第二章 流されてきた女 ~第四節~

「そのことにがまんできず、ついついお偉いさんたちの態度や考え方を批判したり何だりと――要はいろいろといいすぎた結果がこれです」

「そうだったんですかぁ……」

「ですけど、ならば文先生はなぜ旅をなさっておいでなのです? 故郷で待つご家族がいらっしゃるのでは?」

「いますよ。妻と息子がいます」

 それを聞いた秋琴は、なぜか我がことのように哀しげな表情を浮かべた。

「ならばなぜ……」

「どのみち今のままでは田舎の小役人くらいにしかなれませんし、ならばいっそ野に下って、今のうちに自分の目でこの国の本当の姿を見ておこうと思ったんです」

 透き通った冷たいまつちゃをすすり、文先生はいった。

「――さいわいといっていいかどうかは判りませんが、跡継ぎ問題でもめている間は、蒙古はこの国に大々的に攻めてくることはないでしょう。ですが、あらたな皇帝が即位すれば、蒙古はふたたび大軍を差し向けてくるはずです」

 以前とくらべて領土が半減したとはいえ、宋はいまだに大陸一の豊かな国であり続けている。反面、軍は弱く、政をつかさどっているのは危機感に欠ける役人たちばかりだった。こんなにうまそうな餌を、虎狼のごとき蒙古が放置しておくはずもない。そもそも蒙古は宋を攻めるためにこうらい、すでに大理や大越だいえつ高麗こうらいといった周辺の国々を支配下に組み込んでいるのである。

「――蒙古が足踏みをしている間に反撃の手立てを考えなければなりません。今はそのために見聞を広めるべき時だと私はそう割り切っているんですよ」

「だとしても、文先生が科挙に集中していた間、それをささえていたご家族の苦労はかなりのものだったはずですわ。せめてわずかな間だけでも、実家に戻って奥方やお子さんとすごしたって――」

「息子は私の顔を覚えてはいないでしょう。生まれてすぐ故郷を離れましたから。妻は……本心はどうなんでしょう? 男が何かをなすと決めたのなら、家族のことなど気に懸ける必要はないと、旅立ちの時にはそういって見送ってくれましたが……いつか家族にむくいてあげられればいいなとは思っていますよ」

「…………」

 自嘲の笑みを消し去り、文先生はふときざした疑問を口にした。

「秋琴さん、ひょっとして、お身内に科挙を受験なさったかたがいらっしゃるのではありませんか?」

「え?」

 痛ましげな表情を見せていた秋琴が、文先生の問いにはっと顔を上げた。

「科挙に及第して官吏となれば、高い地位と名声、そしてもちろんそれに見合った富を得ることができます。この国の支配者は皇帝陛下ですが、実際に国を動かしているのは、陛下のもとではたらく官吏たちですしね。だから昔から、身内からひとりでも科挙の及第者が出れば、その栄達にぶら下がって、一族揃って五〇年は遊んで暮らせるといわれることもあります」

「へえ……そりゃ景気のいい話だ」

「それほどの栄達につながるわけですから、優秀な子供に周りの人間が期待をかけるということはよくあります。家族はもちろん一族全体で受験生をささえるとかね。……ただ、それで結果が出ればいいんですが、かならずしも努力が実るとはかぎりません」

 多くの若者たちが立身出世を夢見て科挙に挑み、しかし、その大半は栄華を掴むことなく挫折していく。中には夢をあきらめきれず、はたちになる前から還暦をすぎるまで、幾度となく受験を繰り返す者も珍しくない。そして、場合によっては、それをささえていた周囲の人間たちも困窮していくことになる。

「……先ほどの秋琴さんの言葉には実感がこもっていたというか、そういう実体験がおありなのかな、と思いまして」

「……ございます。ええ」

 重苦しい溜息とともに肩を落とし、秋琴はわずかに唇を釣り上げた。そんな哀しげな笑みは、美しくはあっても、彼女には不似合いな気がする。

「わたくしは今年で二五になります。すでにお話しした通り、生まれたのは桂林近くの村で、わたくしの家はそれなりに裕福でしたが、あいにくと両親は子宝に恵まれず、子供はわたくしひとり……そのため父は、いずれ婿を取ることを考えておりました」

「なるほど……どことなし品があると思ってたけど、やっぱり秋琴さんはお嬢さんと呼ばれるような生まれだったわけかい」

「いえ、決してそのような……本当に田舎でしたので」

 秋琴はそういってかぶりを振った。しかし、彼女が両親のもとで大切に育てられてきたのだということは、身に着いたふるまいを見ても何となく想像がつく。

「……わたくしには四つ年上の幼馴染みがおりました。早くに父を亡くし、母親とふたりで貧しい暮らしをしておりましたが、彼は幼い頃から聡明だったため、父は紙や筆、書物などを買いあたえるなどして援助をしていたのです」

「つまり、その子を科挙に及第させるとか、そういうことを考えて?」

「そうです」

「そ、それで、幼馴染みさんは合格できたんですかぁ?」

「はい。……彼は父や周囲の期待に応え、二度目の受験できょうに合格しました」

「郷試?」

「大雑把にいうと、科挙は三段階に分かれているんですよ」

 郷試は全国各地でおこなわれる科挙の第一関門で、ここで合格した者だけが都――臨安で実施されるかいに進むことができる。その先にあるのが、宮中でおこなわれる最終試験の殿でんだった。

「臨安に旅立つ前に、彼は我が家へ婿入りし、わたくしの夫となりました。旅費も滞在費も、村に残していく彼の母の面倒もすべて我が家で見るということで、彼には後顧の憂いなく試験に集中してもらいたいと、父がそう申し出たのです」

「け、結婚? 急に!? ――ってわけでもないか。もともと幼馴染み同士だったんですもんねえ」

「そりゃあ確かにかなりの負担になるねえ。そいつはいつ頃の話なんだい?」

「もう五年近く前のことです。秋に婚礼をすませて、暮れにはもう出発でした」

「でもそれじゃ、せっかく結婚したのに旦那さまとすごす時間なんてほとんどなかったんじゃないんですかあ?」

「それでもよかった……そう自分にいい聞かせていました。春になればあの人は嬉しい知らせといっしょに戻ってきてくれる、故郷に錦を飾ってくれる、夫婦としての喜びは、そのあといくらでも味わうことができるのだからと――」

 秋琴は瞳を伏せ、静かに嘆息した。その口ぶりからすると、彼女の新妻としての喜びの日々は、ついに訪れることはなかったのかもしれない。

「……翌年の春、夫は帰ってきませんでした。代わりに届いた手紙には、力およばず落第したとありました」

「手紙だけ寄越して帰ってこなかったのかい?」

「はい。桂林に戻るよりこのまま都に留まって、次の科挙に備えて勉強を続けたいというのが夫の考えでした。書物などを手に入れるには田舎より都のほうが何かと都合がいいのは確かですし、それには父も賛成しました。ただ、そのためには我が家から夫に仕送りを続けなければなりません。我が家は裕福とはいえ、あくまで田舎の話です。それこそ陶大人のような素封家とはとてもくらべられるものではありませんから、期限を区切ったのです」

「期限?」

「科挙は三年に一度おこなわれます。ですから、次の科挙に及第できなければ、その時はもうあきらめて桂林に戻り、婿として家を継いでもらいたいと……夫は父とそう約束を交わしたそうです」

「要するに都でもう三年、勉強するってことか……」

「それからは、半年に一回、我が家から臨安に使いの者を出すようになりました。夫に仕送りを届け、代わりに父と義母、それにわたくしへの手紙を持って……ほら、月瑛さんにお助けいただいた時にいっしょにいたあの老人、あの安英あんえいがいつも遣いに立ってくれていました」

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