。
ただ、彼らを斬ったのが
天童の視線は、すでに屋敷のほうには向いていなかった。
「……誰だ?」
柳の木に背を預け、いつでも剣を抜ける態勢のまま、天童は運河に浮かぶ船へと誰何の声を飛ばした。ふだんならこれほど身構えて問うたりはしない。天童がいつになく神経を張り詰めさせているのは、静かに近づいてきたその船から、ただならぬ覇気を感じたからだった。
「そう尋ねるおまえこそいったい何者です? こんな夜分にこちらの素性を問いただすおまえこそ、夜盗か追い剥ぎのたぐいではなのでは? それともこの地の
返ってきた慇懃な声は明らかに女のものだった。
「女……か?」
「女なら何だと?」
かすかな艪のきしみを引きずってやってくる船の上には、数人の人影が並んでいた。わずかな星明かりに目を凝らすと、舳先に立っているのは男のように髪を結い上げた浅黒く日焼けした長身の女で、そのすぐ後ろにさらに背の高い男が立っている。そのほかにも男たちが数人――いずれも剣をたずさえているようだったが、中でも特に腕が立つのは、舳先にいるふたりの男女だった。
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