第二章 流されてきた女 ~第二節~

「なあ香君、おまえのほうから父上に一筆書いてもらえないかな?」

「それはいいけど……通詞って何?」

「通詞というのは異国の言葉をこの国の言葉に翻訳することのできる人間だよ。ほら、父上は泉州にやってくる異国の商人とも取引があるだろう? だから、そういう通詞の知人を獅伯どのにご紹介できれば、多少なりとも恩返しができると思うんだけど」

「ああ、そういうこと? うん、お安いご用よ」

「あ、いや、そんな大袈裟な話でもないんで――」

「いいんです、おとうさんはわたしが頼めばたいていの話は聞いてくれますから」

 大きな団扇で口もとを隠し、香君は楽しそうに笑った。そういう仕種のひとつひとつも、人妻というよりは少女といったほうがよさそうな、頑是ないものを感じさせた。大人として対応すべきなのか、それとも子供として接するべきなのか、どうにもあつかいづらい。

「それじゃわたし、さっそくおとうさんへの手紙を書いてくるね。えっと……確か、林獅伯さん、でしたっけ? ちょっと待っててくださいね」

 何か面白いことでも見つけたかのように、香君は足取りも軽く回廊を引き返していく。それを見送った獅伯は、

「……若いな」

「何といいますか、いつまでも娘気分が抜けないと申しますか……お恥ずかしい」

「いや、別にそれはいいんだけどさ。……ほんとにいいのか? 何か紹介状がどうのみたいな大袈裟な話になってるけど」

「むしろ獅伯どののほうに何か困ることでもおありなのですか?」

「ないよ」

 あらためて腰を据えて酒を飲み始めた獅伯は、幼な妻が去っていった回廊のほうを一瞥し、低い声でいった。

「――たださ、あんたも少しは警戒したほうがよくないか? ゆうべ痛い思いをしたばっかりだろ? もしおれが実はとんでもない悪人だったらどうする? こうしてこの屋敷に連れ込んだことはもちろん、義理の親父さんのところにまで紹介状つけて送り込んだりして、万が一何かあったらどうするわけ?」

「え……? でも、は? 獅伯どのは、そんな――」

「たとえだよ、たとえ! ……あんたさ、おれがいうのも何だけど、勉強する前に一度世の中に出てはたらいたほうがいいんじゃないのか?」

 こうして実際に接してみると、似ているのは非力な書生ということくらいで、志載と文先生はまったく似ていない。少なくとも文先生は、飄々としているためにそうと感じさせないだけで、実際には各地を旅していて世間の厳しさや暗部というものを経験しているし、危険を回避する知恵や用心深さも持っている。

 しかし、一方の志載は、科挙の受験に必要な知識は持っていても、生きていくための知恵のようなものを持ち合わせていないような気がする。発言の端々にちらつく軽薄さは、彼のそんな世間知らずさから来るものなのだろう。そういう意味では、あの香君と似合いのままごと夫婦なのかもしれない。

「確かに自分が世間知らずという自覚はあります。お恥ずかしながら獅伯どののご指摘通りでして……もともと私は義父の祐筆としてはたらいていたのですが、その頃からさして役に立てていたわけでもないですし」

 空になった獅伯の碗に酒をそそぎ、志載はまた苦笑した。ただ、それは自分の不甲斐なさを悔やむ自嘲には見えない。恥を恥とも思わず、それこそ酒の席での笑い話のひとつのように語る志載に、獅伯は内心あきれていた。

「ですが獅伯どの、だからこそ私は、義父の恩にむくいるためにも次の科挙こそは――と思っているわけです」

「……なるほどね」

 字面だけなら殊勝なその言葉も、ここまで志載が意図せず丹念に積み上げてきた軽薄さを打ち崩すことはできない。それ以上何ともいえず、獅伯は渋い表情で酒をあおった。

 慢性的な頭痛を散らすために酒をよく飲む獅伯だったが、無駄に饒舌な志載が相手だったせいか、その日はいつになく飲みすぎてしまった気がする。


          ☆


「――このけんこうは、ほんのいっときだけ、都になったことがあるんですよ」

 白蓉といっしょに庭先を掃き清めながら、文先生はつらつらと語った。

「今から一五〇年近く前のことになりますが、この国が北方の騎馬民族の襲撃を受けて滅びかけたことがありましてね」

「それって最近の話なんじゃないんですかぁ?」

「当時この国に攻めてきたのは、女真じょしん族と呼ばれる騎馬民族が打ち立てた国、金です。そして、三〇年ほど前にその金を滅ぼし、今またこの国を滅ぼそうとしているのが蒙古族なんですよ」

「え? 蒙古とはまた別の国なんですかぁ? 騎馬民族って、みんな同じものだと思ってました」

「蒙古、女真、契丹きったん――我が国の北と西には広大な草原が広がっていて、そこには無数の騎馬民族が住んでいるんです。もちろん、私もそのすべてを知っているわけではありませんよ」

「へえ……」

 最近、白蓉はくようは異国の話を聞きたがることが多くなった。どういう心境の変化なのか、特に本人の口から語られたことはないが、もしかするとそれは、しゅうで出会った異国の少女シャジャルと無関係ではないのかもしれない。いずれにしろ、この国の人間はもっと世界に目を向けるべきだと考えている文先生にとっては、そうした白蓉の好奇心は好ましいものだった。

「――その女真族によって当時の都だったかいほうが攻め落とされた際、欽宗きんそう皇帝をはじめ多くの皇族のかたがたが捕えられたのですが、皇帝の弟君に当たる康王こうおう殿下はかろうじて難を逃れ、江南へと落ち延びたわけです」

「捕まったあと、皇帝陛下はどうなったんですう? やっぱり首を斬られちゃったんですかあ?」

「いえ、人質として金に抑留されたままでした。本来なら、莫大な身代金と引き換えにしてでも欽宗皇帝を連れ戻し、金と和平を結ぶべきだったのかもしれませんが、康王殿下は、江南の地でご自身があらたな皇帝として即位なさったのです」

「……それ、もともとの皇帝陛下はちゃんと納得してたんですか?」

「していなかったでしょうねえ。実際、当時はかなりもめたようです。帝位の継承にはいろいろと難しい手続きがありまして、それを無視した即位は無効だと騒ぐ廷臣たちも多かったらしく、康王殿下あらため高宗こうそう皇帝の朝廷は、しばらく不安定な状態が続いたとか……」

 そうした混乱の時代に、建康は一度は都となった。ただ、長江をはさんでいるとはいえ金の領土にあまりに近すぎることから、最終的にあらたな都は、建康よりさらに南に位置する杭州こうしゅうすなわち今のりんあんと定められたのである。

「――ほら、この店は大通りに面しているでしょう? あの通りをまっすぐ北に向かっていった突き当りにある大きな建物が行宮あんぐうですよ。当時はあそこに陛下がおられたわけです」

「行宮……?」

「行宮というのは、行幸などに際して置かれる皇帝陛下のお住まいのことです」

「本当に……文先生は博識でいらっしゃいますのね」

 四阿あずまやで刺繡をしていたしゅうきんが、ふと顔を上げて感心したように呟いた。

「いやまあ、私が多少なりとも人に誇れるのはこういうことくらいでして……」

「ご謙遜を……お恥ずかしながら、そのような話は初耳です」

「あれ? 秋琴さんはここの生まれじゃないんですか?」

 箒を持つ手を止め、ひと息ついて尋ねる。すると秋琴はぎこちない笑みを浮かべ、そっとかぶりを振った。

「……生まれはけいりんの近くです。この街に来たのは二年ほど前のことで」

「そうでしたか」

 実際に足を運んだことはないが、桂林は王維おうい韓愈かんゆといった詩人たちが詩に詠んできた古来よりの景勝の地である。ただ、宋の南東の端に位置しており、数年前に蒙古によって征服された大理だいりこくにも近い。そのため最近では、たびかさなる蒙古軍の侵入によって治安は悪化の一途をたどっているとも聞く。桂林で生まれた秋琴が、今はこの建康で妓女をしているというのは、おそらく戦禍に遭って追い立てられるように故郷を離れた結果なのかもしれない。

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