第二章 流されてきた女 ~第五節~
「あのじいさん、昔っからあんたの家に仕えてた人間なのかい?」
「はい。……ですが、翌年の春、夫が消えました」
「消えた……?」
「はい。安英が半年ぶりに夫の住まいを訪ねた時には、空き家になっていて、いったいどこへ行ったのか、近隣の人も何も知らなくて――」
臨安は確かに豊かで華やかな街だが、反面、物騒なことも多い。いいことも悪いことも、この建康の比ではないといえるだろう。地方から出てきたばかりの、言葉は悪いが世間知らずの若者が、何か厄介なことに巻き込まれてしまうということは充分にありうることだった。
「その頃、桂州の西のほうでは蒙古の侵入がさかんになっていました。桂林の周辺もにわかに騒がしくなってまいりまして……蒙古だけでなく、戦いに敗れた兵士たちが馬賊になってあちこちの村を襲っているという噂もありましたし、わたくしの村からも、親類縁者を頼ってよその土地へ逃げる者たちが出始めた頃、父が風邪をこじらせて呆気なく亡くなり、あとを追うように母も……」
言葉を詰まらせ、秋琴は袖口でそっと目もとをぬぐった。
「……そうしたこともあって、両親の葬儀をすませたあと、わたしは家や土地を処分し、夫の母と安英を連れて臨安に向かいました」
「それは旦那さんの行方を捜すためかい?」
「そうです。桂州もかなり物騒になっていましたし……」
「けど、じゃあそれがどうして、その……臨安じゃなくこの建康に?」
「……義母が病に倒れたのです」
桂州から杭州まで、長江沿いに船を使ってもかなりの長旅になる。秋琴の姑がいくつだったのかは知らないが、過酷な旅に疲れ切った老婆が病臥しても無理はない。
「臨安までもうひと息というところでしたが、旅を続けるには義母の病状は重すぎました。やむなくこの街に腰を落ち着けて義母の回復を待ったのですが――半年ほどの闘病の末に、義母も客死いたしました」
「それは……何といったらいいか」
建康までの旅費と義母の薬代で、秋琴が持っていた財産はほとんど底を尽きていた。そこで秋琴は、義母の葬儀代を工面するために、自分自身をこの探花楼の女将に身売りしたのだという。
「え……? だって……旦那さまを捜してる途中なのに――?」
「おっしゃりたいことはよく判ります」
秋琴はうつむき、ぐっと唇を噛み締めた。
「……ですが、父はあの人に約束したのです。我が家で最後まで義母の面倒を見る代わりに、夫には科挙に専念してもらいたいと。父も母もなくなりましたが、だからといってその約束を反古にしていいはずもございません。父が交わした約束は、わたくしが引き継いで守らなければならない……たとえその約束がなかったとしても、義母は夫の母、わたくしにとっては母も同然なのですから」
この国で古くから尊ばれてきた倫理観、道徳観に照らせば、秋琴のおこないは称賛に値するものだろう。ただ、実際には、義母の葬儀のためにみずからを妓楼に売ることができる妻はほとんどいない。葬儀代を工面するどころか、たいていの女は、実家を処分した時点で義母を放置して逃げ出している。
「頑固というか何というか……律儀すぎるよ、あんた」
月瑛は酒をあおって溜息をついた。
「ここの女将には、義母の葬儀のことも含め、たいへんお世話になりました。安英もいっしょにここへ置いてもらえることになりましたし……ですから、わたくしはここで恩返しのつもりではたらかせていただいております」
「なるほど……あなたのような人が妓女をやっている理由がようやく判りましたよ。いろいろあったんですね」
「いえ……」
「……それで、結局あんたの旦那さんの行方はまだ判らないのかい?」
「夫のことは……実はもうもう諦めております」
小さく鼻をすすり、秋琴は首を振った。
「いまさらわたくしがどんな顔をして夫に
「あんたの境遇には同情するけどさ……そこまで自分を卑下しなくてもいいんじゃないかい? わたしはそういう男目線のものの考え方ってのがどうにも気に食わなくてね。好きで妓女になったわけでもあるまいし」
「そうです、むしろ旦那さんは、秋琴さんに泣いて感謝すべきところですよぅ!」
「まあまあ、おふたりとも、秋琴さんがそういうお考えである以上は、私たちがあれこれいうことでもありませんし……」
「何だい? 先生は秋琴さんがここまでやるのが当然だって考えなのかい?」
「そうですよう! だから先生も、ご自分のご家族をそんなないがしろにできるんじゃないんですかぁ?」
「本当に、いいのです。ありがとうございます。わたくしのために……」
月瑛と白蓉をなだめる秋琴は、真っ赤な目もとを押さえて微笑んでいる。
「……考えてみれば、もし夫が臨安のどこかにいるのであれば、桂州の惨状も耳に入っているはずですし、ふつうなら義母の身を案じて村に戻ってくるところでしょう。ですが、それがなかったということは、おそらく夫はもう――」
すでに夫はこの世の人ではない――秋琴はそう思い込むことで、自身の心にふたをしているのかもしれない。彼女がそう判断したのなら、周りの人間があれこれいうのはお門違いというものだろう。
ただ、それでも文先生は、夫と再会することはあきらめたという彼女の言葉の裏側に、何かしらの含みがあるように感じていた。特に根拠があるわけではない。ただそう思ったのである。
月瑛の前に置かれていた甕を持ち上げ、文先生は軽く揺すった。
「当たり前ですが、もういくらも入っていませんね」
「何だい、急に?」
「いえ、私も飲みたくなったんですよ」
「あ、それでしたら今すぐ店の者を呼びますので――」
「いえいえ、自分で厨房まで行ってきますよ。居候は立場をわきまえるものですから。それに、少しここの庭を見て回りたいというのもありますしね」
秋琴の申し出を固辞し、文先生は立ち上がった。
探花楼には、店の中心となる楼閣の周囲にいくつもの離れが配されており、そのそれぞれが瀟洒な庭に面していた。どの庭もていねいに仕上げられていて、よく見てみれば、少しずつ時期をずらして花が咲くように、何種類もの草木が植え込まれている。一年を通じてつねに何かしらの花が庭をいろどるように設計されているのだろう。さすがは建康屈指の名店と謳われるだけのことはある。
「――あ、女将さん」
厨房までやってきた文先生は、料理人や小間使いたちにあれこれと指示を出している女将を見つけて声をかけた。
「あらあら、文先生、どうなさったんです?」
「いやね、月瑛さんがお酒の追加が欲しいというものですから」
「あら、いってくだされば誰かに届けさせましたものを……」
「別にいいんですよ、見るからに立て込んでるじゃありませんか」
本来なら、厨房が忙しくなるのは夕刻――本格的に客が集まってくる頃合いを迎えてからのはずだが、それがこの時間からばたばたしているのは、それだけ陶大人たちのもてなしに力を入れているからだろう。
女将は手ずから大甕に柄杓を差し入れ、小ぶりな甕へと酒をそそぎながら、
「――いかがですか、当店の居心地は?」
「いや、さすがは建康一といわれる名店ですね。酒や料理が絶品なのはいうまでもありませんが、私は特に庭の造りに感銘を受けましたよ。手を抜いているところがどこにも見当たらない。すばらしいのひと言です」
「おやおやおや、ありがとうございます。酒と料理と女たち、ここをほめてくださるお客さまは多いのですけど、文先生は目のつけどころが違いますわねえ」
「いや、それほどでも……ああ、ところで少し小耳にはさんだんですが、陶大人がお連れになったお客人は、あの江先生だそうですね」
わざわざあたりをはばかるような口調でそうささやくと、女将は目を丸くして文先生の顔を見つめた。
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