第二章 流されてきた女 ~第三節~
池の水面に浮かぶ落ち葉やごみを箒でかき集めていると、秋琴の隣で昼間から酒を飲んでいた
「……というかさ、白蓉も文先生も、頼まれてもいないのに真面目だねえ」
「私たちが真面目というより、月瑛さんが図太いんですよ」
秋琴の恩人という立場を得た文先生たちは、
「本当に……そのようなこと、お気になさらずともよろしいですのに……」
「いえいえ、いいんですよ。こちらこそお世話になっているんですから、このくらいのことはさせてください」
「そうですよう。……昼間っからお酒ばっかり飲んでる人もいるんですから」
「いっとくけど、わたしだって役に立ってるだろ」
「どういうふうにですう?」
「秋琴さんの用心棒兼話し相手だよ」
「またそんな都合のいい……」
「いえ、本当に話し相手をしていただければそれで充分ですから」
「ほら、秋琴さんもこういってる」
どこか自慢げにいって、月瑛はまたひとつ杯を干した。白蓉はそんな姉弟子に不満があるようだったが、ゆうべの一件に完全に片がついたとは考えにくい以上、月瑛の用心棒役というのは存外に悪くないのかもしれない。
「昨夜は歓待を受けるばかりでお話が中途半端になってしまいましたが」
文先生は箒を立てかけ、四阿に入って秋琴の向かいに腰を下ろした。
「――そもそも、秋琴さんはなぜあんな場所にいたんです?」
建康という土地柄を考えれば、馴染みの客の舟遊びに興を添えるために妓女が呼ばれることはよくあるだろう。それならあの時間に運河端にいたのも理解できる。が、状況から見てそういう事情があったとも思えない。
しかし、その問いをぶつけられた秋琴は、針を動かす手を止めてうつむいてしまった。
「それは……」
秋琴が何もいえずに口ごもっていると、隣の庭へとつながっている
「……何でしょう?」
「ああ……大事なお客さまがいらっしゃる頃なのでしょう」
「大事なお客?」
「
月瑛に答えた秋琴の表情は、文先生に質問をぶつけられた時とは打って変わって、どこかほっとしたようなやわらかい笑みにいろどられている。話題を切り替えることができてよかったと喜んでいるようだった。
「へえ……こんな昼間から楼に上がるなんて、その陶大人てのはよほどの遊び人てことかい?」
「そこはまあ……ですけど、それもかなり昔のことで、奥方さまを亡くされてからはとんとお見かぎりだったとか」
「それって逆じゃないですかあ? むしろ奥さんが健在な時こそ、こういう遊びはがまんすべきだと思うんですけど?」
「まあまあ、大事な家族を失えば、大きな心境の変化が生じることはありますから」
潔癖な白蓉をなだめ、文先生は秋琴に尋ねた。
「――つまり、いったんは足が遠のいたかつてのお得意さまが、最近になってまた通ってくれるようになった、ということですか?」
「ええ。……ですけど、以前とは違って、大人は日中にお連れさまとやってきて、お酒を召しながらあれこれと語らうだけで、日暮れ前にはお帰りになるのだそうです」
「え? せっかくこんな店に来たのに綺麗どころを呼ばないんですか?」
妓楼とはいえ、要は料亭である。商人たちが商売の話をする場として使われることもあるだろうが、それにしてももったいなく思える。
「先生のいいようじゃないが、何が楽しくてここへ来てるんだい?」
「そこまでは判りかねますけど……陶大人はこの街でも指折りの商売人でいらっしゃいますから、定期的に来ていただけるだけでも、わたくしどもにとってはありがたいお話なのですわ。あの陶大人が贔屓にしている店ということで評判になるんですもの」
「そういうことですか……」
どうやらその陶大人は、ここへ来ると最上級の酒と豪華な料理を用意させ、女遊びなどしないのに、帰りには女将に充分すぎる心づけを置いていってくれるらしい。昔馴染みならずとも、女将がああしてもてなしの準備を急がせるのも当然だろう。
「……ですけど、きょうはいつもより――」
「何です?」
「いえ、ちょっと……いつもよりばたついているのが少し気になりまして……」
秋琴は四阿を出ると、ちょうど円洞門の向こうを通りかかった娘を呼び止めた。
「――何かあったの? やけに慌てているようだけど」
「あ、秋琴姐さま……そ、それが、陶さまのお連れさまの数がいつもより多くて、急遽もうひとつお部屋をご用意することになったんです」
「部屋をもうひとつ? そんなに大勢でご来店いただいたの?」
「大勢というか……」
娘は左右をきょろきょろと確認してから、秋琴のそばまでやってきた。
「……陶さまのお連れさまというのが、どうやらかなり地位の高いお役人さまらしく、それで、護衛のかたがたにも別にお席を用意してほしいとおっしゃられまして……」
「護衛連れの役人?」
もれ聞こえてきた秋琴と娘の会話に、文先生は思わず口をはさんでしまった。
「――失礼、そのお役人というのはどなたです?」
「は? いえ、お名前までは……ただ、陶さまはそのお連れのかたのことを、確か、
「江先生――」
その名前を反芻しながら、文先生は浮かせかけた腰を下ろした。
「ごめんなさいね、呼び止めてしまって。ありがとう」
「はい」
秋琴に見送られ、娘はまたぱたぱたと足早に去っていった。
「なあ、先生」
月瑛が文先生に耳打ちする。
「――その江先生ってのは何者なんだ? ひょっとしてあんたの知り合いかい?」
「判りません。私の知っているかたかなと思ったのは事実ですが……でも、江なんていうのはさほど珍しい姓ではありませんからね」
「そりゃそうだけど、その人は地位の高い役人なんだろ? あんた、役人の知り合いがいるってことかい?」
「……何ですか、その目は?」
月瑛の怪訝そうな表情に気づき、文先生は眉をひそめた。獅伯はいつも文先生のことを、科挙に挑戦して夢破れた落第書生といっていたが、もしかすると月瑛までそれを真に受けているのかもしれない。
「あのですね、いっておきますが、私は決して落第生じゃありませんよ? あれは獅伯さんが勝手に決めつけていっているだけなんですから」
「いや、だってあんた、科挙に合格したのなら宮仕えしてるはずだろ? なのにこんなふらふら旅して回ってるってことは、つまりはそういうことじゃないのかい?」
「違いますよ。……今度会ったら、獅伯さんにも一からちゃんと説明しないとだめだな、これは」
「文先生は……科挙を受けたことがおありなのですか?」
四阿に戻ってきた秋琴が、今度は文先生たちのやり取りに割って入ってきた。刺繍のための道具を片づけ、よく冷えた茉莉花茶を碗にそそいでくれている。
「ありますよ」
「あんた確か、まだ二四、五だったよね? 冗談抜きに科挙に合格してんのかい?」
「ええ、一応は」
「何なんですぅ、その曖昧な返事は?」
「いや、合格したのも本当ですし、官吏になったのも事実なんですが、ちょっと……上役とぶつかって免官されてしまいましてね」
「免官?」
「クビってことですよ」
女たちの視線が自分に集中している中、文先生は自嘲の笑みをこぼして頭をかいた。
「……月瑛さんや白蓉さんはすでにお気づきでしょうが、私はいつもひと言多いんです。処世のためならそこは吞み込んでおくべきという場面でも、黙っていられないことがあれば口に出さずにはいられない」
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