第二章 流されてきた女 ~第六節~

「あらあら、驚きましたわ。文先生は江ばん先生をご存じで?」

「もちろんですよ」

 女将の口から出てきた名前に、文先生は大きくうなずいた。

「以前、先生にはたいへんお世話になったのですが……今でもお元気なのでしょうか?」

「わたしはお会いするのは初めてなのですけど、お年のわりに健啖家でいらっしゃいます。お酒もお好きなようで……あ、お知り合いならごあいさつに――」

「いやいや、あちらは私のことなど覚えていないでしょうし、何やら大人と重要なお話をなさっておいででしょうから、そのようなお気遣いは無用です」

「……そうですか?」

「ええ。――それじゃありがたくいただいていきますね」

 文先生は女将から酒甕を受け取ると、それをかかえて歩き出した。

「まさかとは思ったけど、本当に江先生だったか……陶大人とはどんな関係なんだ?」

 満開の桔梗に縁取られた小径を離れに向かって歩きながら、文先生はひとり小さく唸った。

 池の水面近くを踊るように蜻蛉が飛んでいる。肌で感じる以上に、夏の終わりと秋の訪れは近づいているようだった。


          ☆


 その男は、兎肉と葱の炒め煮をちびちびとつまみながら、安い酒をこれもまたちびちびと飲んでいる。大きな身体を丸めて椅子に腰かけ、黙々と酒を飲むその姿は、まるで日がな一日草を食み続けるおっとりした牛のようだった。

 この大男は仲間からちょうたつと呼ばれている。どこの生まれかは判らないが、少なくともこの建康についてはそれなりに詳しいらしい。

「いててて……」

 張達の向かいで酒を飲んでいた痩せっぽちの男が、不意に胸を押さえて顔をしかめた。

「……大丈夫か、ほう?」

「ああ……骨は折れちゃいねえ。ひびくらい入ってるかもしれねェが」

 張達の問いに、李包と呼ばれた男は縁の欠けた碗で安酒を一気にあおり、また小さく咳き込んだ。

「――それにしても、ゆうべはホントについてなかったな」

 三人目の男の名前はおうかん――特に調べたわけでもなく、ほんの四半刻ほど彼らの会話に耳を傾けているうちに、おのずと判ってしまった名前だった。

「まったくだ。小遣いを稼ぐつもりでいたのに運河に叩き落とされて、話が違うと文句をつけにいったら胸骨をへし折られかけて――」

「……いまさらいっても仕方あるまい」

 李包の愚痴を張達がさえぎる。

「たぶん俺たちは、命があっただけでも運がいい」

 そう呟いた張達もまた、どこかにぶつけたのか、額の右のほうに大きなこぶをこしらえていた。

「あの女剣士にしても、妙な剣を背負っていた小僧にしても、どちらも尋常じゃない強さだったからな」

 喧嘩に負けた三人組のぼやきを背中で聞きながら、笑いを押し殺して酒をすすっていたきょう天童てんどうが、思いもかけず息を吞むことになったのは、妙な剣を背負った小僧という言葉を聞いた時だった。

「…………」

 酔っ払いの笑い声、器が触れ合う音、酒がこぼれる水音――猥雑な騒々しさの中で、天童はじっと耳をそばだて、背後で交わされる男たちの会話に意識を集中させた。

「そりゃあおめえはいいかもしれねェよ、こぶだけですんでんだから。――でも俺は死にかけてんだぞ?」

「そうだそうだ、俺は小指を落とされかけた」

 李包の言葉にうなずく王韓が、きつく布が巻かれた右手を振って見せた。

「さすがにこのまんまじゃ腹の虫が治まらねェぜ。薬代で金も減っちまったし」

「……そうはいうが、それこそ寝込みでも襲わないかぎり、俺たちが束になってもかなわんぞ?」

「ならそうしようじゃねえか。寝てるところを三人でぐさっとやりゃあ――」

「待て待て、小僧にしろ女にしろ、そもそもどこにいるってんだよ?」

「それなんだがよ」

 ほとんど空になりかけている料理の皿を脇へ押しのけ、王韓が大きく身を乗り出した。

「……ゆうべの書生、どこに住んでるか判ったぜ」

「何? おまえ、いつの間に――」

「――ゆうべ俺らが手もなくやられちまったあと、小僧といっしょにあの書生も姿を消しただろ? あの時ちょろっと聞こえたんだけどよ、あの書生、呉志載とか名乗ってたんだ。でな、昼間、ちょいと呉志載ってのが何者なのか調べてみたんだよ」

「何か判ったのか?」

「ああ、ちょいと敷居の高そうな酒楼で聞き込んだら拍子抜けするほどあっさりと判ったぜ。あいつ、けっこう遊び回ってるらしくてな」

「……ということは、やはり金持ちの息子か?」

「まあそんなところだな。……ヘヘッ、あいつを締め上げりゃ、小僧の居場所が判るかもしれねェ」

「いやいや、この際あの小僧は二の次だろ。あの書生を強請って金を巻き上げられりゃそれでいいんだからよ」

「それもそうだな……それで、あの書生はどこに住んでる?」

「あー、それな……教えるのはかまわねえけどよ、代わりにここの飲み代、おめえらふたりの奢りでいいよな?」

「は?」

 ここへ来てもったいをつける王韓を、張達と李包がじろりと睨みつける。

「おめえなあ――」

「そう目くじら立てんなって。俺は聞き込みのために、小間使いにこづかいやったり酔っ払いに酒を奢ったり、とにかく身銭を切ってきたんだぜ? そのぶんを埋め合わせてくれてもいいと思わねぇか?」

 その王韓の言葉に、張達と李包は顔を見合わせた。

「……いいだろう。おまえの話が本当であればな」

「よし、決まりだ」

 話がまとまったのか、三人は額を突き合わせてあれこれと話し始めた。だが、土地勘のない天童には、彼らの話に出てくる地名や店の名前が理解できない。

「……実際に案内してもらうしかねェか」

 天童は残っていた素麵を一気にすすると、空の丼の中に銭を放り込んで立ち上がった。

「ごちそうさん」

 日中の蒸し暑さが未練がましく居座る宵の口、天童は襟もとを大きくくつろげながら、運河に架かる石造りの橋のたもとへと下りていった。

 多くの富が集まる街には、そのおこぼれにあずかろうと多くの人間が集まってくる。しかし、その全員が豊かになれるはずもなく――たとえばすぐそこの橋の下で身体を丸めて眠っている老人のように――大半の人間は夢破れて貧困に喘ぐことになる。仮にここで成功を掴んだ者が一〇人いるとしたら、おそらくその千倍、万倍の人間が大きな挫折を味わっているに違いない。

 まだほんのりとあたたかい橋脚に背中を預け、天童はその場にしゃがみ込んだ。

 天童が林獅伯を捜して建康にやってきたのは数日前のことだった。もんの剣士たちが獅伯を狙って動き出している中、獅伯の顔を見知っているぶんだけ自分は有利だと考えていたが、肝心の獅伯の行方はまだ掴めていない。そもそもこの街に獅伯がいるかどうかの確証すらなかったが、長江沿いに移動しているなら遅かれ早かれここを通ると考え、建康で網を張っていただけなのである。

 そんな時、思いもかけず向こうから手がかりが転がり込んできた。あの三人が話していた妙な剣を背負った小僧というのは、おそらく獅伯に違いない。何も確証はないが、そういう予感がある。

「……おっと」

 深い呼吸を静かに繰り返して酔いを醒ましていた天童は、あの三人組が酒家から出てきたのを見て立ち上がった。

 三人組は連れ立って運河沿いの通りを西のほうへと歩いていく。足取りから見て、三人ともさほど酔っている様子はない。橋のたもとから通りに上がった天童は、距離を開けて彼らのあとを追った。あたりには同じような酔っ払いたちも多く、この雑踏の中で三人組が天童の追跡に気づく気配はない。

「……牙門の連中が相手だったら、こうもあっさりあとをつけさせちゃくれねェだろうなあ」

 小さくほくそ笑んだ天童は、雨がぱらつき始めた宵闇の空を見上げて笠をかぶった。

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