第二章 流されてきた女 ~第七節~
☆
日が暮れ、徐々に夜の色が濃さを増していく中、探花楼のにぎやかさも増していく。鎮淮橋界隈にはほかにもいくつか妓楼があるが、その中でも、この店がもっともにぎわっているのは明らかだった。
「長江の向こう岸はほとんど蒙古に支配されちまってるってのに、呑気というか……いや、そういう現実を忘れたいから騒いでるのかねえ?」
襟を広げてはたはたと団扇で風を送り込みながら、月瑛は誰にいうでもなく呟いた。しかし、いつもならこういう時にすぐに嘴を突っ込んできて、国の状況がどうの、諸国の動静がどうのといった話につなげようとする文先生が、なぜかやたらとおとなしい。窓辺に置いた椅子に座って何やら物思いにふけっている。
もぐもぐと
「……先生、何か様子が変じゃないですかあ?」
「確かに妙だね……」
白蓉の言葉にうなずきながらも、月瑛には何となく、文先生のいつにない表情の理由が判るような気がした。
ふだんどこか頼りなさげでへらへら笑っている印象の強い文先生は、反面、読書や勉強といったことに意識が向くとそれ一辺倒になるところがあって、そうなると好物の酒の匂いにも気づかないくらいに没頭してしまう。文先生の今の横顔は、読書に集中している時のそれによく似ていた。
そこに、小間使いの娘たちを連れて秋琴がやってきた。
売れっ妓の彼女がこんな時間にここにいるのは、あちこちにできてしまった痣が消えるまで床入りできないからだろう。わざわざ説明されずとも、そのくらいは察せられる。この探花楼にとっては大きな痛手に違いない。
「食事のほうはもうおすみでしたか?」
「とっくにすんでるけど、そんないちいち気にしてくれなくたっていいんだよ?」
「そうですよう。わたしたちなんて、それこそ物置にでも放り込んでおいてもらえればいいんですから」
「またそんなご冗談を――」
秋琴は楽しそうに笑った。今のを冗談と受け止めるところや、ふだんのふるまいを見ていると、もともと秋琴はそれなりにいいところの生まれのような気がする。少なくとも月瑛よりはよほどまともな家で生まれ育ったのだろう。
「秋琴さん」
何ごとか考え込んでいた文先生が、神妙な表情で卓のところにやってきた。
「――陶大人はもうお帰りになりましたか?」
「え? ……ええ、先ほど」
「陶大人のお連れというのは、江万里先生ですよね?」
「ええ、その通りですけど……どこかでお聞きになりましたの?」
「ま、ちょっと」
「わたくしは詳しくは存じませんけど、とても偉いお役人さまだそうで……」
「今は
「それって何なんですかあ?」
「戸部というのは土地や戸籍を管理する役所ですよ。その長官を戸部尚書と呼ぶわけですが、まあ、実際にこの国を動かしている人物のひとりといっていいでしょうね」
「まあ……そんなに偉いおかただったのですね」
文先生の説明を聞いて、秋琴はいまさらのように驚いている。月瑛はその何とかいう役人には興味はないが、ただ、文先生がここでその話題を持ち出してきたことは少し気になっていた。
「……なあ先生、やっぱりあんた、その江万里とかいうお人と知り合いなんじゃないのかい?」
「知り合いと呼んでいいかどうか……かつて江先生は、私の生まれ故郷で知事をなさっていたことがあるんです。その折に設立してくださった学校で、私は勉学にはげんでいました。ですからある意味では、今の私があるのは先生のおかげといっていいかもしれませんね」
「へえ……そんなことがあったんですかぁ」
「でしたら、お帰りになる前にごあいさつなさればよろしかったのに……」
「いえ、江先生と陶大人にも何か大事なお話があったでしょうし、その邪魔をするのもと思いまして……そもそも、江先生と陶大人はいったいどのようなご関係なんです?」
「それは――」
秋琴は一度口を閉ざすと、団扇を持った手を軽く振って娘たちを下がらせ、あらためて話し始めた。
「すべて女将からの伝聞ですが……陶大人は子供の頃から聡明なおかたで、一時期は科挙に及第することを目指していたのだ聞いております」
「は? だってその陶大人てのは、街でも指折りの大商人なんだろ? それが役人になりたくて科挙の猛勉強するっておかしくないかい?」
「陶大人には家業を継ぐ予定のお兄さまがいらしたのですわ。ですからご自身は、子供の頃から好きだった勉学に打ち込み、中央の官僚として身を立てることをお考えだったらしいのです。でも、そのお兄さまが早くに亡くなられて……」
「ああ……それで夢をあきらめて親父のあとを継いだってわけかい」
「そういうこともあって陶大人は、今のご自身にできる形でお国のために何かできないかと、官僚のかたがたに何かと援助しておいでだそうで……もちろん商売につながることもお考えなのでしょうけど、ですから江さまをお連れになったのも、そのようなことではないかと思います」
「ということは、ひょっとするとこの店を探花楼と名づけたのも陶大人なのでは?」
「確かにそうですけど――」
「やはりそうでしたか」
「どうして判ったんですかあ?」
「殿試でもっとも成績がよかった主席及第者を
「そういう文先生は探花だったのかい?」
「あいにくですが違いますね」
文先生は肩をすくめてお茶をすすった。すでにその時には、先に見せていた神妙そうな表情は消え去り、いつもの――おそらくは
「――ですが、陶大人といっしょにお帰りになったということは、江先生は今は陶大人のところに滞在なさっておいでなのでしょうか?」
「だと思いますけど――」
「何を考えてるんだい、文先生?」
「まあ、いろいろとです。……ねえ秋琴さん、ひとつお願いがあるんですが」
「何でしょう?」
「あなたから女将にお願いして、陶大人への紹介状を書いてもらえませんか? なるべく早く陶大人のお屋敷にお邪魔したいんですよ」
「どうしてそんなこといい出したのか判りませんけど、それはさすがに図々しくないですかあ?」
「まあまあ、聞いてくださいよ、白蓉さん」
じとりと自分を睨む白蓉に苦笑し、文先生は説明した。
「――陶大人が若い頃に勉学に打ち込んでいて、しかも建康屈指の素封家というのなら、きっと大人のところにはさまざまな書物があると思うんです」
「それがお目当てですか? ほんとに本の虫ですねえ」
「いやいや、これは獅伯さんを捜すことにもつながるんですよ?」
「え?」
「獅伯さんの剣の由来を突き止めるには、鞘に刻まれている異国の文字を解読するのが近道ですからね」
文先生は懐から四つにたたんだ数枚の紙を取り出した。
「何だい、それ?」
「前に取らせてもらった拓本ですよ。もともと獅伯さんとは、大きな街に行ったら手分けして手がかりを捜すつもりでいたんです。ですから、獅伯さんがいなくても、剣について調べを進めることはできます」
文先生が広げた上質な紙の上には、獅伯の剣の鞘に刻まれていた見慣れない文字群が、黒白反転してあざやかに写し取られている。何だかんだでこういう抜け目がないところが、文先生がただの頭でっかちな書生とは大きく違うところだった。
「つまり、剣の手がかりについて調べていけば、途中で獅伯さまと出会う可能性もあるってことですかぁ?」
「そうですよ。判っていただけました?」
あれこれ話し始めた文先生と白蓉を横目に、秋琴はそっと月英に尋ねた。
「あの……今のお話にあった獅伯さんというのはどなたです?」
「ああ、獅伯ってのはわたしらの連れだよ。少し前にはぐれちまったっきりなんだけどさ。この街にいるかどうかはまだ判らないけど、どうも先生は、いるはずだと睨んでるみたいだ」
「…………」
「でもまあ、それはこっちの都合だし、先生の頼みごとは無視してかまわないよ。あんたにはこうしてもう充分に世話になってるわけだしね」
「いえ……別に女将に紹介状を頼むのはかまいません。ただ、その代わりと申し上げては何ですが、わたくしのほうからもひとつお願いがございます」
「お願い?」
「陶大人のお屋敷にお邪魔した時に、調べてきていただきたいことがあるのです」
そう続けた秋琴は、どこか思いつめたような顔をしていた。
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